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ポルトガル史

読んだ本の感想。

金七紀男著。1996年4月20日 初版。



スペイン(大陸勢力)に取り込まれないよう、海洋勢力と提携していく歴史。

第一章 環境
第一節 北と南
ポルトガルは、山がちなイベリア半島が西に向かって下降する傾斜面に位置する。

国土の七割以上は海抜400m以下で、南北をテージョ川で二分する。

〇北部
400mを超える高地が95%。年間平均雨量800㎜以上の湿潤イベリアに属す。ローマ文明の影響が強い。拡大家族が多く、カトリック信仰が強い。

〇南部
200m以下の低地が62%。年間平均雨量800㎜以下の地中海性気候に属す。イスラム文明の影響が強い。歴史的に早婚で核家族が多い。

第二節 農村の生活様式
小麦パンが主食の南部と、玉蜀黍パン(ブロア)が中心の北部、それにライ麦を多く食す北部内陸部等。人口が多い北西部は分割相続で土地が細分化され、南部・北東部は開放耕地が支配的。

第三節 石の文化と粘土の文化
建材として石を多用する北部と、粘土を多用する南部。

第二章 建国前のポルトガル
第一節 先史時代
紀元前3000年頃に、定住可能な人間集団が出現し、巨石文化が生まれる。紀元前1000年頃には、フェニキア人が青銅器文明を齎し、紀元前六世紀頃にはギリシャ人が出現する。紀元前900年~紀元前650年頃には、ケルト人が鉄器文明を齎す。

第二節 ローマ文明の伝播
紀元前201年頃から、ローマがイベリア半島に進出する。ローマ化とは都市化であり、道路が建設され、俗ラテン語が共通語となった。キリスト教は三世紀頃にはかなり広まっていた。

第三節 ゲルマンの支配
411年にスエヴィ族がイベリア半島に侵入。585年には西ゴート王国がスエヴィ王国を征服し、イベリア半島を統一。少数派ゲルマン人は、閉鎖的社会を形成していたため、ローマ化した先住民社会を大きく変える事は無かった。

第三章 イスラムの半島支配とレコンキスタ
第一節 イスラム文明の開花
711年にイスラム軍が、西ゴート王国の内紛に乗じてイベリア半島に侵入。支配は、以下のように分けられる。

①第一期総督支配期(711年~929年)
アラブ人はイスラム教を強制はせず、750年にウマイア王朝崩壊によって半島に逃れたアブドゥル・ラフマーンが、756年にアルアンダルスの総督に就任し、政治的な独立を確保。

②第二期コルドバ王朝期(929年~1031年)
アブドゥルラフマーン三世が、929年にカリフを宣言し、ダマスカスから宗教的に独立。

③第三期太守国分裂期(1031年~1238年)
1031年にカリフ ヒシャーム三世が死去すると、カリフ教国は断絶し、各地に太守国が生まれる。この時期に半島北部で国土回復運動が著しく進展。

④第四期グラナダ王国期(1238年~1492年)
イスラム勢力はグラナダ王国に留まるだけになる。1238年に誕生したナスル朝は、カスティリャの朝貢国となりながらも、アフリカとの交易で栄えた。

第二節 レコンキスタの展開
レコンキスタは、以下の段階で進展した。

①第一期(722年~1035年)
カンタブリア山岳地帯で始まり、アストゥリアス王アルフォンソ三世(866年~910年)は、ドーロ川以北を平定した。

②第二期(1035年~1212年)
1035年に西カリフ教国は分裂するが、キリスト教側も軍事的に成長しておらず、北部にナバラ、アラゴン、カスティリャの三王国が並立していた。
1212年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いにおけるキリスト教連合軍の勝利により、イスラム勢力はグラナダに閉じ込められる。

③第三期(1212年~1492年)
カスティリャ、アラゴン、ポルトガルによるレコンキスタが行われる。アラゴンは地中海、ポルトガルは大西洋に進出し始める。

第四章 ポルトガルの建国
第一節 ポルトゥカーレ伯領の成立
ドーロ川以北のキリスト教勢力圏を確立したアストゥリアス国王アルフォンソ三世は、866年にドーロ川河口の都市ポルトゥカーを征服し、統治権をヴィマラ・ペレス伯に与えた。十世紀初頭には、この地域はポルトゥカーレと呼ばれて、将来のポルトガルの中核になる。

