月見月理解の探偵殺人

読んだ本の感想。

明月千里著。

以下、ネタバレ含む。

つまらないというか、解り難い話だった。『人狼ゲーム』を模した『探偵ゲーム』というゲームが話の根幹になるけど、『人狼ゲーム』の達人という設定で良かったんじゃないかな? 

かなり複雑な物語で、読み返すのも面倒なので、適当の端折って書く。内容はかなり間違っていると思う。

1 2009年12月31日 初版第一刷発行
主人公 都築初は、「0」というハンドルネームで、インターネット上の犯人当てゲームに参加していた過去を持つ礼新高校二年生。

4月に、君筒木衣梨花(月見月理解)という病気で留年していたため、二歳年上の女が転校してくる。彼女は探偵ゲームで三百勝以上した伝説のプレイヤーで、唯一勝利したのが主人公だった。

月見月理解は、主人公の父親が一年前に自殺した事件の調査を、主人公の妹から依頼されており、主人公に殺人の疑惑がかけられている。本当の犯人は、主人公の母親で、主人公は飛び降り自殺に行く様子を目撃していた。

自分が犯人と偽ろうとするが見抜かれる。



2 2010年4月30日 初版第一刷発行
礼新高校一年生の星霧交喙登場。四歳上の姉 花鶏がスパイであり、自分の親友を殺害したとして、且つて姉が入部していた放送部に入部する。

姉の後を追跡していたが、ノアズ・アークという地下施設に封じ込められ、『探偵ゲーム』に似たゲームをさせられる。

星霧交喙は、聖痕という、他人に触る事で、同一人物であるか判別する能力を持っているが、星霧花鶏はゲーム中に停電を引き起こし、自らが変装していた十条奏と入れ替わる事で能力をかわす。

星霧花鶏の能力は、洗脳で自分の人格を他人に移植可能であり、星霧交喙の中に自分の人格を移植しており、そちらが本体になっている。彼女が殺した事になっている星霧交喙の親友 佐倉いずみを殺したのは、実は星霧交喙の別人格で、それを洗脳する事で、自分としたらしい。



3 2010年8月31日 初版第一刷発行
主人公達が、月見月家の別荘に招かれる。

他人に感染する殺人衝動ウィルスを持つとされる月見月悪夢の脱走騒動に巻き込まれる。月見月悪夢には、殺人衝動ウィルスは無く、双子の姉妹である水無月沙耶と情報交換する事で、死ぬべき人間を知っていた。

月見月悪夢は死ぬが、水無月沙耶は生き残る。



4 2010年12月31日 初版第一刷発行
実体験版の『探偵ゲーム』に招かれる話。

果無連理出現。本選に主人公達が進む。



5 2011年6月30日 初版第一刷発行
船の中で行われる『探偵ゲーム』

思考を読む果無連理に対し、ゲーム中に発生した殺人事件を利用し、月見月理解の発言を確認する事無しに信じた事を指摘し、監禁、殺害に成功する。

⇒この本で行われているゲーム過程はとても複雑だった。



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組織サバイバルの教科書 韓非子

読んだ本の感想。

守屋淳著。2016年8月17日 1版1刷。



第一章 人は成長できるし、堕落もする―「徳治」の光と影
<論語と韓非子の対比>
論語(孔子):
人間を信用してかからないと、良い組織は作れない

韓非子:
人間は信用出来ないから、裏切らない仕組みを作る

孔子は、良い組織を作るために、家族的信頼感で結ばれた組織を理想とした。徳のある人物(憧れの対象)が感化力によって周囲の人間を良くしていく。下剋上の世界では、愛の対象となる範囲が、国から村、家族、自分だけと収縮してしまうため、そのベクトルを逆向きにする。

以下は、徳治の問題点。

①徳を持った人間はいないか、変節する
②徳でしか上下が結び付かず、現場が暴走する
③上司の問題点を指摘出来ない

こうした問題点を解決するために登場したのが、韓非に代表される法家の思想とされる。





第二章 『韓非子』は性悪説ではなかった?
性弱説:
孔子は人間は教育によって決まるとしたが、韓非子は人間は環境によって定まるとした。韓非子は、国家の生き残りという目的を掲げ、それに適う人間のみで構成された組織を目指したとする。それはスポーツチームや株式会社に近く、そうした環境が人間を構成する。

