蘇我氏と馬飼集団の謎

読んだ本の感想。

平林章仁著。2017年8月10日 初版第1刷発行。



<蘇我氏>
二十八代宣化天皇元年(536年)に稲目宿禰が大臣に任じられてから、名代、屯倉、国造の設置、任命等を担当した。著者は、大臣の職位が五世紀から六世紀にかけて、葛城氏→平群氏→許勢氏→蘇我氏と継承されたとする。

蘇我氏が葛城氏の継承者となったのは、葛城氏の有力成員だったからで、宣化・欽明朝では大伴金村、物部尾輿に次ぐ地位にあり、稲目の娘 堅塩媛、小姉君を欽明天皇に入内させて地位を築いた。

蘇我稲目以前は、他に以下の記述。

〇蘇我満智
十七代履中天皇紀二年条に、国事を執ったと記される。

〇蘇我韓子
雄略天皇紀九年(465年)の新羅遠征記事に登場。騎馬で戦った記録。息子の高麗宿禰の動きは歴史書に表れない。

<馬飼集団>
推古天皇紀二十年(621年)に推古天皇が、蘇我氏を日向の馬に喩えて褒める歌を送っている。

その理由は、蘇我堅塩媛を母とする推古天皇(額田部皇女)の養育を担ったのが、額田部馬(日向伝来?)を献上した事で知られる額田部連氏であったためとする。

「新撰姓氏録」の所伝には、額田部湯坐連が、允恭天皇に、馬の額に旋毛がある馬を献上した記録がある。倭国には本来は馬が存在せず応神天皇の代に百済から導入したという。日向国の馬匹については、927年の延喜式によると全国に39ヵ所あった牧が肥前国と並んで多い。

「延喜隼人司式」では、隼人は元日に応天門外に分陣し、横刀や鉤形(円状)を描いた楯を構えた。儀式用の飾り馬でも、額を髷状に結った埴輪等があり、同心円状に田植えをした車田との関連を著者は考える。

蘇我馬子の実名は「馬」であり、馬匹文化に親密な蘇我馬子を日向馬に擬えた事になる。

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