源平興亡三百年

読んだ本の感想。

中丸満著。2011年12月25日 初版第1刷発行。



武家の権威の源は軍事力であるが、それだけで人を従わせる事は難しい。支配を正当化する「錦の御旗」 = 朝廷による支配権公認が必要で、武家の歴史は朝廷による承認をめぐる争いでもある。

序章 武家の棟梁のめぐるバトル・ロワイアル
1 「源平交代」という革命
源平交代説があり、平氏と源氏が交代で政権を担うとする。北条氏(平氏)、足利氏(源氏)、織田信長(平氏)、徳川家康(源氏)という流れがあるも、政権の正統性を主張するための名分として源平を名乗ったとする。

2 源氏と平氏はライバルか
黎明期にある源平の武士にとっては、同族内の争いの方が重要だった。

3 源平合戦と鎌倉幕府
平氏を滅ぼした源氏は、関東の地方政権としての鎌倉幕府を設立する。

平清盛の志向は、天皇や関白という政権中枢を平家で固め、公家と武家が一体化した国家であり、室町幕府の政治がその究極の形かもしれない。

第1章 源平の登場―将門の乱からすべては始まった
1 坂東平氏の誕生と平将門の乱
〇平氏
889年に桓武天皇から平姓を賜り、上総介に任じられた高望王が平氏の始祖である。平姓は、桓武天皇の四人の皇子の子孫に与えられた。

〇源氏
九世紀初頭、嵯峨天皇(桓武天皇の第二皇子)の子供に与えられた。50人ほどの子女の内、32人に源姓が与えられた。

***********

平氏の高望王は、国香、良持等の子息に恵まれ、それぞれが有力豪族として関東に土着した。良持の嫡男 平将門は、938年に独立宣言をするも、朝廷の軍に敗れる。

2 武士の誕生
平将門を討ち取った平貞盛(平国香の子)が、平氏の族長的地位にあり、その四男である平維衝が、伊勢に進出して伊勢平氏の祖となる。

3 源氏の東国進出
源経基(清和天皇の第六皇子 貞純親王の息子)の嫡男 満仲は969年に、皇太子守平親王を廃して、兄の為平親王を擁立する謀叛を密告して正五位の下に叙せられる。

満仲の子、頼光、頼親、頼信は摂関家と主従関係を結んで勢力を伸ばす。1028年に房総半島で起った平忠常の乱を頼信が平定した事で、東国における源氏の地位が高まる。

4 源頼義と奥羽の兵乱
頼信の息子 頼義は、1051年に陸奥で発生した前九年の役で12年をかけて勝利し、権益は少ないものの関東での信頼を高める事に成功する。

5 八万太郎義家の栄光と挫折
1083年の後三年の役において、源義家は勝利する。恩賞は少ないものの、東国武士からの信頼は高まった。

第2章 飛躍する平家―時代を拓いた二つの戦い
1 平正盛の躍進
伊勢平氏 平正盛は、1108年に出雲で謀叛を興した源義親を討伐する事で名を上げる。それまで山陰の隠岐の国守にすぎなかったが、治安維持への貢献によって但馬、丹後、備前、讃岐等の実入りの良い国へ進出していく。

2 平忠盛から清盛へ
正盛の子 忠常は、18歳で盗賊 夏焼大夫を捕らえて従五位下に叙される。1132年には武士として初めて内裏清涼殿への昇殿を許される。最終的には正四位上刑部卿(刑部省長官)にまで出世した。

その子である平清盛の出世は早く、12歳で従五位下左兵衛佐の官位を与えられており、1153年に平忠盛が没した時には、正四位下安芸守に至っている。

3 保元の乱
1156年に発生。平清盛と源義朝は勝者である後白河天皇の側についたために出世するも、疎遠だった伯父忠正とその息子を斬首した平清盛に対し、父である源為義を斬首した源義朝は親殺しの汚名を被った。

4 平治の乱
1159年に源義朝が起こしたクーデター。平清盛が二条天皇を奪取して勝利する。

第3章 平清盛の夢―平家政権の樹立と幻の国家構想
1 平大相国清盛
源氏が没落した後は、平家が朝廷の軍事・警察権を握る事となり、1160年に平清盛は正四位下から三段階も位階を上げ、正三位参議に任じられている。

その後も後白河法皇と組んで出世し、1168年には太政大臣に就任する。

2 平家政権の樹立と清盛の独裁
1177年の鹿ヶ谷事件が、後白河法皇に命じられた延暦寺攻撃を回避する平家の陰謀という説があり、平清盛と後白河法皇の関係が悪化する。