韓非子は、孔子のように良い家庭や国を作ろうとするのでなく、乱世の中で生き残る国家を作る事を目的とする。人間が信用出来ないという条件の下で、成果を出せる組織。



<韓非の先駆者>
〇管仲(?年~紀元前645年)
斉の恒公の補佐として、以下の政策を行う。

・農業の保護奨励
・塩、鉄、金等の重要産業の国家管理
・均衡財政の維持
・流通と物価の調整
・税制、兵役の整備

〇子産(紀元前585年~紀元前522年)
鄭の穆公の孫であり、以下の施策を採用。

・農地の区画整理、灌漑用水の整備
・農民を五人単位(伍)に編成
・軍事費を丘賦という税金で庶民にも課す
・成文法の発布

〇呉起(?年~紀元前381年)
魏の文侯の下で西河の太守、楚の棹王の下で宰相を務める。以下の施策。

・法体系の明確化
・不要不急の官職廃止
・遠縁の公族の官位剥奪

〇李克(紀元前455?年~紀元前395年)
魏の文侯の下で、以下の施策。

・身分、官位を問わない信賞必罰
・農業生産奨励と、穀物価格安定
・『法経』六篇を作り、法体系を集大成

『法経』は、商鞅が魏から秦に持ち込んで富国強兵を達成した逸話がある。

〇商鞅(紀元前390年~紀元前338年)
衛の公族だったが、秦の招賢令で秦に行き、以下を実施。

紀元前356年の変法:
・五家を五人組、十家を十人組として相互監視する制度
・一家に二人以上の成年男子がいる場合、必ず分家独立
・軍功をあげれば爵位
・農耕と織物を奨励
・公族や貴族でも、軍功が無ければ身分剥奪
・詩書を焼き捨て、法令を徹底

紀元前350年の変法:
・雍州から咸陽へ遷都
・封建制から中央集権制へ移行
・農地改革
・度量衡統一
・父子兄弟の同室同居禁止

⇒中国の政治制度の雛形

〇申不害(?年~紀元前337年)
鄭の下級官吏だったが、紀元前375年に韓が鄭を滅ぼした事で、韓の昭候に仕えるようになる。15年間、宰相を務め、中央集権化を進めた。

〇慎到(紀元前395?年~紀元前315?年)
趙の人であり、黄老思想を学んで、斉が学者を集めた「稷下の学」に参じた。後に韓の大夫になったとされる。「勢」の概念は韓非に影響下らしい。

著者は、①魏から秦の系統(法を重視、呉起や李克、商鞅)、②鄭から韓の系統(術と勢も重視、申不害や慎到、韓非)が相互に関連したと考える。



第三章 筋肉質の組織を作るための「法」
韓非の先達者達の要素。

〇商鞅(法、賞罰規定)
権力者の家族等の責任が伴わない者に権力が付随しないようにする。法によって全員を均しく枠にはめ、私的影響力によって指示系統が混乱しない組織を作る。
信賞必罰によって、構成員が従わざるを得ない状況を作り出す。そのため、学者、遊説家、侠客、商人や職人等の組織全体の価値観と異なる人々を排除していく。

⇒国力の胆である農業・軍事の推進という評価軸に則り、恩賞を素直に欲しがり、罰に怯える人間以外は組織に不要とする

〇慎到(権力)
〇申不害(家臣操縦術)

第四章 二千年以上も歴史に先んじた「法」のノウハウ
刑名参同:
事前に申告した内容と同一の実績を求める。事前申告を上回る実績も良くない。部下の裁量権を小さくし、事前申告させる事で権力者が強制的に目標を押し付けたように見えないようにする。

韓非が目指したのは、完璧な結果主義の組織で、結果を評価軸にする。

・組織の方向性を利益を出す事に一本化
・命令系統の一本化
・上記の方針に従わない人間には辞めてもらう

そのための賞罰規定が法であり、必ず法を守るという信頼性を保つ事で、法を定着させる。

第五章 「権力」は虎の爪
権力とは、利害によって相手を操り、相手からは操られない事。

権力の源泉は、賞罰であり、部下に奪われてはならない。派生権力として、相手に想像させる方法もあり、実際には源泉を持っていなくても、権力者と近しい等の理由で、持っていると思われる状況を作れば権力を行使出来る。

第六章 暗闇のなかに隠れて家臣を操る「術」
君主が情報を漏らし、部下が合わせる事が出来ないよう好悪の感情を隠す。賢さを見せない事も部下の素を見るコツとなる。

以下の術。

①部下の言い分を互いに照合する
②違反者は罰っして威信を確保
③功績には必ず報いて意欲を出させる
④部下の発言に注意し、責任を持たせる
⑤疑わしい命令を出し、思いもよらぬ事を尋ねる
⑥知っているのに知らないふりをする
⑦白を黒と言って相手を試す