他に、ドーロ川・モンデーゴ川間のコインブラ伯領が統合され、その地を1096年に譲渡されたフランス・ブルゴーニュ出身の騎士エンリケがポルトガル王国の祖となる。

自治的傾向が強い辺境地を繋ぎ止める事と、イスラム勢力に対抗するにはコインブラ伯領だけでなくポルトゥカーレ貴族の協力が不可欠だった事を示す。

第二節 ポルトガル王国の誕生
エンリケの息子アフォンソ・エンリケスは、1137年にカスティリャ王アルフォンソ七世と封建的主従関係を結ぶも、1143年にはローマ教皇庁の仲介で、アルフォンソ七世から王の称号を認められ、ポルトガルはレオン・カルティリャから分離独立する。

1297年にディニス王がカルシリャとアルカニーゼス条約で国境を画定するが、この時の国境線が欧州で最も古い。

第三節 中世の社会
十一世紀のレオン・カスティリャではフランス・ブルゴーニュの影響が強かったが、ポルトガル領では教会におけるヒスパニア的典礼が廃止される事に抵抗があったらしい。

第五章 中世王国の確立と危機
第一節 ディニス王の治世
レコンキスタ終了後は交易が盛んになり、1255年に首都がコインブラからリスボンに移行する。

ディニス王(1279年~1325年)時代に最盛期を迎え、中央集権化を進める目的でローマ法が導入される。海上交易が盛んになり、フランドルや英国などにワイン、乾果、蠟、塩、コルク等を輸出し、繊維製品や装飾品を輸入した。

第二節 好況から不況へ
アルフォンソ四世(1325年~1357年)の治世に黒死病が蔓延し、全人口の1/3が罹患する。

第三節 一三八三-八五革命
1367年に即位したドン・フェルナンドは、カスティリャと1369年(グラナダと組む)、1372年~1373年(英仏百年戦争と連動しており、英国王エドワード三世の王子ジョン・オブ・ゴーントにカスティリャ王位継承権を譲る。カスティリャはフランスと組む)、1381年と戦う。

1383年にカスティリャと和平が結ばれ、王女ベアトリスがカスティリャ王フアン一世に嫁ぐ事になると、独立を喪失する可能性が生じ、1383年にドン・フェルナンドが病没すると、前王ペドロ一世とイネス・デ・カストロの子であるドン・ジョアンを王にする反乱が発生し、英国の支援を受けたドン・ジョアンはジョアン一世として、フアン一世をアルジュバロッタの戦い(1385年)に破り王位を手にする。

第四節 中世の文化
ポルトガル語はローマ時代から伝わる俗ラテン語が、八世紀頃にガリシア・ポルトガル語に転化し、十三世紀頃にガリシア語と分かれたとする。ディニス王の時代には、公文書はポルトガル語で表記されるようになる。

レコンキスタ時代ロマネスク建築と、以後の平和な時代のゴシック建築等。

第六章 ポルトガル海洋帝国の誕生
第一節 大航海時代の背景
大西洋交易におけるイベリア半島の地理的優位と、イスラム支配時代にアラブから伝わった数学・地理学、他の欧州諸国で迫害されたユダヤ人の学問等。

黒死病による封建制の危機は、国家権力に新しい収入源を必要とさせた。

第二節 エンリケ航海王子と西アフリカ
1411年にカスティリャと和平条約を締結したポルトガルは、1415年に西アフリカのセウタを攻略するも、実入りは少なかった。そのため、十五世紀を通じてアフリカ航路を開拓する動機付けが継続する。

第三節 インド航路発見とアジア進出
1499年にカリカットからリスボンに帰還したヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を知らせ、1507年にポルトガルがインド洋最大の商業都市ホルムズを保護領にする等の成果がある。

毎年、六隻~七隻の船が喜望峰を経由して、インドから年間1500t~2000t前後の香料を欧州に運んだ。3クルザードで買い入れた胡椒がリスボンでは20クルザードで取引されたらしい。

