異世界君主生活

読んだ本の感想。

須崎正太郎著。2016年7月27日 第1刷発行。



以下は、「ライトノベル作家 須崎正太郎のブログ」へのリンク。

http://blog.livedoor.jp/suzaki_syoutarou/

異世界と現実世界を行き来出来るようになった主人公が、異世界に様々な物を持ち込んで栄える話。

<導入した物>
・蚊取り線香
・即席麵(アブラナの種から油を自作する)
・日本刀
・紙幣(和紙を持ち込んで印刷する)

異世界物作品は、主人公を賢く見せるために、周囲の人間が弱くて愚かな世界に転生させると聞いた事があるが、そういう話だと思った。

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高校時代を思い出す理由

この数か月間、高校生だった時の事を思い出す事が多い。

それは現在の自分の状態が高校生の時と似ているからだと思う。

毎日、同じ場所に、似たような服装で通い、同じ服装をした人々と単調な作業を繰り返す。職場には派閥があって、一緒に昼食を食べに行くグループ分けで揉めたりする。

平均年齢50歳くらいの高校生達。

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<世界史>の哲学 中世篇

読んだ本の感想。

大澤真幸著。2011年9月20日 第一刷発行。



第1章 フィリオクエをめぐる対立
1 消える死体/残る死体
ソクラテスの最期の言葉は、「アスクレピオスに雄鶏を」という依頼。ソクラテスの死体が雄鶏の死体に置き換わる。ホモ・サケル = 動物的生に還元された人間の身体としてのソクラテス。それは病を治された借りへの返済として神に贈与される。

キリストの死体は磔にされた姿で衆目にされされ、やはり神に捧げられる。

ソクラテスの死体は消えるが、キリストの死体は残ってさらされる事を指向している。

2 二種類の資本主義?
ミシェル・アルベールは、資本主義には以下の二種類があるとした。

①アメリカ型資本主義
経済的価値以外に無関心。
②ライン川流域的資本主義
宗教的背景を持つ。

著者は、一つの資本主義の中に二重性があるとする。

3 西洋が始まったとき
西洋の中世を五世紀末からの約1000年間と見做す。キリスト教が生活の全領域に滲透した時代。西洋という文明的単位が、西ローマ帝国のあった場所で形成された。

4 西と東のキリスト教
西欧と東欧を分かつのは、カトリックとギリシア正教の違いである。

西欧の中世後期には、都市国家間のネットワークを中華にする資本主義的経済があり、東欧から穀物等を輸入し、都市製品を輸出していた。

<ギリシア正教とカトリックの違い>
教会建築の違い。ギリシア正教では、主祭壇がある内陣に直接入る事が出来ず、聖像壁の向こう側にあるが、カトリックでは外陣の端から内陣まで見通す事が出来る。

ギリシア正教での神は不可視の抽象性を保つが、カトリックでは可視的具象性を帯びる。西欧では聖なる権威(教皇)と俗なる権力(皇帝)が分離したのと逆に、ピザンツ帝国では宗教的権威と世俗の権力が一元的である。

5 「フィリオクエ」の有無
「父と子から生じた聖霊」として、「と子」をラテン語でフィリオクエと表す。

ギリシア正教では聖霊が専ら父から生じると考え、三位一体では父を優位にする。カトリックでは父と子(イエス・キリスト)が同格になる。子は地上に受肉した神である。

これは父の権力のもとに一元化したピザンツ王国と、父(抽象的権威)と子(具体的権力)が拮抗した西欧と対応しているのかもしれない。

第2章 信仰に内に孕まれる懐疑
1 大学の言説
ジャック・ラカンは、言説(語り)を以下の四種類に分類した。

①主人の言説:行為遂行文
②大学の言説:事実確認文
③ヒステリーの言説
④精神分析家の言説

認知的言説 = 事実確認文全体を「大学」と名付けた事にラカンの西欧的特徴がある。近代以前に大学があったのは西欧(ラテン語文化圏)だけで、11世紀末~13世紀前半に多くの大学が設立された。