さらに、外部権力を警戒すべきとし、外部にある権力の源泉が利用されないようにする。人間は不思議なもので、権力者が強過ぎると制約によって自由を欲し、権力が弱いゆえに混乱状態が続くと権力者を欲する。歴史はそのように動く。

<第二次世界大戦後の日本企業>
欧米の会社は機能体であるが、日本の会社は村であり、論語的価値観からなる。

戦時下において、総動員体制を作るために、温情主義、滅私奉公を植え付け、「学べば成長出来る」という論語的論理から、学歴、勤続年数、忠誠度、性別等が評価基準となる。

入社当初は差をつけず、長期間で評価する。同期との間の僅かな差が競争心を煽る。和には、強調しつつ、競争するという二つの要素がある。











第七章 改革者はいつの時代も割に合わない
法治は多くの人の既得権益や人間関係を損なうため、導入には君主の危機感が必要になる。

説得は相手の聞きたい事を話し、理論通りにはいかないために難しい。法治を採用した君主が亡くなると、後を継いだ君主は反動に走る事が多い。

第八章 人を信じても信じなくても行きづまる組織のまわし方
韓非が自殺したのは紀元前233年前後とされ、秦王 政の側近だった呂不韋が自殺したのは、その二年前の紀元前235年とされるので、秦王 政が韓非の『法』に感激したのは専横に悩まされていたためではないか。法による統治があっても、術や勢が欠けていた。

著者は、秦の問題を以下のように考える。

①後継者
韓非の組織では、派閥を作る事を防ぐために、皇太子が事前に周知し難い。後継者の伝達は、誰かを信じて託さなくてはならない。

②利の調達
賞罰によって人を操るが、古代中国の恩賞は土地であり、領土が拡大している内は恩賞に困らないが、新たに土地を獲得出来なくなると罰のみになる。

「陳勝・呉広の乱」は、国境警備の期限に大雨で遅刻しそうになり、罰である斬首を恐れたために発生したとする。厳罰によって刑無きに期すは、韓非の理想に過ぎず、信賞必罰は物理的限界を迎え易い。

<富士通>
1997年に富士通が導入した成果主義的人事制度は、①成果に応じた給与(信賞必罰)、②目標管理制度(刑名参同)という点で『韓非子』に近い。

しかし、全員が成果を出す事は想定されておらず、人件費抑制のために、人件費の総枠が最初から定められていた。そのため、相対主義となり、結局は年功序列によって上の部長から多く賞を得る事になったしまった。

『韓非子』の制度を導入するには、目標を達成したら与える賞の源泉が存在し、本人が納得出来る評価に連動して分配される事が必須になる。

利益への関与が数字で表せる部門なら良いが、間接部門や長期プロジェクトでは導入し難い。さらに、会社では人事や経営戦略が強い権力を持っており、富士通の人事部は全員がA評価となって不満を煽っていた。





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秦王朝の次の漢王朝も、七代目 武帝の時代になると賞の源泉枯渇が問題になった。そこで、儒教の「利で動く人間は恥ずかしい。高い志を持って国に尽くす人間が美しい」という価値観を打ち出すようになる。

前漢王朝の後半から儒教の影響が見られ、後漢王朝でも儒教の影響が強いために、外戚や宦官が権力を握ってしまい、三国志の時代となったため、『三国志』の英雄は法治を全面に出した者が多い。

<古代ローマ帝国>
賞の源泉として、権利を利用。投票や居住の自由等は、地位や身分が高く無ければ持つ事が出来ない。自由 = 権利の束であり、ローマ帝国に対して功績をあげて手に入れる仕組みになっていた。抽象的な権利を賞としたために、原資が尽き難い。

ちなみに、現代の米国では『韓非子』に近い制度が一般的であり、多様な文化的背景を持つ人々を纏めるために、金銭という価値観が重視され、パイの拡大が必須になっている。

個人の責任と権限を明確にし、職務は文章化され、日本企業のように協調性や忠誠心などの情意孝課等の評価要素は無い。



<法治定着>
紀元前221年に秦王朝が樹立して以来、中国の政治体制は以下の原理に則たとする。

①皇帝による専制支配
②郡県制度による直轄統治
③官僚による中央集権
④一君万民による独裁政治

法治という基盤の上に、儒教や仏教、道教が組み合わさって乗る。『韓非子』の考え方は、合目的でないはずの国家を軍隊や企業のように合目的にする事に矛盾があり、北方の遊牧民に対抗する必然性が法家的制度を維持させたのかもしれない。