ポルトガルのインド洋支配は、都市を中心とする点の支配であり、人員不足を補うために現地人との混血を進め、1540年には約1万人の混血児達がゴアにいたらしい。

第四節 キリシタンの世紀
1543年から始まる日本での布教運動の蹉跌について。

第五節 ブラジルの「発見」と植民
1500年に植民地となったブラジルは、砂糖の時代(1570年代から百年程度)、金の時代(1690年代~1760年代)、コーヒーの時代(1830年代から)と、インドの香料交易に代わってポルトガルの重要な収入源になった。

第七章 絶対王政の確立
第一節 中央集権化
ポルトガルはイスラム勢力との対抗関係の中で形成されたため、中央集権的色彩が強い。ジョアン一世は租税を一般税として全国的に徴収し、アルフォンソ一世(1438年~1481年)はアルフォンソ法典を公布した。

マヌエル一世(1495年~1521年)は、インド航路による富を背景に、騎士団長職を手中にして、王室財産を国土の半分以上にすると、度量衡の標準化、マヌエル法典公布(1521年)を行い、官僚制絶対主義国家を志向した。

第二節 香料交易
1506年時点で国内歳入19万7000クルザードに対して、海外総収入は30万3500クルザード。インド香料貿易の最盛期である1518年頃には、アジア香料だけで30万クルザードの収入があった(海外収入は約48万クルザード)。

第三節 新キリスト教徒と異端審問所
ジョアン三世(1521年~1557年)の時代に異端審問所導入(1536年)、イエズス会招聘(1540年)が行われる。

1492年にスペインから追放されたユダヤ教徒がポルトガルに入国し、ポルトガル人口の一割を占めるに至り、1497年にはユダヤ教徒を強制的にキリスト教に改宗させようとする。改宗した異教徒は新キリスト教徒と呼ばれた。

第四節 絶対王政下の社会
1527年~1532年にポルトガル初の国勢調査が行われ、総人口は約140万人だったとされる。特にリスボンには6万5000人ほどの人口が集中した。

第五節 「衰退」の問題
人口150万人以下のポルトガルが、広大な植民地を全面的に支配する事は不可能であり、交易維持費用は厖大だった。1538年にオスマン帝国が紅海の要衝アデンを征服すると、紅海ルートが再開し、ヴェネツィアの香料交易が復活する。

1570年には香料交易の国王独占を断念するも、ジョアン三世はライバル国との競争や財政負担のために北アフリカ都市から撤退している。

第六節 アルカセル・キビールの敗北
1578年に、ドン・セバスティアン(1557年~1578年)がイスラム教徒とのアスカセル・キビールでの戦いに敗北して戦死し、未婚であった事から、前王ジョアン三世の妹イザベルの子であるスペイン王フェリペ二世が、ポルトガル王フェリペ一世を兼ねる事になる。同君連合でポルトガル自体は消えていない。

第七節 大航海時代の文化
大航海時代では、紀行文学が発達した。

第八章 大西洋帝国の建設
第一節 フィリペ王朝の支配
スペイン王フェリペ二世は、ポルトガル王を兼ねるに際して、ポルトガルの伝統を尊重し、官僚機構や軍隊はポルトガル人によって運営される事を約束した。

しかし、1598年にフェリペ三世が即位すると、約束は遵守されなくなり、1610年代からは新大陸からの銀流入量が減少し、オランダやフランスとの戦争による出費によってスペインの力が低下すると、スペイン宰相に就任したオリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンは中央集権化によって財政問題を解決しようとして、ポルトガルから反発される。

第二節 再独立とブラガンサ王朝の成立
1640年にポルトガルは再独立する。国王に推挙されたブラガンサ公ドン・ジョアン(ジョアン三世の妹イザベルの娘カタリーナの孫)はジョアン四世を名乗った。スペイン軍の侵入に備えて戦費調達のために、富裕な新キリスト教徒を異端審問所から保護した。

ポルトガルがスペインからの独立を維持出来たのは、衰退したインド交易に代わって、ブラジル砂糖産業を経済の支柱にしたためとする。

第三節 対英従属の始まり
1670年代からカリブでの砂糖産業が盛んになると、ブラジルの砂糖産業の優位が揺らいだ。

ペドロ二世(1683年~1706年)の蔵相エリセイラ伯ドン・ルイス・デ・メネーデスは財政赤字解決のために以下の施策を実施。

①奢侈禁止令
外国からの贅沢品の使用禁止。

②輸入代替産業
英国人技術者を招聘し、毛織物生産を行う。他にイタリア人専門家指導による絹織物製造等。

しかし、1690年のエリセイラ伯の自殺によってポルトガル工業化は行き詰り、対英関係を重視する葡萄栽培貴族が主導権を握るようになる。1690年代にはブラジルでの金生産(1693年にミナス・ジュライスで金鉱が発見される)や、ワインの対英輸出増によって景気は回復した。

