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イギリス史10講

読んだ本の感想。

近藤和彦著。2013年12月20日 第1刷発行。



第1講 イギリス史の始まり
1 イギリス史とは
英国は、グレートブリテン島とアイルランド島と数千の小島からなる連邦国家である。

英国史の特徴は、海から渡来する新要素と、原住民の抵抗と受容の歴史である。

2 自然環境と先史の人びと
ブリテン島が欧州大陸から離れて島になったのは、紀元前7000年頃~紀元前6000年頃に氷期が終わり、海水面が上昇してからである。温暖化に伴って人口が増加し、紀元前2300年頃には南部にストーンヘンジが建設されている。

第2講 ローマの属州から北海の王国へ
1 ローマの文明
ローマの将軍カエサル(紀元前100年~紀元前44年)が、紀元前55年、紀元前54年にブリタニアに侵攻し、その約100年後にローマ皇帝クラウディウス(在位:41年~54年)がブリタニアをローマ領とした。

しかし、ウェールズやスコットランドの支配は安定せず、皇帝ハドリアヌス(在位:117年~138年)はタイン川河口からソルウェイ湾までハドリアヌスの壁を建設し、皇帝アントニヌスピウス(在位:138年~161年)はフォース湾からクライド湾までアントニヌスの壁を建設した。二つの壁に挟まれた低地地方がスコットランド王国の中核となっていく。

2 部族国家、古英語、キリスト教
409年にローマ軍団がブリテン島から撤退し、以降の800年頃までをローマ後と呼ぶ。この時にゲルマン人やキリスト教が流入し、七世紀頃には旧属州ブリタニアに7つほどの部族国家が成立し、独自規範を持つ言語エングリシュが形成された。

3 ノルマン複合のなかのイングランド王国
八世紀末から九世紀にかけてスカンディナヴィア半島からヴァイキングが来襲し、アイルランドのダブリン、ノーサンブリアのヨーク、ノルマンディーのルアンが拠点となる。

〇アルフレッド(在位:871年~899年)
英国南西部ウェセクス国王。『アングロサクソン年代記』や『アルフレッド伝』に記録を残し、ラテン語を学んだとされる。曾孫のエドガ(在位:959年~975年)がイングランドを統一。エドガは973年に戴冠式を行い、神の祝福によって自らの権威を確立した。

エドガ王の子 エゼルレッド二世(在位:978年~1016年)は、デーン人の襲来を受け、イングランドはデンマーク王カヌートの単独統治となる(在位:1016年~1035年)。

カヌートは、エゼルレッド二世の妃エマと再婚するも、王位はエゼルレッド二世の子 エドワード(在位:1042年~1066年)に継承される。

その後は、エマの兄弟であるリシャールの子 ロベールの子であるノルマンディー公ギヨーム(在位:1066年~1087年)が征服王ウィリアム一世として即位する。

第3講 海峡をまたぐ王国
1 ノルマン征服からアンジュ朝へ
1066年以降のノルマン王朝は、以下の影響を残した。

①アングロ=ノルマン複合
フランスからノルマンディの戦士が渡来し、高位聖職者にフランスやイタリア系が着任した。

②統治台帳
イングランド国王ウィリアムは検地台帳によって領土の広さ、人口、権利関係等を記録し中央集権の基礎とした。

③文化転換
ロマネスク様式やフランス語単語導入等。

〇アンジュ朝
ウィリアム征服王の孫マティルダ(1102年~1167年)は、フランス中央部のアンジュ伯ジョフルワと婚姻し、その子アンリ(ヘンリ)は1152年にアキテーヌ公女アリエノルと結婚し、ヘンリ二世(在位:1154年~1189年)となってアンジュ朝を開く。

ヘンリ二世の子ジョン欠地王(在位:1199年~1216年)はフランス王との戦いに連敗し、1215年に諸侯の特権と封建的慣行を書き連ねた大証書(マグナ・カルタ)に調印し、制限王制とされる法と慣行による政治の原形とした。

2 イングランドとウェールズ、スコットランド
ヘンリ三世(在位:1216年~1272年)の治世中、1258年にシモン・ド・モンフォールが率いる諸侯がクーデターを起こし、諸侯大会議(後の身分制議会)が作られた。

