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物語 スイスの歴史

読んだ本の感想。

森田安一著。2000年7月15日印刷。



第1章 カエサルからカール大帝へ
―ケルト、ローマ、ゲルマン

古代ローマ期のスイスには、ケルト人のヘルウェティイ族が居住し、カエサルのガリア戦記には西ガリアへ移住しようとしたヘルウェティイ族を押し止めてゲルマン人の南下を防ぐ楯にしようとした話がある。

紀元前15年にはスイス全体がローマ支配下となり、ゲルマン諸族攻撃のための準備拠点となる。やがてローマ帝国の崩壊によって東スイス地域が東ゴート王国の支配下に入ったと考えられる。

〇ブルグント王国(スイス西部)
ライン川中流域に王国があったが、436年にフン族等によって打撃を受け、ジュネーヴ、リヨン付近の「樅の国」に定住し、443年にブルグント王国を建設。文化的にはローマ化し、王国のあったヴァリス、ヴォー、フリブール、ジュラ地方はフランス語地域となっている。

〇アレマン公国(スイス東部)
東ゴート王国は526年に国王テオドリックが亡くなると衰退し、アレマン人がスイスに移住し始める。キリスト教布教は六世紀末頃から。

〇フランク王国
843年のヴェルダン王国によって王国が分割されると、分割線がスイスの中央部分を通ったため、政治的に重要な場所となり、東フランク王ルートヴィヒは修道院を建設して所領を寄進し、修道院長の任免権を確保する事で間接的に支配しようとした。

第2章 神聖ローマ帝国
―諸侯割拠の時代

1218年に有力諸侯ツェーリンゲン家が断絶すると、チューリヒ、ゾーロトゥルン、ベルン等の都市が自治を認められるようになる。

神聖ローマ帝国によってイタリアとドイツの緩衝地帯として重視され、スイス中世都市197の内、152都市は十三世紀に建設された。ツェーリンゲン家の断絶後に権力空白が生じ、貴族等が勢力拡大に力を注いだ結果と思われる。十四世紀にはペストが流行する等として経済的後背地を持たない都市は消えていった。

第3章 スイス盟約者団の成立
―原初三邦同盟から八邦同盟へ

中央アルプスを越えるザンクト・ゴットハルト峠が開削されると、欧州の重要南北交易路となる。中央スイス三地域(ウーリ、シュヴィーツ、ニートヴァルデン)はハプスブルク家と対立するようになり、1291年に永久同盟を結んで相互援助を誓約した。

ハプスブルク皇帝ハインリヒはイタリア政策に精力を注ぐためにザンクト・ゴットハルト峠超えのルートを確保する必要があり、1309年に原初三邦に城外の世俗裁判権からの自由を保証した。

〇モルガルテン同盟
1314年に結ばれ、原初三邦の各地域が他地域の同意なくして主君を取らない事や、邦外勢力と交渉しない事が規定された(共同外交の意志)。

〇ルツェン同盟
1332年に都市ルツェンが、フィーアヴァルトシュテッテ湖の対岸にある原初三邦と同盟を結ぶ。湖が同盟の内海となる。

〇チューリヒ同盟
1351年にチューリヒが原初三邦、ルツェンと同盟を結ぶ。外交政策の自由が認められ、相互援助を行う緩やかな同盟。

上記の後に、グラールヒ(1352年)、ツーク(1352年)、ベルン(1353年)とも同盟が結ばれ、八邦同盟が成立する。

第4章 対外膨張の時代
―強国スイス

スイスは十四世紀後半頃から関税徴収等の支配を強めようとするハプスブルク家との戦いに勝利し、十五世紀初頭にはハプスブルク家の根拠地アールガウをスイス盟約者団の共同支配地として獲得した。

1460年にはハプスブルク家の所領トゥールガウを獲得する等して、十五世紀後半には北・東・南で現在のスイスの領域が確定していく。西部は、1474年頃のブルゴーニュ公シャルルとの戦争で確定する。

1481年にはシュタンスで開催された盟約者団会議によって10の邦が結合して、依然として神聖ローマ帝国支配下にあるものの相互援助を行う政治体制が出来上がっていった。シュヴァーベン戦争後の1499年のバーゼルの和約によって、スイス盟約者団は神聖ローマ帝国から離脱する。

スイスでは十五世紀末頃より人口が増加し、過剰人口の捌け口としての傭兵出稼ぎが盛んになった。特に傭兵を多く雇ったフランスとは関係が深まる。

第5章 宗教改革と対抗宗教改革
―盟約者団の分裂の危機

チューリヒで十六世紀初頭に宗教改革が行われると、コンスタンツやバーゼル、シャフハウゼンにも宗教改革が波及し、1531年の第二次カペル和平ではカトリックと改革派信仰の相互容認が確認された。

それでも宗教対立は残り、1555年に共同支配地ロカルノからチューリヒに追放された改革派がチューリヒに絹織物生産技術を伝えたとされる。

第6章 アンシャン・レジームの時代
―門閥寡頭政治の矛盾

三十年戦争において激しい宗教戦争に巻き込まれる事を嫌ったスイスは中立を維持し、国境保全のために1647年頃にヴィール防衛軍事協定が締結され、スイス武装中立の出発点となる。戦争における農産物価格上昇はスイス経済を潤したとする。

十七世紀後半にフランスでユグノー教徒が弾圧されると、1685年~1700年に約14万人がスイスに亡命し、ジュラ地方等のフランス語圏を中心に時計産業育成に貢献した。

第7章 変転するスイス
―革命と復古

1797年にナポレオンが北イタリアにチザルピナ共和国を樹立し、スイスに傀儡政権を打ち立てて、ヴァリス、ヴォー地域を通るパリ・ミラノ間を最短距離で結ぶ道路を軍事道路として確保しようとする。1798年にスイスはフランスに侵略され、フランスの力で革命が行われた。

スイスはナポレオンの衛星国家となり、1806年の大陸封鎖令に参加した事で英国との競争が排除され、繊維工業が発展した。

第8章 連邦国家への道
―分離同盟戦争前夜

1830年のパリ七月革命の影響で、チューリヒ等で自由主義運動が起こる。保守派との戦いが発生し、1847年頃には分離同盟戦争が発生する。急進派が勝利し、1848年の二月革命の影響等で他国が介入出来なかった事もあり、四八年憲法が制定された。

第9章 すべては国民によって
―合意民主主義へ

1835年にドイツで最初の鉄道が敷設されるとスイスにも反響があり、1847年にチューリヒ―バーゼル間に鉄道が敷設された。1852年の鉄道法以後はスイス鉄道網は急速に整備される。安全保障上の理由等から1898年に鉄道国有化法案が採択される。

民主化も進展し、1869年には直接民主制を取り込んだ憲法改正が行われる。任意的住民投票(レファレンダム)によって半直接民主制が推進される。

第10章 戦争と危機
―両世界大戦間の苦悩

十八世紀末頃よりスイスでも産業化が始まり、労働運動が発生するようになる。特に世界大戦期の物不足の時には労働争議が頻発した。

第二次世界大戦期には枢軸国に取り囲まれる状況が発生したが、欧州南北を結ぶザンクト・ゴットハルトとシンプロンのトンネルを爆破すると警告して独立を保った。

終章 二一世紀の入り口に立って
2000年にスイスでは憲法改正が行われ、政治的伝統である半直接民主制(レファレンダム、イニシアティヴ制度)が維持されたものの、国際法が憲法改正をする場合の限界を示すと位置付けられ、EU加盟に向けた礎となっていると思われる。

しかし、著者は国内の保守派動向から、当面のスイスEU加盟は無いものと予想している。

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