<メシュエン条約>
1703年に英国との間で調印され、ポルトガルが英国の毛織物を輸入し、英国はポルトガルワインをフランス産より1/3安い関税で輸入するようになる。ポルトガルの工業振興策には不利に作用した。

1701年~1754年には、英国の全貿易黒字に占めるポルトガル貿易の比重は20%ほどで、ポルトガル植民地への海上輸送でも利益を得ていた。

第九章 バロックの時代
第一節 ジョアン五世の統治
ジョアン五世(1706年~1750年)は、スペイン王位継承戦争で同盟軍に参加する事でブラジルを保持し、ブラジルの金を背景に絶対王政を敷いた。

第二節 旧体制の社会
十五世紀末に203を数えた修道院が、十六世紀末に396、1628年に450と急増している。イエズス会は政治や教育に大きな力を持った。十六世紀後半のポルトガルでは食料を海外から輸入していたが、聖職者等を食わせた第三次部門の人口比が41%にもなり、非生産者の数が異常に多かった。これは海外の中継貿易に依存したイベリア社会の特徴と言える。

第三節 バロック文化
ブラジルでの金発見は、ジョアン五世のバロック文化に結び付く。装飾過多で、絵柄タイルや金泥木彫を多用する建築等。

第十章 啓蒙専制主義
第一節 ポンバル侯の改革
ドン・ジョゼ(1750年~1777年)はポンバル公爵(セバスティアン・ジョゼ・カルヴァーリョ・イ・メロ)と外務・国防大臣に登用した。王権強化のために大貴族を弾圧し、イエズス会も1759年には国外追放した。

経済政策は、以下の通り。

①商業評議会
1755年には商業評議会を設置して、経済政策を実施する等し、ブラジル捕鯨会社等の国家権力が支援する特権会社が生まれた。

②アルト・ドーロ葡萄栽培会社
十八世紀前半にワインの対英輸出が激増した結果、栽培不適切な地域にまで葡萄作付け面積が広がり、1732年に一ピッパ4万8000レイスだったワインの価格が1750年代には2万レイスにまで暴落していた。そこで、生産地指定銘柄制を実施し、指定地域以外のワイン輸出を禁止した。

③工業化
税制上の優遇措置等の保護政策や、外国人技術者の招聘等。

第二節 啓蒙の世紀
フランスや英国等の啓蒙主義の影響。

ポンバル侯を国王ドン・ジョゼに推挙したドン・ルイス・ダ・クーニャは、オランダ大使、フランス大使を経験し、ポルトガルの弱点は聖職者過多による新キリスト教徒迫害にあるとし、対応策として工業の保護育成を行うべきとした。

しかし、ポルトガルはスペインからの独立維持のために英国との協力関係が不可欠であり、自立には限界があった。

第三節 ナポレオン軍の侵入
マリア一世(1777年~1816年)はポンバル侯を隠棲させるも、米国独立運動やフランス革命による戦乱により、1780年には対英貿易が4万ポンド程度の黒字となり、黒字は1807年まで続いた。

1796年にスペインが、サン・イルデフォンソ条約によってフランスと同盟関係になると、ポルトガルは英仏の間で国論が二分されるようになる。

1807年に仏西連合軍がポルトガルに侵入すると、ポルトガル王室はブラジルに逃れた。

第十一章 自由主義の勝利
第一節 一八二〇年革命
1815年にウィーン体制が確立すると、本国摂政政府は、国王にブラジルからの帰還を要請した。1821年にジョアン六世は息子をブラジル摂政として残留させて帰国。

この時に国民主権・三権分立等の原理を据えた憲法に制約し、立憲王政が誕生する。

第二節 内乱とブルジョア的改革
1828年にジョアン六世の次男ドン・ミゲルが、身分制に基づく伝統を復活させようとし、自由主義陣営との間で内乱が発生する。ブラジル皇帝ドン・ペドロはブラジルを発って、1834年にはドン・ミゲルを降伏させた。