<大学>
教師達の同業者組合。

①開放性
普遍的教育方法に基づき、市民一般を教育する。都市の自由民に必須とされた文法、論理学、弁論術、算術、幾何、天文、音楽を教える
②世俗性
聖書の記述に盲従せず、官僚を養成する機関でもない

中世欧州において、知(学問)が信(宗教)から独立した事を示すとする。様々な文化で世界の説明は宗教的教義の形式を採用するが、大学は教会に付属しておらず、主人(神)の言説から大学の言説が独立した。離反は啓蒙主義の時代に完結する。

2 神の存在証明
神の存在証明は、中世の哲学者の中心的主題である。11世紀のカンタベリーのアンセルムスに始まり、トマス・アクィナスが証明方法を5つ提示している。
証明しようとする行為が神を棄損するとしている。信仰を批判的に検討する合理性の始まり。

3 普遍論争
神の存在証明が行われた理由は、神の存在への不信を表明する唯名論者との論争(普遍論争)がある。

夏目漱石は人間である:
「人間」とは一般的、普遍的集合としての人間を意味する。

人間が夏目漱石を包括するものとすると、夏目漱石と人間は相互に外在している事になり、イコールでなくなる。人間が夏目漱石に内在する事にすると、人間は夏目漱石の一要素となり、夏目漱石は人間と非人間の合成物になってしまう。

アベラールの唯名論は、このように言葉が意味するところの普遍者が実在するかについて、言葉は不関与とする。言葉で表現出来た者が実在するかは分からない(神の存在は否定していない)。

⇒キリスト教における自己否定要素の発現

4 存在の類比/一義性
以下は中世哲学の思索家。

〇トマス・アクィナス
神の存在を証明しようとした。人間の経験によって神を知りつつも、被造物の世界から超越した存在として神を扱わなくてはならない。「存在の類比」として、神は実在物の隠喩として語る事が出来るとした。

→神は普遍的存在

〇ドゥンス・スコトゥス
神と実在物の同義性を事象のレベルでなく、概念のレベルに見い出して、差異を確保しつつも両者に共通するものを語る「存在の一義性」を主張。概念として考えた時に、神も実在物も同義とする。

→神は単一的個体(内的固有の様態)

**************

中世において、神と現実世界の断絶性と連続性を両立させる事は困難だった。カトリックにおいては、聖霊は父なる神と子なるキリストの両方から発しており、神であるキリストは人間でもあるために十字架の上で死んでいく。

第3章 二本の剣
1 統治という技術
西洋キリスト教社会では、聖なる権威と俗なる権力の二元性がある。

<ミシェル・フーコー>
権力関係の様態をいかに区分。

①法システム
②規律メカニズム(法制度の外側で作用)
③人間達の統治

主権と統治は18世紀に分離したとする。

2 足萎えの王
円卓の騎士の物語群の一つ。足萎えの王の傷は、円卓の騎士ガラハッドが見つけた槍の先に残っていた血を塗り付けた事で治癒する。この寓話は、何もしない王の統治活動を象徴しているとする。王の権威はキリストの血によって、決定的に付与されている。

3 キリストの傷口-引力の斥力
西洋中世は、聖遺物等の「死体」に魅了されたように思え、1320年の作とされる「アルマ・クリスティ」の図象では、キリストの傷の部分が信者達によって集中的に触られた事によって剥落しているという。キリストの傷口には、信者の身体を引き寄せる力がある(統合)。

13世紀~14世紀には、脇腹の傷口から乙女を出産する図象が広く流布したという。生まれた乙女はエクレジア(教会の寓意像)であり、キリストは傷口から教会を出産している(分離)。

中世末期からルネサンスにかけて流布した執り成しの図象では、キリストとマリアが脇腹の傷口と乳房を指し示し、等価性を表す事で分離した体の再結合を予定している?