欧州ではゲルマン民族流入による分裂以降、基本的に外部からの深刻な脅威が無い(国土の半分を明け渡すような事態)ために、一つになって対抗する意識が無かったのかもしれない。

統一された官僚国家の内部でのイノベーションには限界があり、各国が切磋琢磨した欧州の技術に追い抜かれるようになる。

第九章 使える権力の身につけ方
江戸時代における日本において、空間的なパイが拡大し難いため、時間的に継続する事を目指す気風が広まったとする。元禄時代以降の商家では家訓を作る事が一般的になった。





継続第一の組織の場合、前例踏襲が選ばれ易く、責任を負わないために権力を使って部下に押し付けるようになる。

上司としての以下の問題点。

①情報格差
②派閥によって対抗される
③論語的価値観

上記に対応するために、「自分にしか分からない人間」を作らないようにして、「他の人間も出来る」という状況を作り出す。外部コンサルタントを権威として活用する方法もある。

逆に部下としては、自分に依存させるよう「自分にしか分からない」という状況を作り出す事が権力に繋がる。







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経済で読み解く明治維新

読んだ本の感想。

上念司著。2016年4月20日 初版第1刷発行。



第一部 飛躍的に発展していた「江戸時代の経済」
著者が提示する以下の定理。

①社会は「金」と「物」のバランスから成り立ち、物に対して金が不足するとデフレになる
②景気悪化は、救済を唄う危険思想の蔓延を招く

経済は国の肉体のようなもので、政治は衣服のようなもの。肉体が成長すれば衣服を新しくしなければならない。

<江戸時代>
①財政構造
400万石の江戸幕府が、3000万石の日本全体を治める。
②管理通貨制度
官府の捺印を施せば貨幣になる。
③百姓は農民に非ず
農業以外も行う。

経済発展に必要な、物流の自由、決済手段、商取引のルール整備は江戸時代以前に相当なレベルまで整備されていた。

日本史では、中央集権的国家を目指す勢力と、諸侯が分立した状態を維持する勢力の争いがあり、江戸幕府は300諸侯が分立した状態を維持する徳川家康が、中央集権的仕組みを志向した豊臣家を打倒した結果とする。

江戸幕府三代目までの将軍は、幕藩体制維持のために、東照宮建設、江戸の都市建設、京都の諸公卿への賄賂等を行った。1643年に日本の金銀の埋蔵量は底をつき、備蓄を浪費していくようになる。1666年に日本の耕地面積は最大化し、8代将軍 吉宗の頃には収穫量改善で農産物生産量がピークを迎えた。

徳川家光は一代で500万両を使用し、4代将軍 家綱は600万両を相続したが構造的財政赤字が発生しており、1657年の「明暦の大火」の4年後には385万両に減少。年間10万両の経常的財政支出も嵩んだ。1680年に就任した5代将軍 綱吉が相続した財産は100万両以下とされる。

元禄時代(1688年~1704年)の好況は、財政難を打開するために勘定吟味役 荻原重秀が行った慶長小判から元禄小判への改鋳(金の量を2/3にして、通貨発行量を1.5倍にする。500万両の通貨発行益)が原因とする。

しかし、全国的な徴税権を持たない江戸幕府が全国を支配する構図に矛盾があり、1703年の元禄地震、1707年の宝永地震、富士山大噴火、1708年の宝永の大火等の復興費用を賄う名目で行われた諸国高役金令(1709年)で、諸藩から100石当たり2石の割合で資産課税を行うが、集まった46万両の内、6万両しか復旧予算に使用されていない。

その後、新井白石による貨幣の金銀含有量を慶長時代に戻す揺り戻しがあり、8代将軍 吉宗も当初は米本位制を志向していたが、1736年に元文の改鋳を行い、金銀の含有量を半分に落とした貨幣を発行する事で100万両の通貨発行益を手にしている。

その後、1818年には水野忠成による文政の改鋳が行われ、1834年に幾度も改鋳が行われた事で化政文化の背景となる好況が生じる。

第二部 資本主義を実践していた「大名」と「百姓」
日本経済は江戸時代を通じて発展し、石高は経済活動の一部でしかなかった。1643年に金銀産出がピークを迎えると体制に綻びが目立ち、経済が政治の枠組みを超え始める。

幕府と大名の連合政権の本質は、互いが存在を認め合う事で共通の敵を殲滅する双務的同盟で、殲滅すべき敵である豊臣家を滅ぼした後は、新たな敵が出現しないように体制を強化する事になる。

