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ナポレオン戦争全史

読んだ本の感想。

松村劭著。2006年1月10日 第1刷。



海洋を障害と考える陸軍国(フランス)と、海洋を戦場と考える海洋国(英国)の対比を主張している。

海洋国家は貿易と高級技術による「付加価値」によって生存し、大陸は原料と製品の「産出価値」で生存する。島嶼国家が交易を遮断されると重要市場を失うが、英国は欧州以外との交易を維持したため致命的ではなく、大陸側は高付加価値に対する欲望が満たされずに、密貿易が横行した。

第1章 時代の軍事的背景
ナポレオン登場までに欧州では銃剣付きマスケット銃と滑腔カノン砲の技術が完成し、横隊の戦闘陣形を組んで互いを包囲する定型的戦術が一般的だった。

ナポレオンは戦術を大々的には改革せず、戦略的機動によって敵部隊に対して有利な地理的位置を確保して敵部隊を壊滅する会戦戦略を採った。自軍の一部で敵を拘束し、側背から攻撃する、囮を使って主力を誘い出す等。

〇散兵
この時代はオーストリア継承戦争時のオーストリア軍のクロアチア兵の活躍もあり、軽歩兵が見直される動きがあり、フランス軍においても突撃縦隊を軽歩兵が援護し、敵部隊を攪乱した。

〇師団
師団編成は1759年にフランス軍に持ち込まれ、1794年には陸相カルノーによって騎兵、歩兵、砲兵を組み込んだ編成に定められ、1796年までにナポレオンによって全フランス軍に導入された。

軍の規模が20万人以上になった時に、師団のグループ化が必要になり、1800年にモローがライン河正面軍の11個師団を4個グループに仕分けて軍団とし、1804年からそれまでの師団として扱うようにした。

英軍の師団編成は1807年からで、英陸軍は志願制で小規模であったため、それまでは旅団編成で充分だった。

第2章 フランス革命戦争から欧州の戦争へ
1789年のフランス革命に伴い、政治システムを維持するための戦争が意識されるようになる。

オーストリア皇帝レオポルト二世は1791年に、欧州の全ての王制諸国がフランスに揺るぎない王制が甦るよう全力で介入する事を宣言した。

第1次欧州同盟の対フランス戦争(1792~1798)では、オーストリアとプロイセンの同盟に対し、過激派(ジャコバン)と穏健派(ジロンド)が対立するフランスではジロンドに組する将校を前線に投入出来ず、兵員不足からコルシカで独立運動をした経歴のあるナポレオンを砲兵大尉として復職させる。

1795年にジャコバンのロベスピエールが逮捕され、彼に信任されていたナポレオンは一時解任されて、トルコ軍のアドバイザーとしてトルコに赴任する事になるも、トルコ出立直前にパリで王党派の暴動があり、それを鎮圧した功績で中小に昇任し、内国軍司令官に任命された。

1798年にナポレオンは英国進攻作戦軍司令官に任命されるも、英仏海峡の制海権を英国が握っているため、ナポレオンは英国を締め上げるために交通の要所であるエジプト占領を政府に提示する。

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次第にフランスの戦争の性格が国土防衛から征服戦争に転換し、自国の政治システムを他国に広める大義名分により、ドイツとイタリア方面に進軍した。

第3章 第2次欧州同盟の対フランス戦争(1798~1802)
ロシアのピュートル一世主導で、英国、オーストリア、ポルトガルを含む第2次対仏欧州同盟が結成される。

ナポレオンは1799年にエジプトから帰国するも、その時までに1796年~1797年にフランスがイタリアに確立した覇権は帳消しになっていた。しかし、同盟国側も損害の割には成果に乏しくロシアが同盟から脱落した。

ナポレオンはロシア、プロイセン、デンマーク、スウェーデンを含む中立条約によって英国を孤立化させようとするが、1801年に英国がデンマーク コペンハーゲンの港を急襲し、また、ロシア皇帝アレキサンドル一世と協定を結んで孤立化を阻んだ。

フランスと英国は1802年にアミアンの講和協定で和解する。

第4章 英国対フランス戦争(1803~1805)
1803年にフランスはルイジアナの大部分を米国に売却する。

英国は欧州に強大な国家が出現する事を望まず、1803年に米国大陸から帰国するフランス船団200隻を拿捕する。英国は地中海からもフランス艦隊を駆逐し、制海権を確保。

同年にナポレオンは皇帝として戴冠し、英国上陸用輸送船を建造した。

第5章 第3次欧州同盟の対フランス戦争(1805)
英国はオーストリア、ロシア、スウェーデンと第3次欧州同盟を結成。

フランスはトラファルガルの海戦に敗れるも、ウルムの会戦、アウステリッツの三帝会戦では勝利し、プレスブルクの協定でドイツとイタリアにおけるオーストリア領(バイエルン等)を手にした。