4 存在論的パラダイムとオイコノミア的パラダイム
ジョルジョ・アガンベンの『王国と栄光』では、中世キリスト教神学をいかに区別する。

①存在論的パラダイム:霊的権威に対応、神の存在を問う
②オイコノミア的パラダイム:世俗的権力に対応、神の活動を問う

古代ギリシアにおいては、オイコス(家父長的関係を示す組織)とポリス(都市国家)は区別されており、政治はオイコスを切り離す事で成立していた。

神の存在を把握しても、神が被造物にどのように関係するのかは説明出来ない。オイコノミア的パラダイムは、三位一体の子という基体を中心に据えており、子なるキリストが受肉して救済の実践に関与する。

5 一般摂理と種別摂理
三位一体の解釈では、神は各個人を配慮せずに普遍的法則を決定する(一般摂理)。個々の人間への恩寵は代務者が行う。代務者の原型はイエス・キリストである(種別摂理)。

イエス・キリストによる律法の否定では、律法を否定した上で、律法をキリスト自身の意志の表現として再肯定する。キリストは否定された律法を再帰属させる具体的人間である。

キリスト教において権力が二重化するのは、超越的神に帰属する規範があり、それを具体的命令に転換する指導者が要請されるから?

第4章 謝肉祭と四旬節の喧嘩
1 謝肉祭と四旬祭りの喧嘩
J・ル=ゴフは、西洋中世の人間生活は、四旬節(復活祭前の四六日間、断食と節制が要求される)と謝肉祭(四旬節前の宴、派手な肉食が許される)の間を揺れ動いたとする。

四旬節的精神:法や規範に従う精神
謝肉祭的精神:快楽を強調する精神

謝肉祭は12世紀に確立し、これはグレゴリウス改革(四旬節的精神)が完成した時期である。キリスト教の二重性が垣間見える。

2 正当な性交
男女の合意に基づくキリスト教的結婚(一夫一妻制、解消不可能等)が定着するのは12世紀である。それまでの一夫多妻制の婚姻に代わって制度化されたのは、1215年のラテラノ公会議においてで、性欲の過剰発露を抑制するために導入された。

中世には性に関する抑圧的規定が多い。身体に対しても否定的で、古代ローマで一般的だった裸体を提示する共同浴場やスポーツ競技場が消滅した。

3 原罪観念の変容と圧倒的矛盾
中世キリスト教は、原罪を基本的に性的罪と見做した。キリストが肯定的に指示したはずの愛が最悪の罪となる矛盾。

4 抑圧された体液の涙としての回帰
精液や血液への嫌悪。涙だけは恩寵の印とされた。涙は、抑圧された血液や精液の回帰かもしれない。

第5章 罪から愛へ
1 笑いの両義性
中世において、笑いは悪魔の側に属していた(六世紀の『師の戒律』等)。しかし、12世紀頃にアルベルトゥス・マグヌスは、地上の笑いは天上の幸福の予兆とした。弟子であるトマス・アクィナスも笑いに肯定的な神学上の地位を与えた。微笑みは肯定され、笑いが抑圧された中世文化の中でも、「修道士の戯れ言」という笑い話の習慣や、「ギャブ」という法螺話の伝統があった。

2 法の存在=不在
ユダヤ教とキリスト教の関係は、法と愛の関係であり、イエス・キリストは法を愛に置き換えた。神ヤハウェは世界を創造した後に、無為の内に君臨する。神が残した法は人間による恣意的解釈に開かれる。

3 愛と法の合致?
法の精神は愛の普遍化(全ての人間を対象とする)であり、愛による法の成就とは、全ての人間が愛される事である。より強い嫌悪を催す者を愛する事が倫理的に価値が高いと見做される。

4 罪と法の内在的関係
法が存在する前提として罪が必要になる。罪を犯す可能性が担保されなければ、拘束力のある法は必要無い。暴力は法治の対極にあるが、法は暴力によって維持される(W・ベンヤミンの『暴力批判論』)。罪は外観上は法と対立しているが、法の内在的構成素である。

5 罪=愛
罪(姦通)と愛(性的交わり)は内容だけを見れば同一。形式的構造が異なる。愛と法を統一しようと思えば、どちらかを否定しなくてはならない。法に従属する人間は、罪を犯し得る可能性を生きているのであり、法の支配から分離されれば、生は愛になる。