戦争が少ない時代は需要を増大させ、1620年には仙台藩が江戸へ、1621年には小倉藩が大阪への廻米を直営事業として起業している。菱垣廻船は1619年に登場し、木綿、油、綿、酒、酢、醤油等を大阪から江戸に運んだ。

海外からの絹の輸入も増加し、1628年の奢多禁止令は、絹輸入による金銀流出を防ぐためだったとする。鎖国は、貿易量制限により国内の通貨量を維持するためだったのかもしれない。

<国際金融のトリレンマ>
・江戸時代初期の日本
①固定相場制:〇
②金融政策の自由:×
③資本取引の自由:〇

・鎖国後の日本
①固定相場制:〇
②金融政策の自由:〇
③資本取引の自由:×

金融政策の自由が手に入ると、貨幣を自由に発行し、インフレ率を操作可能になる。元禄時代の貨幣改鋳は、鎖国という資本取引規制のためだったのかもしれない。

・江戸時代末期の日本
①固定相場制:〇
②金融政策の自由:×
③資本取引の自由:〇

開国によって外国為替取引が自由化され、交換レートが金銀含有量を基礎にした固定為替レートだったため、金融政策の自由を失った。

<流通>
江戸時代初期の海運業は、海賊から物資を守る警備会社の要素が強かった。都市への物資大量輸送の需要が発生すると、河村瑞賢が、1670年に東回り航路の整備事業を始める。江戸から小湊、銚子、那珂湊、平潟、小名浜を経由し、荒浜(宮城県)に至る。

さらに1694年には、江戸十組問屋仲間、大阪二十四組問屋仲間が結成され、菱垣廻船は両組合に所属する事が義務付けられた。競合する樽廻船には、菱垣廻船が取り扱わない7つの荷物のみ運ぶ事が許可され、専門の商い集団が形成されていく。



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1450年~1540年、1645年~1715年には、太陽黒点の極少期があり、太陽活動停滞のために北半球の気温が1.5℃ほど低い間氷期だった。フランス革命が発生したのは1787年だが、江戸の三代飢饉である享保の大飢饉(1732年~1733年)、天明の大飢饉(1782年~1788年)、天保の大飢饉(1833年~1837年)があり、天明の大飢饉では100万人ほど人口が減少したらしい。

これは各藩が余剰米のほとんどを都市に売却していたため、食料の備蓄が無かった事も関係しているとする。そして飢饉を機に官製流通網を通じて地方廻船問屋(北前船、尾州廻船)が独自に米を輸送するようになり、運賃の自由化が進む?天明の大飢饉以降、遠距離の船が大型化して数を減らし、近距離の船が小型化して激増する現象が見られるらしい。

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1786年6月29日に田沼意次は、百姓は百石当たり0.42両、町人は一間当たり0.05両、寺社山伏は格式に応じて最高15両を毎年、5年間に渡って課す法令を出した(失脚の二か月前)。

集まった金を大阪表会所で大名に年利7%で米切手を担保に貸し出す。返済が滞ったら米切手は米に転換される。滞納すれば年貢を幕府に召し上げられるため、徴税権を奪う事に繋がる。

第三部 なぜ江戸幕府は“倒産”したのか?
米を年貢として徴収し、それを売却して現金を得る石高制は、米の価格が他と連動しなくなると上手くいかなくなる。江戸時代の米価は1石 = 1両前後で推移していたが、他の商品作物が高騰する事で米を給料として支給された武士階級が困窮するようになる。

明治時代に行われた地租改正では、課税の基準を収穫高でなく、地価の3%として税収が収穫高で左右されないようにした。第二次世界大戦後、地租は固定資産税となって税率は1.4%程度となっている。

<幕藩体制によるデフレ>
江戸時代の各藩は、江戸屋敷の維持や参勤交代の費用が恒常的に発生し、藩内で生産出来ない商品を輸入するために、常に一定額の金銀が流出する。金銀の流出超(貨幣不足)を避けるには、常に江戸や大阪が好景気で、各藩の物資を購入する必要がある。

しかし、幕府は貨幣の信用維持のために貨幣量を抑制し、結果的に都市の需要が抑制される事が多い。

財政問題と貨幣不足解決のために、各藩は藩札を発行するようになる。1661年に福井藩が発行したのが最初とされ、大抵の藩札は銀札だった(幕府が金の保有残高を重視したため)。