第三節 マリア・ダ・フォンテの乱
1846年に教会での遺体埋葬を禁じる公衆衛生法に反対する民衆蜂起が北部ミーニョ地方で発生する(アリア・ダ・フォンテの乱)。

同年に発生したパトゥレイアの乱では、新貴族に反抗する自由主義者の反乱で、サルダーニャ内閣は、スペインと英国に介入を依頼し、ポルトガルの新たな対英従属を決定付けた。

第四節 「刷新」
1846年の反乱以降、フォラル法によって、農民の土地保有が有償となり、農民が隷属的な地位に留まる事になり、ポルトガル農業の領主的構造が強化された。

1852年に直接選挙法が導入されると、刷新党と歴史党による二大政党による安定した政治が1890年頃まで続く(ロタティヴィズモ)。

輸送網が整備されて農村に資本主義が浸透し、1867年に共有地が廃止されると、1870年代には不在地主となった農民がブラジルへ移民していった(年平均1万2000人程度)。

アフリカへの植民も計画され、アンゴラとモザンビーグを領有するも、1890年には英国からの通告でザンビアやジンバブエから撤退している。

第五節 十九世紀の社会
1890年のポルトガル農業人口は61.1%、工業人口は19.4%で農業国としての側面が強かったが、1820年の自由主義革命で聖職者の権威が失墜し、商業家や地主等が勢力を伸ばした。

第六節 ブルジョアの文化
〇ロマン主義
合理主義に対する個人の想像力の優位、伝統的な古典主義からの解放、神秘への憧憬等を主題にした。コインブラ大学の学生達が権威主義に抗議したコインブラ問題は文学上の問題から大きく発展した。

第十二章 共和制の成立
第一節 第一共和制
1910年に共和主義者による叛乱が発生。国王は英国に逃亡し、共和制が始まった。法務大臣アフォンソ・コスタを中心に、カトリシズムを後進性の元凶と見做す反教的政策を採用した。

1916年に第一次世界大戦で対独参戦するが、戦費に伴う負担により、1917年には陸軍大佐シドニオ・パイスによるクーデターが発生する。

第二節 第一次世界大戦後の状況
対戦で軍功のあった軍部将校が政治に介入するようになり、通貨エスクードが1/20に暴落したためにインフレによって労働総同盟が勢力を拡大した。

第三節 第一共和制の社会
1890年に15%を占めるだけだった中産階級が、1930年には30%近くにまでなった。1913年の選挙法改正により、文盲の戸主が参政権を奪われたために、文盲の多い農村よりも、全人口10%程度の都市部の方が政治力が強かった。

第十三章 サラザール体制の確立
第一節 「新国家」体制の成立
1926年にゴメス・ダ・コスタ将軍による反乱が発生。軍事政権は、財政問題解決のために、コインブラ大学教授アントニオ・エ・オリヴェイラ・サラザールを大蔵大臣として入閣させた。公共事業によって失業者を吸収した事で、サラザールの評価は上がった。

サラザールは1932年には首相に就任し、1936年には陸軍大臣・海軍大臣まで兼任し、国内の権力基盤を確立した。

第二節 サラザール体制の特徴
多様な社会集団の消極的支持獲得がサラザール体制の関心事であり、市場経済発展による中間的社会集団解体を、国家権力によって押し止める事がサラザールの基本戦略だった。

〇コスポラティヴィズモ:組合主義的統一共和国
国家介入によって伝統的階級構造を維持し、社会的動員を操作する。

第三節 大戦前の社会
1930年のポルトガル人口は680万人程度で、その約80%は農村部(人口5000人以下の集落)に住み、リスボンとポルトの二つに全人口の12%程度が集中していた。

工業は立ち遅れていたが、1932年頃から北部のポルト、ブラガを中心に成長した。

第四節 体制の変質
第二次世界大戦後もサラザールによる独裁体制が継続。1953年には、第一次産業の国民総生産に占める割合が31.1%と、第二次産業の34.6%を下回った。

国家勢力による競争排除と強制的低賃金により、ポルトガル工業はそれなりに成長したらしい。

第五節 植民地戦争の始まり
1960年頃からアフリカ植民地との独立をめぐる戦闘が拡大する。1960年に国家予算の26.7%だった国防費は、1971年には国家予算の45%を超えるまでになった。