法は超越的神に帰せられて、法の妥当性を保証する神との関係を、人間であるイエス・キリストとの特異的関係に置き換えた時に、罪 = 生は法の領域から引き離される。

第6章 聖霊と都市共同体
1 三かつ一
イエスが隣人について説明した「善きサマリア人」の喩え話にあるサマリア人は、アッシリアによってイスラエル王国が滅ぼされた跡地に入植した異民族でユダヤ教に改宗した人々。ユダヤ主流派からは蔑視されていて、隣人とは縁遠い者の事である。隣人愛は普遍的で排除される他者はいない。その普遍的共同体を聖霊と呼ぶ。

このように、聖書には父、子、聖霊が登場するが、一つの神でありながら、三つの契機が独立性を保つ事になる。

2 謎の核心-子なるキリスト
物象化論の枠組みであれば、神と聖霊の関係を説明出来る。聖霊は想像の共同体であり、神として現れる。

しかし、子なるキリストが謎であり、神のもとにある普遍的共同体としての聖霊が実現するために、偶発的に現れた個人を媒介にする事に疑問がある。

3 中世都市
11世紀後半の欧州では都市化が進んだ。帝国としての一元的権威は芹何時せず、聖なる権威と封建的小領主達が併存していた。都市で生まれた資本主義が、近代経済システム(世界 = 経済)の原型となる。

4 死体が結ぶ都市
中世都市の中心には、聖人の遺体や遺物があった。宗教団体が都市の内的凝集力の中心となる。キリストの遺体の等価的代理物として、諸都市に散種される遺物を、三位一体の概念で解釈すると、子なるキリストが普遍性を指向する共同体の紐帯として機能している。

5 托鉢修道士と商人
13世紀初頭のアッシジのフランチェスコに代表されるように、田舎で暮らす宗教家だった修道士が、寄付によって生きる托鉢修道士として都市に出ていく。彼等は都市の経済的諸活動を肯定的に評価し、利潤を承認した。生けるキリストの身体の再現として、私的所有を許容する修道士達。

第7章 <死の舞踏>を誘発する個体
1 死の舞踏
中世後期に西欧で流布した、生者達が死者に連れられて墓所に向かう様子を再現した絵図。死体の有無を言わせぬ力が表現されている。守護聖人のプロセッションは公式の死の舞踏だった。

2 清貧に生きる者の富
持っている物以上に与える事は、「無」を与える事になり困難。自らを善人と思う満足が生じ、自己放棄が目指した他者が無視される。貧困である事により、自らの善を確信する矛盾。確信によって他者からの寄付を当然の事とする修道士の逆説。

3 『悪童日記』
アゴタ・クリストフの三部作。双子の悪は、隣人愛の原理に従っただけで目的化していない。他者が必要とする物を与える単純な行為を行う。彼等は一人称複数(僕等)と自称するが、別々に行動しないため、一人の人間が幻覚を見ているだけかもしれない。

4 個体の本源的不確定性
ドゥンス・スコトゥスの個体をめぐる思索について。実在論は、確定されていないものを事実的にも論理的にも原初的で優先的と見做す。個体は本来的に非確定であり、規定し尽す事が出来ずに普遍性を分有する。

対してオッカム流の唯名論では、個体は直接与件であり、一義的にそれがなんであるかを確定出来る。世界は確定された個体を構成要素として描かれる。

5 至高の個体としてのキリスト
イエス・キリストは個体であるが、同時に普遍的である。スコトゥスの論理では、存在は被造物と神といった異なるレベルを横断する超越概念となる。神であり人間であるキリストは、個体の不確定性の極大値である。

『悪童日記』の双子は、同じように一人なのか二人なのか確定出来ない双子という設定になって言うR。

第8章 聖餐のカニバリズム
1 死なない死体
18世紀中頃から「早過ぎる埋葬」への恐怖が、欧州や北米で広まった。死に関する感性の変化。中世の聖人の遺体は、死の兆候を見せな事で効果を発揮した。