1700年代中頃には、藩札は全国的に普及し、裏付けとなる資産も金、銀、銅、米と多様化した。1871年の廃藩置県当時の藩札の残高は約9000万両であり、幕末の金貨、銀貨の発行残高が1億3000万両だった事を考えると、貨幣量を倍増させる効果があった事になる。

<薩摩藩と長州藩の藩政改革>
◎薩摩藩
1753年の木曾三川の手伝普請で40万両の巨額債務を負い、1801年には121万両の借金があった。当時の薩摩藩の歳入は年間10万両程度。その後も手伝普請等で、1833年には500万両の借金となる。

家老である調所広郷は、借金を250年かけて返すと一方的に宣言し、砂糖の専売や清との密貿易を行った。1837年に長崎での唐物販売が10年間に渡って禁止され、調所広郷は自害している。

それでも、薩摩藩は500万両の借金を整理し、300万両の収入を得た。

◎長州藩
1840年時点で141万両の借金があった。当時の長州藩の歳入は年間約6万3000両程度。1838年には士卒の俸禄の半分を上納させ、庶民への4.5%の増税を行い9万両の財源を確保。対外債務については、1844年に金利を3%に引き下げ、37年払いで完済すると一方的に宣言。

そして、製塩業、金融業、製紙業、綿工業を推進した。廃藩置県時には100万両の余剰金が残されたらしい。

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江戸時代後期においては、開国時の貨幣レート不備から海外に金が流出し、1860年には金貨の品位を1/3に下げて国際標準に合わせる万延の改鋳が行われる。

これは激しいインフレを引き起こし、米価1石当たりの平均価格は、1840年代で銀82匁、1850年代で銀104匁、1860年代で銀365匁、1870年代で銀411匁となっている。こうした通貨の信用低下は、藩札の信用を上昇させ、安定通貨となっていく。

<製糸業>
激しいインフレの裏側では、自国通貨安が発生しており、製糸業の海外輸出が盛んになっている。

太平天国の乱(1851年~1864年)や欧州における蚕病によって絹は供給不足であり、1859年の横浜開港では欧州産に比べて半値で購入出来た日本の生糸が販売された。

1865年には、総輸出額1746万ドル程度の内、1461万ドル程度が生糸の輸出によるものとなっている。

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明治時代に実施された政策は、中央政府による全国一律の課税や、開国、同一通貨による石高制廃止、金本位制への対応等、江戸幕府でも実現出来た政策ばかりであるが、体制の根幹に関わるものであったため、関ヶ原の論功行賞に囚われている政治体制を一新しなければ実現出来なかった。

明治時代は、揺り戻しへの道を完全に断った事で実現した。

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経済で読み解く大東亜戦争

読んだ本の感想。

上念司著。2015年2月5日 初版第1刷発行。



序章 【経済と戦争の相関】
第一次世界大戦から昭和恐慌(昭和30年)まで日本経済が低迷した原因はデフレとする。第一次世界大戦において、各国が戦争のために金本位制から離脱し、自国が保有する金の量以上に通貨を発行した。戦後、各国は金本位制に復帰するために多額の資金を吸収したためにデフレが発生した。

1930年の井上準之助による金本位制復帰による恐慌から、1931年~1935年の高橋是清による財政金融政策による景気回復、その後の五・一五事件、二・二六事件を経た第二次世界大戦までの流れを追う。

<ポール・ポーストの戦争の鉄則>
①戦争前の経済状態
不況である事が、戦争によって利益を得る前提。戦費調達によるデフレ脱却。
②戦争の場所
本国から遠い戦争が経済的に利益となる。自国が依存している資源の供給地、輸送路も除く。
③戦争資源、兵士の量
失業率が高いほど戦争の経済効果が高い。近年はハイテク兵器型の資本集約型の戦争であるため、失業率を減らす効果が低い。
④戦争の期間、費用、資金調達法
デフレである場合、通貨発行によって脱却出来る。

第一部 【第一次世界大戦までの世界経済の動向】
1870年までは、英国(1844年に金本位制を確立)を除く世界各国は金銀複本位制を採用していた。1850年代半ばから新金山が発見されなくなり、代わりに銀の産出量が急増していた。

1840年~1850年だのゴールドラッシュで、金産出量は1831年~1840年の年平均20.2トンから、1851年~1870年の192.6トンに急増していた。

普仏戦争(1871年)で賠償金を得たドイツは金本位制に移行し、1876年にはフランスも移行。1897年には日本とロシア、1900年には米国も金本位制に移行。金本位制には為替リスクを低減し、貿易決済を効率化する意味があった。

