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ボリビアの歴史

読んだ本の感想。

ハーバート・S・クライン著。2011年7月30日 第1刷発行。



戦争に敗北する話が続くので気分が重くなった。支配地として価値が少なかったために独立を維持出来たのかもしれない。

第一章 国土外観と先スペイン期の文明
ボリビアは、緯度上は高地に属しながらも、標高が高く、古代から多くの人々が標高1500m以上の地で暮らした。アルティプラノ(ティカティカカ湖の北端から南に向けて全長800㎞に及ぶ平均標高3500mの平地部分)では農耕や牧畜が行われた。現在でもボリビア全体の鉱物資源の80%を産する東部アルティプラノは錫ベルトとしてボリビア経済を支える。

第二章 植民地社会の成立
十六世紀前半からのスペイン植民地時代には、ポトシ銀山を中心に、家畜等を供給するアルゼンチン北東部との連携が強まった。労働力として先住民インディオは強制移住させられ、ペルー副王だったフランシス・トレドの改革(1572年~1576年)によって12万9000人のインディオ共同体約900が44ほどにまとまった。カトリック教会がインディオ支配に利用される。

東部渓谷地帯(ユンガス)でのコカ生産は、インディオ貴族に嗜まれたコカが全階級に広まった事で拡大。

第三章 後期植民地社会―危機と成長―
十七世紀半ば以降、ポトシ銀山とオルロ銀山の産出量が減少すると、経済活動低調により都市人口停滞が発生した。一方で鉱山労働者だったインディオが農村に帰還した事で、十九世紀にコレラ等が流行するまで農村部の人口は増加し続ける。

スペイン王室は新たな植民地体制としてフランスを参考にしたインテンデンテ(地方長官)制度を導入し、スペイン王室が直接任命する地方長官が、1784年から四地域(ラパス、コチャバンバ、ポトシ、チュキサカ)に置かれた。

地方長官は経済発展に取り組み、十八世紀の終りにコチャバンバはトクヨ織物の一大産地となり、鉱山産業に民間業者が参入した。

第四章 独立戦争と国家の形成 一八〇九―一八四一
ナポレオン戦争による欧州の混乱は南米にも波及し、シモン・ボリーバル等の独立運動によりボリビアの独立が1825年に達成された。

シモン・ボリーバルは大陸統一構想を持っていたが、大勢は地域内の自治国家を形成する動きが強く、ペルーとの合併も意見されたが、ペルーにとってボリビア(チャルカス)はアルゼンチンとの紛争を避ける緩衝地帯という位置付けだった。

その結果、各国の関税制度によって北アルゼンチンとの交易関係が崩れ、ボリビアは他国から港湾使用料を請求されるようになる。当時は海岸に領土を持っており、アタカマ砂漠にコビハ港を創設するも貿易には不向きだった。

第二代大統領スクレは、財源確保のためにカトリック教会解体(献金の管理権や所有財産の奪取)を行い、国家財政は健全化出来なかったが宗教の政治への介入を防いだとする。

1836年にペルー=ボリビア連合が形成されるが、競合関係にあるチリが干渉し、1838年からの戦争でペルー=ボリビア連合は敗北して連合は1841年に崩壊した。

第五章 国家の危機 一八四一―一八八〇
1846年に行われた国勢調査ではボリビアの人口は約150万人とされる。ボリビアは1850年代からの蒸気エンジン性能向上の恩恵を受け、鉱山が再生する事で国家財政が健全化した。1840年代には、コカ葉が年間平均20万ペソ生産されるようになり、キニーネの原料となるキナ皮と合わせて主要輸出品となる。

外交も盛んになり、1860年代後半には隣接する全ての国と通商・国境に関する条約を締結し、1866年のチリとの条約ではヨヒヨネス地域等の領土問題を全てチリ側に有利になるよう図る代わりに太平洋沿岸部のチリ領の港から鉱山製品を輸出する際のボリビアの関税を免除する事にした。

しかし、1879年にチリとの間に硝石資源等を争って太平洋戦争が勃発し、ボリビアは海岸領土を完全に喪失した。

第六章 銀と錫の時代 一八八〇―一九三二
1880年に軍事政権に代わる文民政府が誕生し、以降、1934年まで文民寡頭制がボリビア政治の基本方針となる。

安定した政治の下で鉱山産業が発展し、銀・錫という少数の鉱物価格によって国内経済が左右される状況が続いた。1929年までボリビアはナイジェリア、マレーシア、インドネシアと合わせて世界の錫の80%近くを生産したが、ボリビアの錫は品質で劣り、輸送費用による赤字体質のために世界恐慌の影響を大きく受けた。

1932年からのパラグアイとのチャコ戦争は経済危機による政治危機を拭い去る目的があったが敗北し、文民政府の権威が失墜して1952年のボリビア革命につながる。

第七章 既成秩序の崩壊 一九三二―五二年
1932年~1935年に発生したチャコ戦争では、全人口200万人のボリビアで6万5000人程度(全ボリビア軍の25%)の死者が発生し、チャコ世代と呼ばれる政治体制に疑問を持つ世代を生み出した。1936年には軍事クーデターが発生した文民政治は終わった。

1941年に米国が第二次世界体制に参戦すると、ボリビアも1942年に参戦した。

1952年には国民革命運動党による左派政権が誕生し、軍事政権は終わる。

第八章 ボリビア革命から冷戦まで 一九五二―八二年
1950年のボリビアは農業従事者が全経済活動人口の72%と大多数だったが、米国による援助もあってボリビアは経済的に安定した。1973年~1974年には国際市場の錫価格が約二倍になったために過去最大の貿易黒字が発生し、石油価格高騰によって1974年に石油が全輸出量の25%を占めるようになる。

貿易収支黒字は建設ラッシュを引き起こし、首都ラパスからオルロ、ティティカカ湖に至る舗装道路網が拡張された事で、コカイン国際違法取引が盛んになり、チャパレ地方のコカ生産量は新道路完成前に国際総生産の5%~10%だったのが70%を占めるまでになった。

1964年から軍による無血クーデターが発生し、1982年まで続く。資源価格安定によって経済が不安定化し、1979年に国内総生産が1950年代以来のマイナス成長となった事が影響している。

第九章 多民族民主主義国家への道 一九八二―二〇〇二年
1980年代の文民政権においては、インディオの影響力が強まった。

経済においては天然ガスや大豆の輸出が盛んになり、コカによるインフォーマルな経済の影響をある程度は薄めた。

第一〇章 メスティーソとインディヘナ・エリートの台頭
二〇〇二―二〇一〇年

2002年の選挙ではメスティーソとインディオの団体が空前規模の封鎖を怒って存在感を示し、2005年にはボリビア初のインディオの大統領が誕生した。

2010年時点のボリビア人口は約1040万人で、1950年の約270万人より大幅に増加している。

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