エドワード一世(在位:1272年~1307年)の治世中には、以下のように領土が拡がった。

ウェールズ:
1301年にイングランド王の長子がウェールズ公としてウェールズを統治するようになる。

スコットランド:
1296年に攻め込んで即位式で用いる「スクーンの石」と王冠を奪う。1328年にスコットランド独立を認める条約が結ばれるが、エドワード三世(在位:1327年~1377年)がスコットランド南部を占領する等敵対関係は続く。

アイルランド:
ヘンリ二世の時代から植民が始まり、1315年にはブルース兄弟の反乱が起こる。

3 百年戦争と黒死病
百年戦争(1337年~1453年)は、フランスのアキテーヌ地方における中世的秩序への、英仏王権の干渉という側面がある。英仏王室は対等ではあるが、英国王室はアキテーヌ公としてフランス王の下位にあり、フランス王が勢力を拡張し、アキテーヌの紛争に総主権者として介入すると問題が発生する。百年戦争後は英仏の複数の政体が分かたれ、近世的な国家秩序へと移行する。

百年戦争が終わった1453年に英国王ヘンリ六世が昏睡状態に陥り、王位継承権を巡る薔薇戦争(1455年~1487年)が発生する。

〇黒死病
1348年~1350年に流行し、ブリテン諸島人口の30%以上が死亡する。人口減少にも関わらず、1381年にリチャード二世が人頭税を課した事で農民一揆が発生する。リチャード二世は1399年に「臣民の財産を奪う専制者」として廃される。

第4講 長い十六世紀
1 一五〇〇年ころの世界とイギリス
ルネサンスと新航路の時代。英国は世界市場と一体化し、国民意識が醸成されていく。

1500年頃の英国人口はブリテン諸島で440万人ほどで、フランスの約1600万人、イタリア半島の約1000万人、イベリア半島の約900万人と比較して少ない。

英国は羊毛という原料供給基地から毛織物産業育成に成功し、毛織物は1802年まで輸出品の一位となる。他に英語や議会政治、キリスト教信仰等の特色。

2 主権国家と国教会
〇テューダ朝
ヘンリ七世(在位:1485年~1509年)からエリザベス(在位:1558年~1603年)までの三世代、五人の君主が君臨した。

ヘンリ八世(在位:1509年~1547年)は、自身の離婚のためにトマス・クロムウェル(1485年~1540年)の力を借りて1532年に上訴禁止法を成立させる。契約や婚姻をめぐる係争・訴訟をローマ教皇庁でなく国内に訴えるようにして、インペリウム(至上権力の及ぶ範囲)を確定させる。

1534年の首長法ではイングランド国教会をローマから自立させ、国王を首長とする国教会を宣明した。1536年から修道院を収用して王領として歳入源とし、州長官/総監制度によって全国的統治を実現。

3 女王の伝説、等
スコットランドのスチュアート朝メアリ女王(在位:1542年~1567年)とイングランドのテューダ朝メアリ女王(在位:1553年~1558年)が並立した話。

テューダ・メアリはカトリックを復活させようとするが失敗する。

次のエリザベル女王はプロテスタントで、ローマ教会から独立して国家主権を確立しようとした。

4 大ぶりたんや国ぜめし帝王
英国東インド会社は1613年に日本と交渉する。三浦按針(ウィリアム・アダムス)が徳川家康宛の手紙を翻訳した。

英国の国名を、いがらたいら、大ぶりたんや等と訳し、ジェイムズ王をぜめし帝王とした。

第5講 二つの国制革命
1 論争的な十七世紀
1603年にテューダ朝が終わり、スコットランド王ジェイムズ六世(在位:1567年~1625年)がジェイムズ一世(在位:1603年~1625年)となってスチュアート朝が始まり、イングランド・スコットランド・アイルランドが連結した。

この時代に始まる専制が議会制民主主義の源になったというホウィグ史観や、絶対主義は崩壊するというマルクス主義史観の論争がある。

2 三王国戦争とピューリタン共和国
チャールズ王(在位:1625年~1649年)の課題は以下の通り。

①結婚
1625年にルイ十三世の妹アンリエット=マリと結婚。

②外交戦略
フォルツ選帝侯フリードリヒはプロテスタントの盟主で姉の嫁ぎ先。フランスはカトリックだが王妃の実家。

③信教
カルヴァン派の予定説・長老主義とアルミニウム派の恩寵普遍説・自由意志論の対立。

1628年に戦費徴収のために招集された議会派は「権利の請願」を提出し、王権は制限されていく。1640年に招集された長期議会は、三年毎に総選挙を行う事となる。

三王国戦争:
1642年にチャールズ王が、議会を急襲して内戦が始まる。オリヴァ・クロムウェル等が指揮する議会軍が勝利。1648年には制限王制をめぐって再び開戦し1649年にチャールズ王は処刑される。