金本位制の問題は、金の保有量以上に通貨を発行出来ない事とし、1876年~1896年まで英国で物価が32%下落するデフレ(ヴィクトリア均衡)は、1896年に南アフリカやカナダで金山が発見され、青化法(金の抽出率を高める)が発見された事で、通貨発行量が増加して解決されたとする。

そして、1900年代半ばから金産出量が頭打ちになると、1907年に米国のウォール街で株価暴落が発生。直接的な原因は、1906年のサンフランシスコ地震によって銀行や保険会社に多額の損害が発生した事だが、背景には資金不足があったとする。

第二部 【第一次世界大戦の明暗】
1907年恐慌の後、米仏のGDPは乱高下したが、日英独のGDPは緩やかに回復したとする。世界経済は不安定で、金保有量の多い国は、金流出リスクを恐れて通貨発行量を抑制していた。

そして、第一次世界大戦で日米から欧州への輸出が激増し、両国経済は活況となった。1914年時点で欧州から米国への債権額は72億ドルだったが、1919年には33億ドルまで減少。米国の金準備高は1919年に64億ドルになった。日本も日露戦争の対外債務10億円があった状態から、28億円もの外貨を獲得している。

一方、敗戦国となったドイツでは1320億マルク(金に換算して4万7312トン、当時のドイツのGNP20年分)の賠償金が課せられた。英国の経済学者ケインズは、賠償金支払いに必要な貿易黒字を生み出すために、ドイツは通貨切り下げによる輸出推進を行う必要があるとし、復興需要の妨げになると指摘。それではドイツは経済的に困窮したままになる。

*************

日本では1917年に2億円だった英国への輸出、1918年には1.5億円程度だったフランスへの輸出が1921年には5000万円以下になり、1923年には関東大震災が発生していた。関東大震災の被害総額は55億円~65億円(当時の国家予算は15億円)で、GDPの4割程度だった。

しかし、1925年の加藤高明内閣は金本位制復帰を押し出し、為替レートは1ドル = 約2円から1ドル = 約2.5円まで円高が25%進んだ。その後の若槻内閣、田中内閣、浜口内閣でも金本位制復帰という点では一致していた。

当時、金本位制に耐える事が出来たのは金流入が続く米国だけだったとする。

第三部 【第二次世界大戦前夜の日本経済】
第一次世界大戦後のベルサイユ体制は、世界中の金が米国に吸い上げられる仕組みだった。米国以外では金が不足するために金本位制下ではデフレが発生する。

<クレディト・アンシュタルト銀行>
1931年5月に、オーストリア最大の銀鉱クレディト・アンシュタルト銀行が破綻する。それはドイツ第二位のダナート銀行にも飛び火し、英国や米国にも波及した。英国から大量の資金が引き上げられ、英国は1930年9月21日に金本位制から離脱。
日本からも資金が引き上げられ、1931年に金本位制を離脱し、為替レートは1ドル = 2円から1ドル = 5円まで下落している。1932年に高橋蔵相は、1932年に歳入補填国債の直接引き受けを始めている。

1932年のオタワ会議で英国とその植民地が、域外の国々に関税引き上げ等を決定して以降も、日本の輸出産業は1932年から1938年まで対前年比増を続けたとする。

高橋蔵相は、1935年に公債政策に関する声明を発表し、緊縮財政に舵を切る事を計画したが、二・二六事件によって暗殺され、1936年に就任した馬場蔵相は国債の日銀直接引き受けによる大量の国債発行による軍事費増を行った。

終章 【日本の戦後復興】
第二次世界大戦における日本の被害総額は1340億円(日本の国富総額の41.5%)。

戦後の経済政策は、以下のように大別可能。

①インフレ加速期(終戦直後~1947年)
1945年8月~1945年11月に、復員・解雇手当等で140億円の財政支出が発生。軍需生産廃止に伴い経営危機に陥った企業救済のための銀行貸し出しのため、資金供給が増加してインフレが発生。政府は価格統制を実施するが、闇市場の経済メリットが生じただけだった。
1946年5月に就任した石橋蔵相は公定価格を毎月改定するようにし、供給力を高めるために復興金融金庫を設立して投資資金を貸し出せる態勢を整備。鉄鋼業や石炭産業に重点的に資金を配分。

②インフレ減速期(1947年秋~1949年秋)
中間安定計画として、緊縮財政が志向される。経済安定本部が四半期毎に定める計画に基づき、割り当てる資金が決定された。

