ユーラシア帝国の興亡

読んだ本の感想。

クリストファー・ベック・ウィズ著。2017年3月15日 初版第一刷発行。



中央ユーラシア歴史の固定観念を批判する本だと思う。

歴史的に中央ユーラシアの軍事的側面のみが着目され、農耕国家による虐殺や交易の比重が少ないとする。万里の長城が、防衛のためでなく、自国からの資本や人民の流出を抑制するために必要とされたという意見は新しいと思う。

【共通する伝説】
中央ユーラシアの大王国の創設者は、以下のような伝説を持つとされる。

少女が神によって懐妊し、男児を産む。正統な王を不当に退位させた王が、男児を遺棄するよう命じる。男児は獣に育てられ、弓馬に優れた男に成長する。男は宮廷に仕えるが、従属的な地位に留まり、妬まれて殺されそうになるが逃げ出し、従者達と暴君を倒して正義を取り戻す。新王が新たな町や王朝を築く。

また、中央ユーラシア文化複合体を構成する要素として、コミタートゥス(支配者の友による戦闘集団)があり、スキュタイの時代から少数の戦士達が伝統とされ、彼等に報いるために王は財宝を必要とした。

<拡散>
以下の三段階でウラル山脈南部、北カフカス、黒海沿岸等にいたインド・ヨーロッパ語族が各地に移動する。

①紀元前3000年頃
タリム盆地とアナトリア高原に移動し、トカラ人やアナトリア人の祖となる。この時は二輪馬車を活用していない。

②紀元前1700年頃
インド、ギリシャ、イタリック、ゲルマン、アルメニア等の民族が戦闘用二輪馬車によって周辺地域を征服した。イラン人が中央ユーラシアのステップ地帯、ゲルマン人が中央欧州の温帯地域を支配する。

③紀元前1000年頃
ケルト、バルト、スラブ、アルバニア等の民族が、イラン人から離れるように北西に移動。

中華における周王朝の創設者 后稷の伝説は、中央ユーラシアの典型的創設神話で、インド・ヨーロッパ語族の影響が伺える。

<第一地域帝国>
紀元前三世紀~三世紀にローマ帝国と中華帝国が発達し、ユーラシアを統括した。この時代にシルクロードの交易量が多くなり、仏教やキリスト教が広まる。

二世紀頃から帝国が崩壊していくと、ゲルマン系民族がローマ帝国の西部に、ヒョーンやエフタルがペルシャ帝国の中央アジア地域に、モンゴル系民族が中華帝国の北半分に移動する。

<第二地域帝国>
六世紀中葉頃から、中央アジアがユーラシアの交易の中心となる。チュルク人(突厥等)がアヴァール人を倒して残党をユーラシアの端まで追い、中国は隋・唐によって再統一され、フランクやアラブ、チベット等の地域帝国が興る。

820年代、830年代には気候変動等でユーラシアの経済が悪化し、チベット、ウイグル、唐は軍資金不足から821年頃に平和条約を結び、840年にシャルルマーニュが死んだ後のフランク王国は分裂した。

<世界帝国>
十三世紀頃にモンゴル人が中央ユーラシアを統一するも、十四世紀には黒死病が蔓延し、特に西欧が荒廃した。モンゴル人はオルタクと呼ばれる国際的交易システムを運営し、中国の文化の幾つかを欧州に伝達した。

<第三地域帝国>
十五世紀中頃から、中央ユーラシアの大部分を支配する清やオスマン帝国、ムガル等の帝国が成立し、西欧が陸路とは違う海洋交易ルートを発展させる。

西欧人が海洋交易において、国家間取引に加わるために、武力によって港湾都市を安定的にした事は、シルクロードにおいて遊牧民が交易都市を維持した事と似ているとする。

中央アジアは清とロシアによって征服され、西欧管理下で沿岸部に人、文化、技術が集積する。交易の中心は海洋となり、シルクロード経済システムは崩壊した。

<第四地域帝国>
ソヴィエト連邦が崩壊し、衰退した中央ユーラシア国家は復興を模索している。

【モダニズム】
二十世紀は革新的運動であるモダニズムの全盛期で、世界的に伝統文化が破壊されたとする。急進的なモダニズムである社会主義がロシアと中国で勝利すると、伝統文化が多く破壊された。

モダニズムの原点は、欧州における科学技術の急激な発展で、大衆都市文化と結び付いた。その中核的思想は、現代的な新しい物が古い物より良いというもので、古典主義(古い物が良い)と拮抗している間は影響が無かった。

非貴族が工業化、都市化によって主導権を握ると、貴族的な思想の余地が無くなる。新しい物だけが良いとなると、定義上、常に新しい物を作り続ける永遠の変革が必要とされ、伝統を否定し続ける事になる。

君主制は古い形の政治であるというモダニスト的思想で、1951年までにユーラシアの全ての国は非君主制の統治形態となる。君主制とともに、古くからの知的・芸術的規範も否定された。

詩は伝統的要素を捨てた自由詩が好まれるようになり、芸術家達は自分が過去の自分と異なっている事を示すよう変化し続けなくてはならない。

貴族階級が保証した芸術家の社会的地位は流動的となり、大衆を顧客とする芸術家は理想を追うのでないため、古い秩序を代替出来ず、秩序自体が無くなってしまう。

【チベット帝国】
七世紀初頭、チベット南部で氏族の長達が、ツェンポ(皇帝)を選出し、当時のチベット高原を支配していたシャンシュン王国を打倒する。634年にはチベットの臣下である吐谷渾(鮮卑系)が唐と交戦した記録がある。

八世紀頃から仏教が受容され、宗教上の師に対する献身が強調されたが、これはコミタートゥスの主人に対するものと似ているとする。チベット皇帝が仏教の支配者と宣言された時、僧侶は基本的に皇帝に奉仕する事になる。

九世紀にチベット帝国は崩壊するが、十世紀頃には要塞化した大寺院を中心とする小王国が形成され、仏教文明が発展した。

十五世紀以降、ダライ・ラマの統率するチベット仏教のゲルク派支配が固まると、仏教学者達が古典チベット語を用いて膨大な文献を生産し、チベット語が高地アジアの中世ラテン語となる。

人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ABCDEFG

Author:ABCDEFG
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード