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物語 チェコの歴史

読んだ本の感想。

薩摩秀登著。2006年3月25日発行。



第一章 幻のキリスト教国モラヴィア
―キュリロスとメトディオスの遠大な計画

863年頃に、ビザンツ帝国皇帝ミカエル三世が、コンスタンティノス(キュリロス)、メトディオス兄弟をモラヴィア王国に、キリスト教布教のために派遣した話。

モラヴィア王国は、東フランク王国に圧迫されており、キリスト教布教を大義名分に征服を進めるフランク王国に対して、宗教的に自立する道を模索したものと思われる(自分達と同じスラヴ語での布教の実現)。

モラヴィア王国は、902年~906年にマジャール人に侵攻されて崩壊している。マジャール人によるハンガリー王国はローマ教皇を首長とするカトリックの傘下に入り、スラヴ語派はブルガリアに逃れた。

近代になってモラヴィアの末裔を自負するチェコ人の中でスラヴ系民族としての意識が広まると、スラヴ語系キリスト教を伝えた二兄弟は聖人として讃えられるようになる。

第二章 王家のために生きた聖女
―聖人アネシュカとその時代

チェコの首長の一人ボジヴォイはモラヴィア王国崩壊後に勢力を伸ばし、十世紀末には盆地状のチェコ全域、十一世紀半ばにはモラヴィア王国の跡地を支配下に収めて、現在のチェコ共和国に相当する領域に国家を築いた。

チェコはプシェミスル家に統治され、神聖ローマ皇帝に認可される大公という形式を採った。1212年に、チェコ大公プシェミスル・オタカル一世は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世から皇帝就任協力への礼として国王の称号を許される。

オタカルの末娘アネシュカ(1211年~1282年)は、政略結婚を拒否して修道女となり、托鉢修道制をチェコに広めた。当時は豪勢な生活をするカトリック教会上層部への批判があり、清貧を謳う修道会は多くの支持を集める。

第三章 皇帝の住む都として
―カレル四世とプラハ

1306年にプシェミスル家のヴァーツラフ三世が男系を残さずに死ぬと、ドイツ王ハインリヒ七世の息子ヨハンがルクセンブルク王朝の始祖として担ぎ出される。

その子であるカレルは1346年にドイツ王にも選ばれている。カレルは1356年に金印勅書を完成させ、ドイツ王選挙の方式を定め、教皇のドイツ介入を認めない一方、イタリアにおける教皇優位を認めた。

チェコのプラハを帝国統治の拠点としてカレルは、聖ヴィート大聖堂等を建設した。1348年には神聖ローマ帝国で最初の大学がプラハに創設され、文化の中心となる。

第四章 「異端者」から「民族の英雄」へ
―教会改革者フスの業績と遺産

十五世紀初頭に、プラハでカトリック聖職者への疑念を説くフスの説教が人気を集める。政治的に優遇されていた教会は莫大な財産を持つようになっていた。
1412年にローマ教皇が販売した贖宥状をフスが批判し、プラハで暴動が起ると、フスは異端者として処刑され、チェコにおける宗教争議の発端となる。

1436年に穏健フス派とカトリック教会との間に和解が成立し、十七世紀の三十年戦争でカトリック以外の宗教がチェコ王冠諸都市で禁止されるまでフス派とカトリックの共存は続く。

現在でのチェコはカトリックが圧倒的に優勢だが、フスは民族自立の象徴として崇拝されている。

第五章 貴族たちの栄華
―ペルンシュテイン一族の盛衰

チェコは盆地状のチェコ地方(水系のヴルタヴァ川はエルベ川と名を変えてバルト海に注ぐ)、モラヴィア地方(北から南に流れるモラヴァ川流域に開ける)からなる。

モラヴィア地方の貴族ペルンシュテイン家は、フス戦争における混乱に乗じて勢力を拡張し、十六世紀にハプスブルク家に圧迫されるまで勢力を維持する。

ハプスブルク家の地位が定着するに連れて大貴族が自らの領地に君臨する群雄割拠のスタイルでなく、ウィーン等の王宮で皇帝に直接仕える事が名誉となっていく。

第六章 書籍づくりに捧げた生涯
―プラハの出版業者イジー・メラントリフ

1530年代初頭にプラハ大学に学籍登録したイジーク・チェルニーが、後にメラントリフの名で数々の書籍を世に送り出す。1549年にはチェコ語版聖書を出版。

第七章 大学は誰のものか
―プラハ大学管轄権をめぐる大騒動

三十年戦争以降、チェコではハプスブルク家への忠誠とカトリック教会独占を柱とする絶対主義体制が築かれる。フス派の拠点であったチェコ大学はイエズス会に吸収され、カトリック知識人がチェコの精神文化の担い手となる。

第八章 大作曲家を迎えて
―モーツァルトとプラハの幸福な出会い

十八世紀後半の啓蒙絶対主義の雰囲気の中でチェコでも新しい文化活動が盛んになる。チェコ初のオペラハウスは1724年に建築され、1781年にはプラハに大規模なオペラハウス(ノスティッツ伯爵の国民劇場)が建設された。

1787年にはモーツァルトがプラハを訪れている。

第九章 博覧会に賭けた人たち
―チェコの内国博覧会

1891年に開催された内国博覧会について。

当時のチェコでは民族的感情が自覚されるようになり、ドイツ系(機械工業中心)とチェコ系(製糖業等の食品工業中心)との間に対立があり、商工会議所でチェコ系が優位な事への反発もあり、ドイツ系企業は内国博覧会に出展しなかった。

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフは、ドイツ系とチェコ系が険悪になった経緯から訪問を躊躇い、博覧会終盤にプラハを訪問し、その後にドイツ系の中心都市リベレツを訪問している。

第一〇章 「同居」した人々、いなくなった人々
―スロヴァキア人、ドイツ人、ユダヤ人

第一次世界大戦でのハプスブルク帝国崩壊によってチェコスロヴァキアは建国される。

チェコと合同したスロヴァキア人は、チェコ人と同様に六世紀~七世紀に移り住んだスラヴ系の人々であり、十世紀に成立したハンガリー王国の支配下に入った事からチェコ人と分かれた。

歴史的に一応の国境線が存在したチェコと異なり、スロヴァキアの領域は不明確であり、南部に成立したハンガリー共和国と領土争奪戦が繰り広げられ、双方の領土の中に相手国の民族が少数民族として取り残された。

1921年の人口統計では、総人口1337万人の内、チェコスロヴァキア人が876万人、ドイツ人が312万人、ハンガリー人が75万人、ウクライナ人が46万人、ユダヤ人等が28万人であり、少数派とはいえ多いドイツ人が後のナチスドイツ侵略の口実となる。

スロヴァキアはチェコと比較して貧しい農業地帯中心で高等教育を受けた人々も少なく、チェコスロヴァキアがプラハ中心の中央集権体制となる事に不満が募った。

1939年にはドイツの支持によってスロヴァキア共和国独立が宣言され、第二次世界大戦終結によってチェコスロヴァキアに戻るも1969年には連邦制が採用され、1992年に連邦が解体された。

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