2 「目」から「手」を経て「口」へ
エマニュアル・レヴィナスの思想:
現象学は、人に世界がどのように見えるかを記述する事から始まる(認識の水準) = 目。さらに実践の水準として、善悪の評価が問題になる = 手。
ハイデガーは、人間は最初から実践的関心をもって世界の中に存在するとして、目よりも前に手を規準とした。石は「ただの石」として現れる前に、胡桃を割るのに必要な道具として現前する。

道具としての手は、常に何かのために存在する。目的は生きる事であり、食べる事である。従って、存在者は最終的には口に対してある。

その前提で考えると、存在者は道具である前に「糧」である。林檎は生きるための道具ではなく、林檎を食べる事が生きる事である。

3 享受と可傷性
レヴィナスは、糧となるものを「元素」と呼ぶ。水を飲み、空気を吸い、火で暖まり、大地の上を歩く。世界は糧としての元素の総体からなる。

享受とは消費する事であり、世界と同化する事である。世界は自分に外在するが、自らの相関でしか意味を持たない。さらに享受する事は傷つく事でもあり、食する事は消化器官にとっての負担になる。

4 愛撫
私が可傷的であるという事は、私の外部に私を傷つける能動的主体が存在する事である。私が他者を愛撫する時に、触る事で触れ返されている。私が触れようとしても、それが私の能動的作用によるものであるのなら、愛撫は不在として去ったものとしてしか求めようがない。

5 カニバリズム-食の原型
食物は内化される対象であると同時に、味わっている「私」を対象化する能動的主体性を宿す。享受される食物は、生きているよううに感受される。
聖贄において人々はキリストの身体を断片化して食す。細分化されたキリストの血肉は生きており、カニバリズムの擬態となっている。

第9章 教会を出産する傷口
1 「キリスト・イエスに結ばれている限り」
「我々は皆、同じ人間である」という思想には、イエス・キリストとの結び付きという限定がある。聖霊が普遍的共同性に至るには、父なる神だけでは不十分なのである。中世の都市共同体は、キリストの死体に対する等価的代理物を核として必要とした。

2 死者の現前-日本戦後史の例から
1960年の左翼運動家 樺美智子の死や、1967年の中核派 山崎博昭の死は殉死として左翼活動を行っている者達を団結させた。

「ニューヨーク炭鉱の悲劇(村上春樹:1981年)」では、1960年代末期以来の左翼運動家の死者への思いが込められているとする(加藤典洋)。第二の話で女性が殺人を犯したという五年前は、浅間山荘事件が発生した1972年?物語は、死者が生者を思索に駆り立てる様を記述する。

死者としてのキリストも、聖霊を組織するための死者のイメージを喚起する手段として使用されたのかもしれない。

3 ペルソナという概念
三位一体の教説における「位格」はギリシア語の「ヒュポスタシス」であり、ラテン語では「ペルソナ」と訳された(人格の語源)。キリストは人性と神性の二つの本性を持つ一つの位格とされる。

ペルソナという個体的存在があり、それが本性を担う(坂口ふみ)。個体は定義する事が出来ない = 個体を指示する固有名は確定記述に置き換える事が出来ない。

個体の不確定性を極限まで追求すると、単一性さえも不確定になり、個体そのものが普遍化する。そのようにしてキリストは単一と普遍を架橋する。

4 教会を出産するキリストの傷口
求心化、遠心化が人間の本質であり相応しているとすると、私の存在と他者の存在は同値であり、私 = 他者となる。キリストに喩えると、人々はキリストに愛着し、自分自身が他者である感覚 = 隣人愛に至る。自己と他者の相互模倣。

5 『綴り字のシーズン』
父なる神は普遍性として君臨する。普遍性の未了性を開示し、普遍化を進める契機として子なるキリストがある。「綴り字のシーズン(マイラ・ゴールドバーグ)」では、ナウマン家のソールが末娘のイライザがスペリング・コンテストで優勝した事を神的能力の発露と考える。ユダヤ教の神においては言葉と事物は一体である。