1178年には、前摂政藤原基実の未亡人だった娘 盛子や嫡男重盛が亡くなり、その知行国が後白河法皇の直轄地にされるなどの挑発により、クーデータで後白河法皇を幽閉。今後、一切政務に介入しない事を誓わせ、反平家派の廷臣39名を解官した。

その後、平清盛は朝廷の重要ポストを平家一門で固めていくが、その地方支配強化が在来勢力との摩擦を生む。例えば、上総国では平家の有力御家人 伊藤忠清が上総介に任命され、上総最大の武士である上総広常との対立が深刻化し、上総氏は源頼朝の挙兵に呼応する事になる。

3 源氏の挙兵
源頼朝の挙兵は、平家に反乱した以仁王の令旨が届いた4月27日から間があいた8月17日であり、最初は挙兵のつもりが無かったが、令旨を受けた源氏は全て討伐されると思い挙兵したのかもしれない。

4 清盛最後の戦い
1180年に平家軍が、甲斐源氏の軍に敗れると、反乱が各地で勃発し、畿内最大の反平家勢力である興福寺を焼き討ちするも、病で平清盛は死ぬ。

1181年には平宗盛が畿内等の九カ国を管轄する畿内惣官職に任じられて畿内周辺から兵士・兵糧を徴収する権限を獲得し、平盛俊が丹波国諸荘園惣下司に任じられて兵糧を確保出来るようになる。

平家は大規模な軍事動員体制を構築しようとしたが、上手くいかなかった。

第4章 逆襲の源氏―義仲、義経、頼朝それぞれの戦い
1 木曾義仲の挙兵
1181年に挙兵した木曾義仲の話。

源頼朝は木曾義仲を意識しており、1183年には木曾義仲の勢力圏である信濃に侵入し、示威行為をする事で、11歳の嫡男 義高を頼朝の長女 大姫の婿にする条件で和睦している。

これは源氏の棟梁は源頼朝と印象付ける行為だった。

2 義仲上洛と平家都落ち
1183年に木曾義仲が上洛する。後白河法皇は幽閉先の法住寺殿から姿を消し、安徳天皇と三種の神器は確保するものの、以降の平家は絶対的な大義名分を主張し難くなる。

3 義経出陣
1183年に京都に入った源義経は、六条河原で木曾義仲を破る。

それまでの戦は熟練した武者同士がルールに則て武を競うものであったが、数万騎を超える軍勢が動員される戦いでは、それまで邪道とされるような戦闘方法が盛んに行われるようになる。

4 屋島・壇ノ浦の戦い
西日本へ逃れた平氏は、屋島に撤退して勢力を盛り返すも、源義経によって滅ぼされる。

源義経が検非違使に任官した事や、早期決着を急いで三種の神器を棄損したこと等が源頼朝の怒りをかった。

第5章 武家の世の完成―鎌倉幕府の内部抗争
1 源義経の没落
平氏滅亡後、源義経は所領を全て没収され、後白河法皇に源頼朝追討の宣旨を出させるも、挙兵に応じる武士は少なく没落する。

2 頼朝の天下草創
源頼朝は源義経追討を名目に奥州藤原氏を滅ぼす。

吾妻鏡には、「前九年の役の佳例に叶い、ここに宿望を達した」とあり、出兵の狙いが奥州征服にあり、軍旗の使用や藤原泰衡の首のさらし方、合戦終結の日付まで前九年の役を再現したものとされる。

奥州合戦は、源頼朝が唯一の武家の棟梁であると全国の武士に認めさせるためのデモンストレーションだった。

3 御家人たちの内ゲバ
源頼朝の死後三ヶ月もたたないうちに、北条時政、大江広元、梶原景時、和田義盛、比企能員等の13人の有力御家人による合議制が導入される。

源頼朝というカリスマが亡くなった事を契機に、派閥抗争が表面化する。

〇梶原景時
1199年に、「忠君は二君に事えず」と言った事が不忠として弾劾文が作成され、相模に退いて、その翌年に襲撃されて死ぬ。

〇比企能員
娘を二代目将軍 頼家に嫁がせて権勢を誇ったが、1203年に北条時政に暗殺される。吾妻鏡には、北条政子が障子越しに源頼家と比企能員が北条時政暗殺計画を練っているところを聞いた逸話があるが、信憑性が疑わしい。

4 承久の乱と武士の覇権確立
源実朝が暗殺されて、将軍家の血統が途絶えるも、御家人の大半は朝廷に使役されるだけの立場に戻る事を望まず、武士の覇権が確立する。

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