オスマン帝国衰亡史

読んだ本の感想。

アラン・パーマー著。1998年3月10日 初版発行。



十七世紀後半から崩壊を確実視されていたオスマン帝国が、結果的には二十世紀初頭まで継続した事について。

存続と衰退の一因は、東西交易の要衝コンスタンティノープルを押さえる立地にあり、各国が牽制し合うためにオスマン帝国を決定的に追い詰める事は出来ず、また、オスマン帝国も煩雑な欧州事情から離れて中東経営に専念出来なかった。

宗教もまた両刃の剣であり、カルフ位の威光がオスマン帝国スルタンの権力を強大なものとする反面、西欧化への心理的障壁となった。

オスマン帝国を悩ませたバルカンや中東の民族問題は現代でも継続している。

〇メフメット四世(在位:1648年~1687年)
1683年の第二次ウィーン包囲を行うも敗退する。

メフメット・キョプリュリュとフェズィル・アフメットという有能な宰相の国家運営により富を築く。

〇ムスタファ二世(在位:1695年~1703年)
1697年にオーストリア軍との戦いに敗れ、1699年のカルロヴィッツ条約、1700年のコンスタンティノープル条約でオーストリアやロシアにバルカンや黒海での領地を渡す。

勝利したオイゲン公は、スペイン継承戦争でも活躍している。

〇アフメット三世(在位:1703年~1730年)
花の愛好者であり、統治時代をチューリップ時代と呼ぶ。

前帝からの宰相アムジャザーデ・ヒュセインの軍制改革がある程度は実を結び、1711年のプルート会戦ではロシア軍に勝利し、ギリシア南部を奪回した。

1718年に宰相になったイブラヒム・パシャ・キュリイェシは外交使節をフランス等に派遣し、資産税や戦争助成税を導入した。

〇マフムト一世(在位:1730年~1754年)
フランス人将軍ボンネヴァル伯爵に軍近代化を託すもイェニチェリの抵抗で上手くいかない。

1736年~1739年のロシアやオーストリアとの戦争では勝利し、セルビアを奪回する。

〇ムスタファ三世(在位:1757年~1774年)
1761年にプロイセンと友好条約を結ぶ。

しかし、1768年~1774年のロシアとの戦争には敗れ、キュチュク・カイナルジ和約によってオスマン帝国の勢力範囲は黒海北岸まで縮小される。

〇アブデュルハミト一世(在位:1774年~1789年)
ハンガリー人トット男爵を招聘し大砲鋳造所や数学研究所を作る。それまでの軍事顧問はトルコ人になる事が求められたが、トット男爵はムスリムに回収せずにやがて帰国し回想録を書いている。

ロシアとの抗争や、周辺諸州の暴動鎮圧は、後の時代にまで改革を限定する事になる。

〇セリム三世(在位:1789年~1807年)
徴兵制度や非宗教的学校創設等の新体制発足を目論むも失敗。

軍事封土を王領地とし、徴税請負人に貸し与える制度を採った。

〇マフムト二世(在位:1808年~1839年)
1826年に、エジプト領主ムハンマド・アリーの洋式軍隊を活用して、ギリシア反乱を鎮圧。同年には洋式軍服やライフル銃使用訓練を導入。郵便制度や電信網拡充も行う。

しかし、ムハンマド・アリーが勢力を拡大し、1832年にシリアとレバノンを征服する等して反抗する。

〇アブデュルメジト一世(在位:1839年~1861年)
ムハンマド・アリーとの戦争に悩むが、オーストリアやロシアがオスマン帝国解体により、バルカン民族主義が野放しになる事を怖れてオスマン帝国を支持。1841年に海峡協定により和解が成立。

中央集権制と政教分離政策による改革運動(タンズィマートゥ・ハイリエ)を行う。

1856年にはバルカン半島ヴァルナからドナウ川までの戦略物資輸送用鉄道を敷く。しかし、オリエント鉄道計画は、1873年5月9日のウィーン株式市場暴落により進展が阻まれた。株式市場暴落は、総財源の約半分が外国借款の支払い等に消えるオスマン帝国の財政を直撃し、改革の障害となった。

〇アブデュルハミト二世(在位:1876年~1909年)
ミドハド・パシャを議長に憲法を発布するも、スルタンが憲法を気ままに変えられる権利を確保した。さらに憲法113条では、スルタンが危険と思った人物を追放出来るよう規定している。

1881年には欧州銀行家によるオスマン帝国財政の長期的後見を認め、オスマン帝国債務管理局が設立され、アブデュルハミト二世在位中に国税が約43%増加したらしい。

しかし、欧化政策がイスラム法に抵触する懸念から、改革は徹底されなかった。

〇メフメット五世(1909年~1918年)
第一次世界大戦においてドイツと同盟し、帝国崩壊を早める。

第一次世界大戦後に、トルコは共和国として政教分離体制を採択する事となる。新生トルコにおいては、イスラーム的な民族主義ではなくトルコ愛国主義が特徴となり、勢力範囲も縮小した。

オスマン帝国は崩壊したものの、公務員養成学校や士官学校での人材育成によりトルコの近代化の礎となった。

オスマン帝国の衰退は、十八世紀末の西欧革命時代において中央集権制がオスマン帝国に浸透し、スルタン専制政体の問題が指摘されながらも、それに代わる政体を提示出来なかったためかもしれない。

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