ナウマン家を聖霊の共同体とすると、イライザという神が君臨し、父であるソールが祭司のように仕える。最後にイライザが全国大会で意図的にスペルを間違える事で、父の欲望からの自由を獲得する。

イライザは神である自分を否定し、イライザになる事で聖霊(家族)の連帯が齎される。

第10章 空虚な王座に向かう宮廷愛的情熱
1 玉座の準備
中世欧州で描かれた誰も座っていない玉座の表象。本来であれば神が座るべき場所に誰も座らない。著者の仮説として、イエス・キリストが復活した際に、墓が空っぽであった事と対応しているとする。

2 神の栄光化
キリストの死は聖霊としての復活であり、空虚な玉座は抽象化された神を玉座の位置に措定する操作である。それは栄光化の完成となる。

3 封建制とは何か
封建制では絶対的に優位となる者がいないまま権力が分散する。小領主や戦士が有力者に奉仕し、その報酬として封土を与えられる。契約は双務的で片方が契約義務を果たさなければ関係は破棄される。

封建制においては、支配者への人格的忠誠心と、自立する者の誇りが両立する。帝国(家産制)では、献身が自立者としての誇りを犠牲にして行われており、家産制的支配者は臣民の依存心に応じるために福利厚生に配慮せざるを得ない。

4 マゾヒズムとしての宮廷愛
騎士の貴婦人へのマゾヒズム的愛情。これは封建制的な主人と臣下の関係のモデルとなる。騎士が本当に愛しているのは、抽象化された観念としての女性であり、抽象的な女性を愛するために実在する女性を必要とする。

これは抽象的な神に到達するために、具体的なイエス・キリストを媒介にする事と似ている。

マゾヒズムにおいては、契約を犠牲者が創始し、主人に自らを痛めつける権利を付与する。それが契約によって構築されるのなら、忠誠心と自立心が両立する。

5 貴婦人という回り道
不可能を禁止した場合、可能であるのに禁止されているから出来ない事になる。宮廷愛は不可能の禁止であり、現実の貴婦人の彼方に禁止されているために到達出来ない超越的対象が想像される事になる。

封建制を同じものと考えると、人格的で親密な関係に基づくために小さな局域的共同体しか可能にならない。

第11章 利子という謎
1 利子という謎
利子を否定しつつも肯定した中世キリスト教の謎。

2 罪としての高利
『中世の高利貸』(ジャック・ル=ゴフ)では、利子が資本主義誕生と対応しているとする。12世紀を通じて欧州で貨幣経済が浸透すると高利貸への需要が出現する。利子は、与えた以上に受け取る不当な剰余とされた。

3 ウスラからインテレストへ
西洋で利子を正式に容認したのは、英国王ヘンリー八世による16世紀半ばの法令とされる。カトリック教会は19世紀まで認めていない。14世紀末頃には、正式な是認の前に容認されていた。正当な利子はウスラ(貪欲)でなく、インテレスト(中間期間)と呼ばれた。

4 疑似終末としての煉獄
利子が許容されたのは、時間の領域における煉獄の発明と関係するとされる。最後の審判は極端な二元論に基づいているが、煉獄は刑の執行猶予期間に入る場所である。小さな罪を犯した者は、猶予期間に煉獄で罪を償えば良い。

すると、罪深い高利貸には死後は煉獄という中間期間で罪を償う機会が訪れる事になる。同様に貸した金は、返すまでの中間期間を通じて浄化される。

地獄と煉獄の関係は、神とキリストの関係に似ているとする。

5 持っていないものを与える
愛とは持っていないものを与える事であるが、これは現在では存在しない金を要求する利子と似ている。

6 利子の発生
キリスト教における信者と愛の相互関係は、剰余 = 利子の発生を本来的に許容している?抽象的な実体としての神であれば信者に手を差し伸べないので剰余は発生しないが、人間として現前した神は清じゃに触れ返すために剰余が生じる。

第12章 「物自体」としての聖地
1 「新○○」という土地
欧州の人々が新大陸の植民地に付けた地名には、ニューヨーク等の「新」がつくものが多い。消滅した都市の後継者でなく、本来の都市も継続している。