ナポレオン勝利の秘訣は、主敵(目標)を明確にして部隊が分散しないようにしたうえで、各部隊の自主裁量を奨励した事にあるとする。

第6章 フランス対英・プロイセン戦争(1806)
プロイセンを中心とする対仏戦争により、ナポレオンはバル燐近くのイエナの会戦で勝利する。ベルリンは占領され、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世はロシアに逃亡した。

プロイセン全土を占領しようとするナポレオンの戦争終結外交は戦後の平和秩序の妨げになったとする。

第7章 ポーランド会戦(1807)
ナポレオンはポーランドでロシアと会戦し、ロシア軍を壊滅させてティルジット条約を結ぶ。

ポーランド支配はワルシャワ大公に委ねられ、ロシア軍がワラキア、モルダヴィアから撤退する代りにトルコ軍はアドリアノープルから撤退する事になる。

実際にはポーランド独立は達成出来ずにポーランド人民の不満が募り、英国はティルジット条約の不備を宣伝した。

また、英国はティルジット条約に基づいてデンマーク艦隊とロシア艦隊がフランスと共同する事を防ぐため、コペンハーゲンのデンマーク艦隊を壊滅させた。

第8章 イベリア半島の戦争(スペインの併合)(1807~1809)
スペイン国王カルロス四世の王妃と不倫関係にあった宰相ゴドイは、ナポレオンにスペインがポルトガルを占領し、領土の1/3をフランス領にする事を提案する。

スペイン皇太子フェルナンドがナポレオン一族から妃を欲しがったり、元国王が息子から王位を奪還するためにナポレオンに助力を頼む等、この時のスペイン王室は国土を王族が私物化する中世の感覚に留まっていた。

1808年からスペイン沿岸の密貿易取り締まりを口実にフランス軍がスペインに進駐し、実兄ジョゼフをスペイン王に任命するも、民衆が反発して全国的にゲリラ戦が始まる。

英国はスペインゲリラを支援した。その作戦の特色は、陸地深くには侵攻せず、直ぐに撤退出来るよう海岸地帯に後退する事にあった。この戦略は、大陸国家からは士気喪失と誤解される傾向がある。

英国の海洋覇権の効果は絶大で、1809年にはスペイン全土にゲリラ戦が拡がった。

第9章 フランス対オーストリア戦争(1809)
フランスのスペインにおける疲弊を見たオーストリアが参戦。

フランス軍はウィーンを占領し、シェーンブルンの講和で3万2000平方マイルの領土を手にした。

第10章 フランス対ロシア戦争(1812)
1812年に英国の仲介でロシアとトルコの間にブカレスト条約が締結され、ベッサラビアがロシア領になった。

英国はロシアと貿易を再開し、フランスとの戦争が始まる。

1805年のプレスブルク講和条約で神聖ローマ帝国を解体し、ライン連邦をフランスの属国にして以降、ナポレオンは大陸と海洋国家(英国)との国益の対立を意識し、また、大ローマ帝国復興の目指すようになる。

ナポレオンは共和制の思想を持ちつつも、間接選挙による国家指導者決定方式については、栄達を追う政治家が国益よりも党利党略を優先するため、政治家の陰謀で指導者が選ばれる可能性が高いとし、国政を担う指導者は権力抗争の必要性が無い地位にあるべきとした。これはローマ皇帝が元老院(国民議会)から最高軍事指揮権を委任されたと同じ思想で、中華帝国の性向とも似ている。

ナポレオンは、大欧州実現のためにロシアに攻め込むも、ロシアの道路事情が悪くて輸送用四輪荷車が通過困難で、現地が貧困であり生活物質調達が困難となり失敗した。

第11章 新対フランス同盟の戦争(1813)
対仏同盟が結成される。スウェーデン王ベルナドットはかつてナポレオンの部下であったが裏切った。

熟練兵を失っていたフランス兵はライプチヒの戦いで敗れる。

第12章 フランスの防衛(1814)
一か月余りのフランス防衛戦におけるナポレオンの作戦指導は見事で、1805年当時の練度の高いフランス軍であれば、対仏同盟軍は大敗していたとされる。

しかし、ナポレオンは敗北してエルバ島に流され、フランス領土は1792年当時の領域となり、英国はフランスとオランダの大部分の植民地を獲得した。

第13章 ワーテルロー会戦(1815)
エルバ島に流されたナポレオンは復帰するも、ワーテルローの戦いで敗れた。

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