戦争遂行のために外資導入政策が採用され、工業生産は、1956年~1971年に3.4倍も増加した。国外移民も増加し、1961年~1975年までに約155万人が渡航した。

第十四章 現代のポルトガル
第一節 体制の行き詰まり
1968年にサラザール首相が引退。自給自足的だった経済が欧州連合に入る相互依存的なものになっていく。市場化には、莫大な資金を必要とする植民地維持は馴染まなかった。

植民地運動に疑問を抱いた軍人達が、1973年にスピノラ将軍が反乱を起こす。

第二節 一九七四革命
選挙によって共産党のパシェコ・ゴンサルヴェスの内閣が成立。

第三節 革命評議会の成立
救国軍事評議会と綱領調整委員会を統合した革命評議会が、国権の最高機関として成立し、1975年には民間銀行や保険会社等の国有化を行った。

第四節 軍政から民政へ
軍事政権から社会民主党等に移行していき、1986年にはEC加盟を認められる。

第五節 現代ポルトガルの社会
1974年の植民地解放に伴い、海外から50万人以上の帰還者が発生する。1991年のポルトガル人口は986万人ほどだが、1960年には888万人程度で、石油危機の1973年に移民流出した事を考えると大幅な人員入れ替えが発生している。

厖大な人員を吸収統合出来たのは、引揚者の大半が1960年代以降という比較的最近の移住者で、家族的絆を重視するポルトガルの農村的社会構造が受け入れを容易にしたとする。

産業構造についても、1953年に第一産業への就労人口が人口比50%を割り、1991年には11%程度にまでなっている。

第六節 現代ポルトガルの経済
植民地を1973年に失った事で、植民地交易は1974年(輸入:12,415コント、輸出:6,375コント)から1976年(輸入:3.313コント、輸出:2703コント)と激減している。

同時に、1973年に国家予算の半分を占めていた軍事費が1980年には10%にまで削減されている。

1975年には基幹産業の国有化が行われるも、外国企業との競争力を失い、1988年から民営化が行われている。

第七節 二十世紀の文化
1870年代に始まるナショナリズムの台頭は、王政や宗教という伝統的権威が失われていく過程で発生しており、伝統復活の名分において新しいポルトガルが発明された。

『サン・ヴィセンテの多翼祭壇画』が18884年に開設されたばかりの国立美術館に展示され、建築家ラウル・リノによる「ポルトガル風の家」運動も起こった。他にシルヴァ・ポルトによるポルトガル北部の農村風景を描いた絵画等。

1912年共和制において、ジャイメ・コルテザン等によって「ポルトガル・ルネッサンス」が始められ、機関紙アギアや週刊誌セアラ・ノーヴァによって絵画や音楽等を特集した。

補章 EU加盟とポルトガルの現状
第一節 政治の動向
ポルトガルの政治は、1976年の民政移管後は社会党と社会民主党の二大政党が継続している。

第二節 経済状況
1995年~2000年まで年平均3.5%の経済成長を達成。EUからは1994年からの六年間で国内総生産の3.2%に相当する構造改革資金が導入されて、高速鉄道が同期間に二倍に増える等している。

第三節 社会
1986年に教育基本法が制定され、1976年に70%だった識字率は1994年に89%に達している。

1993年以降は旧植民地からの流入者が流出者を上回り、2000年時点で外国人労働者の割合が全労働者の2.2%程度になっている。

第四節 文化
1998年に行われたリスボン万博や、同年にジョゼ・サラマーゴがノーベル文学賞を受賞した事について。

第五節 グローバリゼーションの流れに逆らって
1997年にミランダ語が公用語して認められる。話者は多くて1万5000人程度。固有の文化を大切にする風潮らしい。

新増補 二一世紀のポルトガル
第一節 政治状況
2003年にイラク戦争派兵が批判され、イラク戦争を支持した社会民主党が2005年の選挙で敗北している。

第二節 政治・社会の動向
2008年のリーマン・ショックによる経済危機で、2009年の財政赤字は国内総生産の10%を超えた。

2007年には妊娠中絶法が施行され、妊娠10週までの中絶が認められるようになった。

第三節 対日関係
大航海時代からの円があり、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』等がある。

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