王制は廃され、イングランドは「国民という最高権威によって統治される共和国にして自由な国家」と宣言された。1653年にクロムウェルは護国卿に就任し、「イングランド・スコットランド・アイルランド共和国」が成立した。

3 王制・国教会・議会の再建
クロムウェルの死後、機能不全に陥った立憲軍事政権のため、オランダ亡命中のチャールズ二世が帰還し、ブレダ宣言によって財産権保障や信教の自由を約束した。

1661年に戴冠したチャールズ二世の在位は1649年~1685年と法制的フィクションにより定められている。

1662年に妃となるポルトガル=ブラガンサ朝の姫カタリナは、アフリカのタンジール港、インドのボンベイ港、ブラジル・インドへの自由貿易圏を齎した。

弟ヨーク公ジェイムズが、ジェイムズ二世(在位:1685年~1688年)は議会の製肘を嫌ってローマカトリックを強制するも、1688年の名誉革命によって追放され、スチュアート朝のチャールズ一世の孫でプロテスタントのオラニエ公ウィレム三世、メアリの夫妻が英国王となる。

1689年に権利章典が成立し、議会主権の原則が確立する。

第6講 財政軍事国家と啓蒙
1 長期変動のなかの一六―一八世紀
1540年代のイングランド人口は300万人未満で、1650年頃に520万人程度、1680年代に480万人台となり、十八世紀後半から急速に増加して1800年頃には1000万人を超えた。

十七世紀には欧州全域が交通・商業の発達によって一つの市場圏として価格が平準化し、欧州商業の中心は地中海から北西欧に移行した。それに伴って都市化する英国の食糧需要はバルト海南岸からの輸入によって賄われた。

1689年の名誉革命は、欧州構造変化の最終局面で、オランダから商業覇権や人材が英国に軟着陸する契機と言える。

2 プロテスタント連合王国の政治文化
十七世紀にあった以下の問題。

①王位継承
1701年にジェイムズ二世が亡命先のフランスで死ぬと、長子ジェイムズ=エドワード・スチュアートの王位継承の問題が発生する。1702年の王位継承法によりアン女王(在位:1702年~1714年)の後継をプロテスタントでジェイムズ一世の孫 ハノーファ選帝侯妃ソフィアと定めて亡命カトリック宮廷を排除し、スチュアート家の祖地スコットランドに対しては1707年にスコットランド王国の主権を吸収する事で対応した。

1714年にはハノーファ選帝侯ソフィアの長子ゲオルグ=ルートヴィヒがジョージ一世(在位:1714年~1727年)として即位し、ハノーヴァ朝が始まる。

②第二次百年戦争(1689年~1815年)
名誉革命からナポレオン戦争に至るフランスとの争い。地球上の要所で争う英仏によって世界近代史が画された。戦費を賄うために直接税が創設され、1692年には国債発行、1694年には国債引受銀行としてのイングランド銀行が設立された。

3 啓蒙、商業社会、モラル哲学
大航海、人文主義、科学革命によって世界を全て理解し、旧態を批判する政策学が盛んになる。啓蒙の代表具現は、1751年にパリで刊行が開始された『百科全書』とされる。

バーナード・マンドヴィルの『蜂の寓話―私悪こそ公益』(1714年/1723年)は、私利私欲の追求が社会を活性化させるという、アダム・スミスやケインズにも通じる社会哲学を唱えた。

誇示的消費によって英国はキャラコ、紅茶、砂糖、陶磁器などを輸入して慢性的な貿易赤字体質になり、生産地の植民地化、有利な通商条約、模倣商品開発等の対策を行う。

第7講 産業革命と近代世界
1 帝国と連合王国のかたち
英国のアイデンティティに関する以下の事象。

①スコットランド合同(1707年)
②ハノーファ侯国との同君連合(1714年)
③インド問題(1750年代)
④アメリカ十三植民地問題(1760年代)
⑤アイルランド問題(1780年頃~)
⑥フランス問題

