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長安の都市計画

読んだ本の感想。

妹尾達彦著。2001年10月10日第一刷発行。



外来の遊牧民族が農耕民族を支配する正統性を演出する舞台装置としての首都機能について。

第一章 ユーラシア大陸の三つの都
ユーラシア大陸の居住地は以下の三つに分けられる。

①大河川流域の農耕地帯。北緯三〇度前後
②遊牧地帯。北緯四〇度~五〇度あたり
③農業-遊牧境界線の南

仏教やキリスト教、イスラム教等の普遍宗教派、農耕民族と遊牧民族という異なる生活様式を持つ部族を包括する意味合いを持つ。そして、ルネッサンス運動(十三世紀末~十五世紀中葉)、サファヴィー朝(1502年~1736年)によるシーア派国教化等の文化運動、宋王朝(960年~1279年)による漢代古典文化への回帰運動は、世界宗教の普遍主義への批判という要素を持つ。

中国では、上記②に居住する遊牧民族が、上記①、③の農業地帯に進出して支配する歴史を繰り返す。

ユーラシア大陸ではコンスタンチノープル、バグダード、長安が普遍的な宗教圏の中核に位置し、対立する文化圏の接点となった。これらの三つの都は、支配の正統性を主張するために綿密な都市計画に基づき、支配者の価値観を視覚的に明示した。

〇中華王朝の法則
漢民族以外を束ねる大王朝の都は長安・北京となり、漢民族を束ねる都は洛陽・南京となる。

宋代に中華中央の開封が首都となり、以降は北京・南京が都となるのは、非漢人の主要軍事拠点が西北から東北へ移動し、ユーラシア大陸の幹線交通路が陸路から海路へ転換したためと思われる。

第二章 長安は宇宙の都として設計された
前近代国家は、神や天によって正統化されるので国民の支持という概念は無い。

近代国家は常備軍としての国民軍形成を背景にして軍隊・警察を独占する存在であるが、前近代国家は多数の軍閥の寄合であり、首都は軍事統帥権が一極集中する場でない。

そのため、前近代国家の王都は、天や神を演出する象徴性によって軍事集権制の弱さを補った。

長安を例とすると、四世紀から六世紀にかけての遊牧民族の華北進出を背景にして、役割機能的な階層身分を持つ遊牧民が、固定的階層を持つ農耕民社会と対峙し、習慣の違いを止場とする抽象的・普遍的文化を必要とした。

具体的には体系的法律制度(律令)、形式的な官僚制度、王朝儀礼、理想都市としての王都である。

北魏の平城建築(406年完成)から、北魏の洛陽城(502年完成)、隋の大興城(583年完成)等の共通点は以下の通り。

①統治者が非漢族の王室
②方格状の計画都市
③方格状町割は、居住区が土壁に囲まれる防御優先構造
④多言語・多文化都市

方格状の碁盤目状の都市は、住民の特徴が相違する居住ブロックが複数共存する事が可能になる。個々の建築物が自然発生的に集合したのでなく、一つの意志によって定められた全体計画において成立する。

隋大興城を継承した唐朝は、城の名称を長安に変更し、改築して主として扱うようになる。

長安は、儒教の礼による秩序を視覚化しており、宮城の南に朝廷、北に市場、東に宗廟、西に社稷を置いた。宮城の中核をなす太極殿は宇宙軸を通して北極につながり、宮城の両儀殿-太極殿-承天門と外城の明徳門を結ぶ軸は天の子午線に対応する。

第三章 住民が、長安を生活の都に変えた
長安においては、軍事的衝突の頻発する西北部辺境と、財源としての長江下流域が、交通・運輸によって連結していた。

軍事力によって中華を征服した鮮卑系の地方政権を、宇宙の都という象徴性によって正統王権に変換する。慕兵制によって常備軍が王都に生まれ、科挙が機能して王都の文化的威信が高まり、江南の財が連結する。遊牧文化も浸透し、四世紀~七世紀に胡化が進んだとする。

例えば、漢代の華北の主食は粒食の粟だったのが、四世紀以降に西アジア風の粉食品が流行し、八世紀頃には主食となる。冬小麦が主食になった事により、税制が祖傭調から両税法(産地の産物に応じて冬小麦の夏税か稲の秋税を課す制度)に転換する。小麦の粉食品は、胡食と総称された。他にエンドウ豆、大根、人参、葡萄等も流入している。

統治空間が狭まる唐後期になると、華夷思想が台頭し、民族的な動きが強まって、845年の仏教弾圧やマニ教、景教禁止等が行われる。

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