③デフレ期(1949年秋~1950年秋)
1949年に来日したデトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジが、超均衡予算、復興融資停止、価格差補給金停止をアドバイス。1949年度予算は1567億円の黒字を計上する超緊縮予算となる。超緊縮財政によるデフレが発生。1945年4月25日からは、1ドル = 360円の公定為替レートが実施される。

第二次世界大戦後の通貨体制は、金本位制ではなく、ドルを基軸通貨と定め、ドルに限って1オンス = 35ドルの金との交換レートを設定。そして他国は自国通貨とドルに対する固定レートを定める。米国以外の国は、自国の金保有量に縛られる事無く、ドルと自国通貨の関係だけを考えれば良くなる(ブレトン・ウッズ体制)。

その中で、1950年6月25日に朝鮮戦争(1950年~1953年)が発生し、朝鮮特需が始まる。ドルが大量に日本に流入し、それに合わせて日本円も増刷可能になる。緩和政策への転換。

経済成長のために金を集まる時代は終わり、政府と日本銀行が目標を定めて貨幣量を調整する時代となる。

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経済は世界史から学べ!

読んだ本の感想。

茂木誠著。2013年11月21日 第1刷発行。



以下は、「もぎせかブログ館」へのリンク。

http://mogiseka.at.webry.info/

第1章 お金(1)
紙幣は、民間金融業者が、金銀の預かり証として発行したのが始まり。金銀が信用の源だったが、政府が真似て紙幣を発行するようになり、乱発して信用が失われるようになる。

<交子>
世界最初の紙幣。北宋にて、商人が重い鉄銭を預かり、引換券として発行した。政府が商人から権利を取り上げて、国が発行するようになる。南宋の会子、元の交鈔等は、全て政府が紙幣を乱発してインフレになり、王朝が崩壊している。

欧州では、スウェーデンのカール10世が最初に紙幣を発行しており、民間のスウェーデン銀行が発行していたが、やがて国の恣意的支配から独立した中央銀行(リスク銀行)を設立している。英国でも、名誉革命で即位したウェリアム3世が、フランスとの植民地戦争による国債を引き受けるためのイングランド銀行設立を許可している。

第2章 お金(2)
最初の基軸通貨は、メキシコドル(スペイン領メキシコで発行された銀貨)とされる。やがて19世紀を通じて英国のポンドが国際通貨となり、第一次世界大戦後は米国のドルが国際通貨となる。世界大戦によって貿易代金と戦債の償還金が米国に流れ込んだ事で、米国は世界最大の債権国となった。

第二次世界大戦後は、1ドル = 360円の固定レートを維持したブレトン=ウッズ体制により、米国が日本円の信用を担保した事で日本企業の輸出が促進された。

やがて米国のパワーダウンにより、固定相場制から変動相場制に移行する。日本は円高で輸出企業に不利と分かっていながらも、安全保障を米国に頼っているために1985年のプラザ合意等を受け入れている。

第3章 貿易
自由主義(経済活動の自由を求める)と保護主義(外国製品の流入を阻止して国内産業を守る)の対立。

第4章 金融
金融とは、貸し手が借り手に資金を融通する事で、返済と同時に利子を支払うのが一般的。ハンムラビ法典が、利子の上限を定めた最古の規定らしい。

金融業者として活躍した民族は、異民族に支配された少数民族である事が多い。フェニキア人(中東レバノンを本拠地とした)、ソグド人(中央アジアのウズベキスタンを本拠としたイラン系民族)、アルメニア人(イランと欧州との中継貿易で栄えた)、ユダヤ人、客家(黄河流域から広東省、福建省へ移住)。課税対象になり易い固定資産よりも、持ち逃げし易い金融資産を持つインセンティブ。

第5章 財政
財政とは、政府の収入と支出の事。多くの国家は、官僚機構と軍組織が肥大化し、増税と民業圧迫による貧困層増大によって法家敷いている。

<中国>
漢の武帝による対外遠征の資金を財政危機を克服するために、桑弘羊が均輸法(物価の安い地域で物資を徴発し、高い地域で転売する)や専売制(塩、酒、鉄の販売の国営化)等を行う。

唐王朝は、国有地(均田)を人民に貸し与えて租庸調を取り立てたが、農民逃亡によって破綻すると、塩の専売制によって塩税を重くしたために黄巣の乱等が起こり国乱れた。

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徴税権は権力の源であり、議会政治は課税権をめぐる王と貴族の対立の中から生まれ、経済学は国家財政のバランスシートを重視する思想から生まれた。人口、耕地面積、生産量、税収、貿易収支、軍事費等を数量化し、産業育成による国富増大のための政策決定。

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