カペー朝

読んだ本の感想。

佐藤賢一著。2009年7月20日第一刷発行。



はじめに フランス王とは誰か
フランスという国は、843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約でフランク王国が分割された時から始まる。フランク人の感覚では、王国は相続財産の一つとしての不動産で、息子が複数いれば複数に分けた。

当初は西フランク王国だったが、十世紀初頭にはフランスとなり、ドイツやイタリアとは別の国家として認識されるようになる。ドイツ皇帝はローマ皇帝の位であり、イタリアにも王はいない。西フランクは王国を決定的に崩壊させる事無く、王という権威が国の同一性を確保した。

1 ユーグ・カペー(九八七年~九九六年)
始祖となるロベール家は、現在のドイツにあたるライン河とムーズ河に挟まれた地域(ヴォルムス)の豪族だったが、840年頃に西フランク王国のシャルル禿頭王に仕えるため移住する。

885年にパリ司教ゴズランが西フランク王位を、東フランクのカール三世に委譲するよう主張して大フランク帝国が成立するも、カール三世が888年に死ぬと、西フランク王にロベール家のパリ伯ウードが推挙される。

898年にカロリング朝のシャルル三世の治世が始まるも、987年にルイ五世が死去して王位を継ぐ子がいないため、ロベール家のユーグ・カペーが王になる。

当時のフランスは、各地で伯が独立する群雄割拠の状態で、ユーグ・カペーが王として手掛けたほぼ唯一の事業は息子のロベールに王位を継承する事だった。

2 名ばかりの王たち
ロベール二世(996年~1031年):
自身の存命中に息子であるアンリの戴冠式を行う。

アンリ一世(1031年~1060年):
自らの存命中に息子であるフィリップの戴冠式を行う。妃はキエフ大公家のアンヌで、フィリップは東方ビザンツを示唆する名であるらしい。

フィリップ一世(1060年~1108年):
カペー朝の王として初めてロワール河を超えた南フランスに地歩を構える。五大官職(主膳長、司酒長、主馬長、官房長、尚書長)を制定し、中小家門を任命して王家に結び付た。

3 肥満王ルイ六世(一一〇八年~一一三七年)
高等法院、会計院等の国政機関をパリに置く。王領支配は安定し、1137年には南フランスのアキテーヌ公家が女相続人の後見を依頼するまで威信が回復する。

4 若王ルイ七世(一一三七年~一一八〇年)
16歳で即位。1096年に第一次十字軍に参加。

アキテーヌ公の女相続人アリエノールと結婚し、アキテーヌ領を支配するも1152年に離婚。アリエノールはアンジュー伯アンリ・ドゥ・プランタジュネと二ヶ月後に再婚する。アンリは1154年にはイングランド王ヘンリー二世として戴冠。

ルイ七世は、アンジュー家の内紛に介入し、1173年にはアンリの息子 若アンリ(娘マルグリットの夫)が起こした父への反乱に加担してカペー家の権威を高めている。

5 尊厳王フィリップ二世(一一八〇年~一二二三年)
母親アデル・ドゥ・シャンパーニュはカロリング王家の血統で、シャルルマーニュの武勲詩ローランの歌に歌われたサン・ドニ旗をフランス王家の正式な軍旗とした。1190年に第三次十字軍に参加。

フランス王領が拡大したために(治世で王領はノルマンディー等を含めて四倍になった)、プレヴォ(領地代官)を統括する中間管理職として、バイイ代官(ロワール河以北)、セネシャル代官(ロワール河以南)を1184年頃に置く。国王会議の閣議機能と官庁機能を分離し、会計検査院や自立的高等法院の基礎を定める。

1202年にはローマ皇帝インノケンティウス三世に働きかけて、フランス王は上位者を持たない(ローマ皇帝の臣下でない)と宣言させている。

1214年には、神聖ローマ帝国オットー四世とのブーヴィーヌの戦いに勝利し、フランスの基礎を築く。神聖ローマ帝国と共謀していたイングランドのジョン王はフランス領邦を多く失って失地王と呼ばれ、戦費を賄うための重税によりマグナ・カルタを承認する。

6 獅子王ルイ八世(一二二三年~一二二六年)
母親イザベル・ドゥ・エノはシャルルマーニュの血筋。南フランス支配に意欲を燃やし、1226年に南仏十字軍を組織して南仏に行政機構を敷設するも早くに崩御する。

7 聖王ルイ九世(一二二六年~一二七〇年)
1246年に第七次十字軍に参加し、1254年に成果を出せずに帰国する。その後、不道徳とされる行為を忌避するようになり、聖王と呼ばれる。
1258年にアラゴン王ハイメ一世とコルベイユ条約を結び、この時に定められた国境が現在まで継続する。同年にイングランド王ヘンリー三世とパリ条約を結び、アキテーヌ公領を英領とする代わりにヘンリー三世がルイ九世に臣下の礼を捧げた。

8 勇敢王フィリップ三世(一二七〇年~一二八五年)
シャンパーニュ地方を領有する等、支配地を拡大させ、地方で解決出来ない問題をパリの高等法院で裁決するシステムを確立する(現代的国家システムの萌芽)。

9 美男王フィリップ四世(一二八五年~一三一四年)
大学卒の法律顧問を活用し、英国との戦争のためにマルトート税(間接税)等を徴収した。

1302年には全国三部会を催し、諸身分の理解と合意を得たという大義名分によって課税を行うシステムを創設。

10 あいつぐ不幸
フィリップ四世の息子ルイ十世(1314年~1316年)、その弟のフィリップ五世(1316年~1322年)、三男のシャルル四世(1322年~1328年)と続けざまに崩御し、ヴァロワ伯フィリップ(フィリップ三世の息子)の息子がフィリップ六世として即位する(ヴァロワ朝の始祖)。

おわりに 天下統一の物語
カペー朝の王は14人であり、即位の平均年齢は21.6歳。在位年数の平均は24.3年間。長い統治期間が王朝安定の秘訣かもしれない。

当初はパリからオルレアンにかけた小さい領地しか持たなかったのが、ほぼフランスを平定するまでになる。群雄割拠していた伯達は、元はフランク皇帝が派遣した地方役人であり、シャルルマーニュ等のカリスマがいないために領地は細分化した。

カペー朝はカリスマに頼らない近代的国家システムの礎を築いたものの、原理的には他の豪族と変わらない大領主であり、確固たる支配システム確立という課題はヴァロワ朝に引き継がれる事になる。

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