2 十字軍
大航海時代は、中世欧州における巡礼や商人の移動の方向性を西へ転換した時に訪れている(関哲行)。巡礼の至高形態である十字軍は、聖人の遺体を目指してユートピアへの憧憬に基づいて行われた。ユートピアにおいては、想像する主体が、そこから排除される。

新天地を求める者には、楽園に所属しない外的な自分を、楽園に埋め込む願望があったとする。具体的な死体を目指した巡礼の旅が、具体的目標を解消して抽象的に外部へと開かれた時、大航海時代が始まった。

3 至るところに否定神学
神へ至る事を否定する事で逆説的に神に到達する(偽ディオニシオス文書、ディオニシオス・アレオパギテース)。語る事を否定する事で、神が語り得ない事を示す。

神を善であるとしても、神は善を超えているのだから、表現が比喩以上にはならない。神の真実には否定神学によってしか至り得ない。

4 中世解釈者革命
禁止や否定によって肯定的存在を確保する。ピエール・ルジャンドルの「中世解釈者革命」では、12世紀にユスティニアヌス法典によって教会法を整備した事を画期とする。

法の無効化に特徴があったキリスト教が、法の積極的措定に向かった。法の否定が、法の肯定に向かった?

5 「物自体」としての聖地
カントは、人間の認識は現象についてのみであり、物自体は認識の彼方にあるとした。人間は、それを異様に見たいと願う。見てはならないものは強烈な魅惑の対象となる。

十字架上のイエス・キリストは、その典型となる「物自体」である。

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眠くて頭が痛い

今からしばらく眠る。

変に忙しい一日だった。

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マルクスとハムレット

読んだ本の感想。

鈴木一策著。2014年4月30日 初版第1刷発行。



難しい本だった。

マルクスとハムレットには、ヘーラクレース(父性原理)とマーキュリー(母性原理)との間の揺らぎが見られるとする。

ハムレットは実在するか自らの願望を表すか分からない亡霊に悶え、マルクスは価格で表現し切れない商品の世界を、価格でしか表現出来ない事に悶えていたのかもしれない。


〇キドプロコ
無意識の取り違えという意味の演劇用語。ある物を掴んだつもりが、別の何かを掴まされる。マルクスは、商品を飼い慣らし難い「生皮」に喩えるが、これはシェイクスピアに由来する。『ヘンリー六世』では、ヨーク公がヘンリー六世の妻マーガレットの仮面を剥ごうとしつつも、それを生皮と表現してしまう。仮面の代りに生皮を掴まされ、それを相手のせいにしてしまう。

<ハムレット>
ハムレットは、父を殺した人間が叔父である事を確定していない。

①亡霊
元国王の亡霊は、30年前にノルウェーのフォーティンブラス王を決闘で殺害した時の甲冑姿で、中に誰が入っているか見えない。最初に学友ホレイシオが見た亡霊は甲冑姿だったにも関わらず、ホレイシオは見えないはずの銀混じりの髭の話をして、亡霊がホレイシオの想像の産物である事を示している。

→亡霊は、在るか無いか分からない

②対話
ハムレットが対話した父の亡霊は、弟に毒殺された真相を語っていない。生前の罪を自白し、弟クローディアスが「耳栓が詰まったワシの両耳に、ヘベノンのジュースを注いだ」と語るのみ。ジュースは噂の隠喩であり、噂を恐れる姿を示す。

③芝居
ハムレットが演出した芝居では、毒液を国王の両耳に注ごうとする役者を「あれはルシアーナス、王の甥だ」と注釈する事から、芝居の意味は国王の甥であるハムレットが、現国王クローディアスを毒殺し、母ガートルードとの近親相姦を犯す内容になる。クローディスの退出は怒りによるものであり、叔父の罪は確定していない。

ハムレットは、「在るのか無いのか分からない状態」に悶える王子。

同じようにマルクスは、資本や貨幣、商品の価値を計る尺度に悶えたとする。商品の価値尺度を人間労働(抽象的人間労働)としつつも、『資本論』ではそれ自体を価格で表示してしまっている。価格から分離したはずの価値尺度を、価格に依拠して論じる矛盾。

