ヴァロワ朝

読んだ本の感想。

佐藤賢一著。2014年9月20日第一刷発行。



はじめに 王朝が交替するということ
ヴァロア朝の始まりは、始祖フィリップ六世即位に、英国のエドワード三世が異議を唱えて発生する英仏百年戦争という事件によって彩られる。

第一章 幸運王フィリップ六世(一三二八年~一三五〇年)
仏王フィリップ三世を祖父とする。英国王エドワード三世は、母親が仏王フィリップ四世の娘であった事から仏王位を要求した。

1337年にフィリップ六世はアキテーヌ公領没収を宣告し、エドワード三世は1336年から仏への羊毛輸出を禁止し、毛織物加工が盛んなフランドル地方に圧力をかけた。

その後、クレシーの戦いでフィリップ六世は敗北し、黒死病流行もあって治世の評価はそれほど高くない。

第二章 良王ジャン二世(一三五〇年~一三六四年)
クレシーの戦いの敗北から、小貴族のシャルル・デスパーニュを1351年に大元帥に就任させ、諸侯が好き勝手に動くのでなく、指揮命令系統が確立した軍を構築しようとする。しかし、寵臣優遇との批判を受け、ナバラ王シャルルや王弟オルレアン公フィリップによって1354年にシャルル・デスパーニュは暗殺される。

エドワード三世とナバラ王が同盟を結ぶ事を危惧したジャン二世は、1354年のマント条約でシャルル・デスパーニュ殺害を不問に付している。

1356年のポワティエの戦いで英国に敗北して捕虜になり、1360年のブレティニィ・カレー条約で全アキテーヌ公領、カレー周辺、ポンテュー伯領、ギュイーヌ伯領の割譲、身代金三百万エキュ(金塊五t、フランスの国家予算二年分)を英国に支払う事になる。

第三章 賢王シャルル五世(一三六四年~一三八〇年)
税金の父とされ、王太子時代にアミアン三部会で承認させた竈税は平時においてランドドイル全体に課された最初の税金とされる。

エリュ(財務官僚)を設置し、それが後の1400年頃にはエレクシオン(財務官区)から直接税を徴収する徴税官を管轄するようになる。フランス王家の予算は年貢収入だけなら年間25万リーヴル程度だったが、恒常的に課税するようになったシャルル六世時代には年間200万リーヴル規模にまで増えた。

1364年にブルターニュ出身の小貴族ベルトラン・デュ・ゲグランをフランス王軍の総指揮官として、有給制の常雇の兵によって英国から領土を取り返していった。城塞建築にも力を入れて、バスティーユ要塞等を建築した。

さらに1374年のヴァンセンヌ勅令で、フランス王の成年を14歳と定め、ゲルマンの部族法典であるサリカ法典を根拠に王位継承権は男系と定める事で、エドワード三世が付け入る隙を無くした。

第四章 狂王シャルル六世(一三八〇年~一四二二年)
王太子時代だった1379年に教皇特使を怖れて逃げ回った事件がある。1392年には狂気の発作を起こして護衛を切り殺し、その後も正気と狂気の狭間を行き来した。

1403年には、自らが狂気に囚われて仕事に従事出来ない時は、顧問で構成される会議が国政を代行すると定めた。

宮廷は、叔父ブルゴーニュ公フィリップと弟のオルレアン公ルイの派閥に分かれ、オルレアン公ルイは暗殺されて国内が混乱し、1420年のトロワ条約では英国王ヘンリー五世がシャルル六世の息子としてフランスの相続人になると定められたが、ヘンリー五世の方がシャルル六世よりも僅かに早く死んだため条約は無効になった。

第五章 勝利王シャルル七世(一四二二年~一四六一年)
1429年に登場したジャンヌ・ダルクを利用して英国との戦いを有利に進める。

1439年のオルレアン三部会では、外敵を追放する軍隊編成と、その財源確保のための課税を宣言。1445年には勅令隊を創設し、1453年のカスティヨンの戦いで英国軍を破って百年戦争を終結させる。

課税が恒常化した事から全国的に行政官区や高等法院を整備した。

第六章 ルイ十一世(一四六一年~一四八三年)
父王が愛人のアニェス・ソレルを公然たる寵姫とした事に反発し、1440年のプラグリーの乱に加担。1446年にはアニェス・ソレルの娘と結婚してノルマンディ大セネシャルに就任していたピエール・ドゥ・ブレゼ襲撃を計画した事が通報され、領国ドーフィネに逃れる。

1450年にアニェス・ソレルが毒殺?され、1456年にドーフィネがシャルル七世に攻められて、フランドルに逃れる。フランドルはブールゴーニュ公フィリップの領国であり、1435年のアラスの和で和解した事もあってシャルル七世は攻められず、そのまま38歳でルイ十一世として即位する。

次第に独立国の様相を呈していくブールゴーニュ公国(1471年にパリ高等法院からの召喚には応じず領内のディジョンの裁判所を最高裁判所と宣言、独自に税金を課して常備軍を整備)に対して、1474年には皇帝フリードリヒ三世を含めたコンスタンス連合を結成し、フランドル以外の領土を没収する。