2 促迫された産業革命
産業革命は、十八世紀後半に始まった生産力の革新に伴う世界経済の再編である。その背景にあるのは貿易赤字解消のための舶来品を代替する模倣商品生産である。

衣料は贅沢品であったが、紡績、織布、染料等の工業化を引き起こし、1802年/1803年以降は英国輸出品の第一位は毛織物から綿織物になる。

国内生産の年成長率は、1700年~1780年は0.7%前後で、1780年代から1.3%程度、1801年以後は1.97%に達する。

3 一八〇〇年以後のイギリスと世界
十八世紀後半において商業や技術の面で英国、オランダ、フランスは拮抗していたが、オランダの人材は名誉革命以降、議会政治によって財政軍事国家のコンセンサスが機能する英国に軟着陸するようになっており、フランスは戦争が継続する事による累積赤字や不公平税制、革命的激動(1789年~1815年)によって英国の初発利益を許した。

第8講 大変貌のヴィクトリア時代
1 ステイツマンは豹変する
以下の問題。

①審査法、カトリック解放
公務員に国教会遵奉を強制した信教国家原則を維持するかの問題。

②議会選挙法
男子普通選挙や秘密投票等。

③財政赤字
1815年のウィーン会議後も国債償還が歳出の半分以上だった。

④穀物法
農業助成と関税による消費者負担のシステムを維持するかの問題。

ウィリアム・ピット(1759年~1806年)は国家指導者(ステイツマン)として問題に対応し、1800年の「グレートブリテン・アイルランド連合王国法」によって英国君主がフランス王を名乗る伝統を廃して第一次百年戦争の戦後処理を終わらせた。

2 ヴィクトリア時代―近代の表象
ヴィクトリア女王の治世(1837年~1902年)をヴィクトリア時代と呼ぶ。

女子継承者を認めないサリカ法の定めにより、ハノーファの王位はエルンスト=アウグストに継承され、ハノーファとの同君連合(1714年~1837年)は解消された。

フローレンス・ナイティンゲール(1820年~1910年)がヴィクトリア時代のジェンダーと市民的公共性を象徴しており、クリミア戦争(1854年~1856年)に従軍看護を行った。

3 パクス・ブリタニカと「東洋の英国」
1848年の欧州革命(諸国民の春)によってメッテルニ等が亡命しロンドンはコスモポリタンな世界都市となる。

1851年の大博覧会、英仏海峡の海底電線敷設、世界との一体化が促進される。同年に行われた信教調査では、主の日に教会に行く者が成人人口の1/3程度となり、英国は国教会の信教国家ではない実態が明らかになった。

1871年には岩倉具視使節団が渡英し、日本を東洋の英国と称する。

4 国際問題、国内問題
十九世紀を通じて英国の輸出一位は繊維製品であり、貿易収支の赤字を経常収支の黒字で補う状態にあった。

第9講 帝国と大衆社会
1 世紀の転換
1902年に日英同盟、1904年に英仏協商が調印される。南アフリカ戦争やドイツとの軍拡競争、ロシアとの対立等により英国に余裕は無くなった。

2 「大戦争」とイギリス
第一次世界大戦における戦死者の人口比は2.2%、第二次世界大戦における戦死者の人口比率は0.9%であり、第一次世界大戦の比重が英国では大きく、「大戦争」と呼ぶ。

戦争には植民地の人々も動員され、約23万人の戦死者の内、約7万人はインド兵でインド独立運動が盛んになっていく。

1918年には21歳以上の男子、30歳以上の女子に選挙権が与えられ、1928年には21歳以上の男女は平等になった。

3 第二次世界大戦と福祉国家
第二次世界大戦後の労働党内閣 アトリー内閣(1945年~1952年)は、「揺り籠から墓場まで」という国民皆保険制度を実現する。

福利政策はケインズ経済学によって理論的に支えられた。

第10講 現代のイギリス
1 脱植民地の多幸症
1956年のスエズ危機によってスエズ運河を失い、植民地主義は終わる。

2 サッチャとブレア、その後のイギリス
英国病とも言われる構造的不況の1970年代を受けて、1975年に保守党のマーガレット・サッチャーが首相に就任する。小さな政府、民営化への志向。

1997年に就任したブレアは新しい社会主義の可能性を探ったとする。

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