マルクスは、価値を『ハムレット』に登場する亡霊のように表現し、価値を「どこを、どう、掴んで良いか分からない対象」とまで言っている。これは、ハムレットの『ヘンリー4世』に登場するフォールスタッフのセリフ。

命がけの飛躍(マルクス):
商品を売り出すに先立って、価格や出荷量を決定する事。この場面では、抽象的人間労働を価格は無関係。

◉ヘーラクレース:
マルクスでは、ヘーラクレースが多く引用される。異界を征服し、分析的知性を持つ。産業革命は、母なる大地を捻じ伏せるヘーラクレース主義の本格化である。

◉マーキュリー:
『ハムレット』の三幕四場では、父王の姿をローマの神々に准えるが、その中に紋章官(王の伝令役)・マーキュリー(神々の使者)がある。ハムレットは父を侮辱しており、自分を逃亡するマーキュリーに喩えている?水銀には逃亡性がある(ユング)。

『ハムレット』一幕五場の亡霊との対話では、以下の言葉がある。

「この永遠の紋章は、生身の両耳・両穂にあってはならんのだ。聞け、聞け、ようく聞いてくれ。そなたがかつて父を本当に愛していたならば」

生身の両耳は、旧約聖書『創世記』四一章の「太った兄穂」、「やせ細った弟穂」という両国王であり、デンマークの紋章は元国王にも現国王にも相応しくなく、その屈折した息子の重いが投射されている。ハムレットは復讐に突き進まずに、オフィーリアへの恋心によって軌道をマーキュリーのように外れてしまう。

「そなたは忘却の川レーテの岸辺に安閑と根を張る太った雑草より愚鈍だということになろう(中略)わしは庭園で睡眠中に、蛇に刺された事になっておる」

『ハムレット』三幕四場で、ハムレットが叔父を「白黴の生えた麦の穂」に、父を弟穂によって「立ち枯れにされた健全な穂」に喩えており、これは旧約聖書『創世記』四一章のヨセフ物語で、エジプト王が見た夢を改作した比喩である。

その夢では、ナイル川の岸辺に根を張って太った兄穂を、やせ細った弟穂が飲み込む。だから、安閑と根を張る太った雑草は、兄穂 = 父だという事になる。

亡霊は、「獄舎の秘密を一言でも告げたなら…そなたの編まれ束ねられた巻き毛、発射装置はばらけ、その一本一本は、苛立つ山嵐の針のように、先の先まで立ってしまうであろう」と語っている。

だから、蛇に刺されたという亡霊の言葉は、蛇に変身したハムレットの巻き毛(山嵐の千本針)に刺されたという意味にもなる。デンマークの耳に噂をつたえるのは、発射装置としてのハムレットの巻き毛になる。

<アンリ4世>
アンリ4世(1553年~1610年)もマルクスで引用される。

「パリもミサに値する!」

アンリ4世は、ガリアのヘーラクレースを自称し、1593年にカトリックの儀式ミサに参列し、ユグノーからの改宗を偽装している。

シェイクスピアは、『恋の骨折り損(1595年上演?)』でアンリ4世のヘーラクレース主義を茶化している?さらに、『ハムレット』ではルターの創建した新教派のウィッテンブルク大学にハムレットを留学させ、ハムレットにプロテスタントのヘーラクレース主義を揶揄させている。

マルクスは、亜麻布と上着の価値関係を論じる部分でアンリ4世を引用しており、商品A(亜麻布、パリ)と商品B(上着、ミサ)は等値とする。マルクスは、商品の価値を価格に汚染されない抽象的人間労働で裏付けるため、亜麻布に自分の価値を独白ために、アンリ4世の言葉を引用した?

パリで表現された価値とは宗派に左右されない世界市民主義であり、同じように貨幣が国家を超えた世界貨幣に発展していく事を意味する?

本書の後半は、地産地消の紹介になっている。



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