治世中にブールゴーニュとピカルディ、アンジュー、プロヴァンスを手に入れ、現代のフランス共和国とほぼ同じ版図を形成した。

第七章 シャルル八世(一四八三年~一四九八年)
1491年にブルターニュ公女アンヌ・ドゥ・ブルターニュへの婚姻を申し込み、ブルターニュの共同統治者になる。

ローマ教皇インノケンティウス八世が、オスマン・トルコに対する十字軍を実現するために相続権を持つナポリを手中にせよと招かれ、1492年にイタリア遠征を始める。1494年にナポリ王フェランが亡くなり、その息子アルフォンソの即位を認めないよう求めても、新ローマ教皇アレクサンデル六世の態度は微妙だったが、ナポリ王たることを宣言し、三万人の大軍(勅令隊、イタリア同盟軍の他にスイス兵4800人、スコットランド兵200人、弩兵4800人等)でイタリアに侵攻。

しかし、ナポリ王国を占領した後にスペインの巻き返しが始まり1496年には王国を任されていたモンパンシェ公がナポリから逃げ出す。

第八章 ルイ十二世(一四九八年~一五一五年)
シャルル八世に男子がいなかったために、シャルル七世の孫オルレアン公ルイが即位する。

36歳で即位すると、結婚していたシャルル八世の姉ジャンヌ・ドゥ・フランスと離婚すべく裁判を起こす。

官職を売って減税につなげる官職売買を始め、後のフランス弱体化の遠因とする。

第九章 フランソワ一世(一五一五年~一五四七年)
ルイ十二世に男子がいなかったため、シャルル五世の五代孫のフランソワが即位する。

1519年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世が崩御すると、スペイン王カルロス一世とローマ皇帝位を争って敗北する。自らの派手好きと大量の選挙資金負担が重なり、財政難になる。

1534年にはジャック・カルティエを新大陸に送り込みカナダ植民の道を開く。

第十章 アンリ二世(一五四七年~一五五九年)
20歳上の愛人ディアーヌ・ドゥ・ポワティエがいた。

1547年に設置した国務卿(ノルマンディ担当、ブールゴーニュ担当、ギュイエンヌ担当、ドーフィネ担当)によって、戦争を現場の裁量に任せるのでなく、高所からの指導で円滑に進めようとした。

国務卿は後に、宮内、外務、内務、陸軍、海軍と徐々に専門分野を持つようになっていく。

1553年には宮内審査官の諸州巡察制度を定め、各地の行政を視察して回らせた。制度上、州総督は国王の代理として絶大な権力を持ち、方面軍の実権さえ掌握していたのでその管理は大きな課題だった。

1559年に、ノストラダムスの予言通り、騎士試合で右目を負傷して死ぬ。

第十一章 フランソワ二世(一五五九年~一五六〇年)
宗教紛争という課題があり、1560年のオルレアン三部会に出席しようとした新教派のコンデ大公ルイを妻の叔父であるギーズ公が逮捕してしまう。

第十二章 シャルル九世(一五六〇年~一五七四年)
フランソワ二世の弟。

オルレアン三部会開幕は、フランソワ二世崩御から五日しか経っていなかったが開催する。1562年には限定的に新教を認める。

しかし、宗教対立は収まらず、1565年にオランダ独立につながる低地諸州のスペインへの反乱が勃発するとプロテスタントからフランス王家の介入が求められ、1567年にはモー大公がシャルル九世を誘拐してプロテスタントに援助をさせようとする事件が起こる。

その後、1570年に旧教派ギーズ公アンリが王妹マルグリットに手を出す事件があり、旧教派が失速。1572年にはブロワ条約で英国とともにスペインを打倒する約束をする。

王母カトリーヌ・ドゥ・メディシスは反対し、ナバラ王アンリと王妹マルゴの結婚式にて、コリニィ提督が銃撃される事件が発生し、その犯人を議論する顧問会議の結果、シャルル九世は婚儀に集まったプロテスタントを処刑するサン・バルテルミーの大虐殺を引き起こす。

第十三章 アンリ三世(一五七四年~一五八九年)
シャルル九世の弟。断絶したヤゲロー朝の後継としてポーランド王に選出されていたが、兄王崩御を受けてフランス王になる。

治世中も宗教対立は継続し、1576年のブロワ三部会では、立法権を三部会に渡す意見が出る。

1577年のポワティエ勅令により、信仰の自由が認められるのはバイイ管区のみとなる。

男子がいなかったため、シャルル五世孫であるアンリ(アンリ四世)が即位し、ブルボン朝の始祖となる。正式には、アンリ・ドゥ・ブルボンは十三世紀のフランス王ルイ九世の六男ロベール・ドゥ・クレルモンの末裔になる。

母は新教派であるナバラ王ジャンヌ・ダルブレで、宗教対立の問題を引き継いだ。

おわりに 国家改造の物語
ヴァロワ朝が治めたフランス王国は人口1700万人を超える欧州最大の国家となり、スペイン・ドイツの二倍、英国の四倍の人口となった。

巨大な帝国を管理する諸制度が考案され、司法行政機構が王に行き着く中央集権的システムが構築された。王家が直に監督して現場の勝手を許さないシステムであるが、宗教戦争には手を焼き、フランス王が神ほどには人民の心を掴んでいない事が次の王朝の課題となる。

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