抽象の世界の人と具体の世界の人

以下は何となく書く事。フィクション。

僕は小学生だった時に、テレホンカードを祖母から貰った事がある。その時のAとの会話。

A「アだけテレホンカードを貰うなんて不公平だから皆で分けよう」
僕「どうやって?」
A「鋏で切って、数を増やすんだ」
僕「??????」
A「不公平になるより、平等になる方が良い」

**********

こうした考え方の違いが発生する理由は、抽象で考えるのか、具体で考えるのかの違いなのだと思う。『テレホンカード』という概念を具体と抽象で考えた場合、以下のようになる。

具体:公衆電話を使用する際に使用する道具。
抽象:売買する時の金額。

僕は具体的に考える?だからテレホンカードを切り裂くと、道具として使用不可能になると思う。だから切り裂く意味が理解出来ない。平等はあり得ないと思っている。

Aは違う。抽象的な価値として考えている。1000円のテレホンカードを2つに切り裂くと、500円の価値になると思うのか?多分、無価値になると理解しても、感覚的に分割可能な価値であると思ってしまうのか?

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Aの行動の背景として、抽象と具体として把握しているのだと思えば、理解出来るかもしれない。

以下、中学生の時の記憶。フィクション。

A「一緒に買い物に行こう。楽しいよ」
僕「嫌だよ。面倒臭い」
A「嘘だ。本当に嫌がっているなら、そういう顔はしない。
  一か月前も、イヤダイヤダと言いながら、
  最後には楽しそうな顔になってだSGHぱおうひ
  (省略)」
僕「行きゃいいんだろ」

 (買い物の途中)

A「水がノミタイー」

 (Aは水を飲みに一人で帰ってしまう)

***********

『楽しい』とは、抽象概念であるはずだ。しかし、それが具体的な実体として把握されているのだとしたらどうだろう?自分が楽しいと思う事を、楽しいと思わない事が理解出来ないはずだ。

以下のように考える。

具体:あなたの目の前にある物体はパソコンです。
抽象:インターネットをするのは楽しいです。

仮に、上記の抽象を具体で理解する場合、どうなるだろう?インターネットをするのはつまらないと告げるのだ。それは、目の前にあるパソコンが、実はコアラであると告げられるようなものではないだろうか?

幾らコアラだと言われてもパソコンにしか見えない。だから、論理的にコアラではなく、パソコンであると言い出すはずだ。

コアラであるのならば、目や耳や口、手足があるはずだ。
コアラであるのならば、飲食をしなくてはならない。
コアラであるのならば、コンセントやマウスは付属していない。
ETC。

だからこそ、自分が楽しいと思うものを、他人がつまらないと思う事が理解出来ない。知識として知る事は出来るかもしれないが、感覚的には不可能だ。

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上記の例は、珍しい事はないのだろう。人間がどのように目の前の存在を知覚するのか?見えないはずの概念をどのように処理するのか?

それが解析される日はあまりにも遠い。

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まとめ【抽象の世界の人と具体】

以下は何となく書く事。フィクション。僕は小学生だった時に、テレホンカードを祖母から貰った事がある。

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