東大のディープな日本史3

読んだ本の感想。

相澤理著。2014年8月28日 第1刷発行。



第1章 古代
1 ワカタケル大王の国内統一と国際的立場との関係は?
5世紀後半のヤマト政権は、軍事力によって地方豪族を服属させ、支配領域を関東から九州北部まで拡大し、鉄資源や先進技術を求めて朝鮮半島南部に進出。ワカタケル王は政治的・軍事的地位の承認(安東大将軍)を得るため宋に朝貢したが、百済滅亡(475年に百済は高句麗に攻められ、一旦滅び、都を南に移した)という状況も踏まえて冊封体制から離脱する道を選択肢、渡来人を組織して大王を中心とする国内統治体制構築を目指した。

2 木簡が古代史研究に果たす役割とは?
2012年に福岡県太宰府市の国分松本遺跡から出土した7世紀末の戸籍・計帳作成に関わる木簡は、701年の大宝律令作成以前に作成されたものと思われ、戸口の増加・減少・分割について書かれており、朝廷が民衆を掌握した方法について具体的に知る事が出来る資料となっている。

木簡は日本書紀等の正史の誤りを修正する実証的研究を保証する役割を果たす。

〇群評論争
大宝律令制定以前の地方行政区分の名称に関する論争。1967年に藤原京跡から発見された「阿波評松里」と書かれた木簡で、評とあった事が確定した。

3 浮浪・逃亡した農民はどこに行ったのか?
戸籍支配を原則とした律令政府は、当初は浮浪者を本籍地に連れ戻す方針だったが、その数が増加して荘園内で耕作する等して取り締まりが困難になったため、8世紀後半には浮浪人帳に登録して逃亡先に庸調を課す方針に転換し、9世紀には官田の経営にも利用した。

4 平安初期に行われた政治改革はどのようなものだったのか?
奈良時代には、相次ぐ政争や班田制後退に伴う財政悪化によって律令体制は動揺していた。平安初期には実情に即した形での律令体制の確立が目指され、官職統合により行政簡素化・財政支出削減・天皇への権限集中が図られた。

唐の律令では司法を司る官職として、周礼(古文派)に由来する刑部と礼記(今文派)に由来する大理寺の二つが置かれているが、日本では刑部省に一本化されている。

また、唐の律令では戸籍・財務事務を司る戸部省は、日本の律令では民部省・大蔵省に分かれる。これは大和国と河内国の国境を流れる大和川にいた渡来人の末裔(河内首)が律令導入前から大蔵として税関の職務を行っていたためらしい。

〇検非違使
嵯峨天皇朝の817年に置かれ、京中の治安維持にあたった令外官(律令規定外の役職)。長官である別当が発する命令文書は天皇の宣旨に準ずる効力を認められ、政治的干渉を受ける事無く自由に捜査活動を行えた。

淳和天皇の天長年間にあたる824年には検非違使庁という独立した組織になる。

〇蔵人頭
810年の薬子の変(藤原仲成・薬子が平城上皇の復位と平城京への再遷都を企てて失敗した事件)に際して置かれた天皇の機密文書を扱う令外官。

退位した太上天皇(後の上皇)に律令の規定において天皇と同等の院宣を発する権限を認めていた事から、平城京と平安京の二所朝廷とも呼ばれる対立が生じており、指揮命令系統を一本化する必要性を感じ、文書管理や詔勅の伝達等を行う蔵人が天皇の側近として機能するようになる。

5 瀬戸内海に海賊が発生した背景は?
瀬戸内海は西国と都を結ぶ海上交通の要所であり、荘園からの年貢輸送や、私貿易船の往来も活発であったため、中央集権体制が放棄されると、成長した有力者が海賊を組織して、島々が点在して潮目が早い地理的条件を活かして通過する船を襲った。

群盗海賊は、中央集権体制が融解した9世紀に発生し始めた。10世紀前半の醍醐朝の改革で一旦は鎮静化するが、10世紀前半に承平南海賊として再び活発化し、939年の藤原純友の乱に繋がっていく。

第2章 中世
6 武士と荘園の関係は?
源平の争乱が継続している間は、各地の武士は荘園を侵略したが、源頼朝が東国武士団と封建的主従関係を結ぶと、武士は各地の荘園に地頭として派遣されるようになり、御家人の務めとして年貢納入を励行するようになる。武家政権成立によって荘園公領制は維持された。

7 建武の新政はなぜ失敗に終わったのか?
後醍醐天皇は、延喜・天暦の治を理想に、天皇が発する綸旨を絶対として天下統一を目指したが、武家社会の慣習を無視する政策―例えば、当知行安堵の原則(土地所有者に所有権を認める原則)は、年紀法(他人の所領でも20年以上継続して支配すれば所有権を認める)を無視するものだった―を行い、また、武家からの登用を行ったために公家からも反発され失望された。

8 惣村で行われていた自治とはどのようなものか?
惣村は祭祀を行う宮座を核として地縁的自治組織。乙名・沙汰人等の名主層を中心に、惣百姓全員が寄合に参加して掟を定めた。

惣村は14世紀後半から畿内を中心に形成され始め、その背景には農業生産力向上による農民の自立がある。

〇名田制
13世紀の荘園、公領は名田を単位として区分され、名主が年貢等の負担を請け負って、作人を用いて経営にあたった。鎌倉時代後期には名田制の解体が進み、名主らが地縁的に結合して惣村が形成されていった。

9 守護大名と戦国大名の違いは?
守護大名は征夷大将軍に任命され、幕府から与えられた職権に基づいて領国を支配していたため、征夷大将軍が認めた守護使不入地への干渉を排除出来なかった。
戦国大名は領国内の武士と銭高を基準に主従関係を結び、征夷大将軍の権威に依存する事無く、自力で支配を行った。

10 文化の地方伝播に武士が果たした役割とは?
応仁の乱前、在京していた守護や家臣は、公家・禅宗の影響を受けた芸能の保護者・担い手となった。戦国大名は、富国策として京文化や学問の受容に努め、京を逃れた公家・僧侶・連歌師を招いた。

とりわけ、大内氏の周防山口には、日明貿易の富を背景に多くの文化人が集まり、雪州が水墨画『四季山水図巻』を雲谷庵で捜索した。大内家24代目当主 大内弘世は、京都盆地に酷似した山口に本拠を移し、坂川を淀川に見立て、京を模した街作りを推し進めたらしい。
25代目当主 大内義弘の菩提寺 瑠璃光寺の五重塔は、奈良の法隆寺、京都の醍醐寺と並ぶ日本三名塔に数えられる。

他には、15世紀半ばに関東管領・上杉憲実によって再興された足利学校は、北条氏康の保護によって、フランシスコ・ザビエルから「坂東の大学」と称されている。

第3章 近世
11 江戸幕府はなぜ政治路線を転換したのか?
平和な時代が続く中、武士は武力によって人格的に主君に仕えるのでなく、儒教的素養や儀礼を身に付け、主君の家に代々仕えるものと考えられるようになった。

1615年の武家諸法度 第1条には、「大名は文武弓馬の道に専ら相嗜むべき」とあるが、1683年の武家諸法度 第1条には「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」と改められている。

12 秋田藩が院内銀山を経営した意味とは?
出羽の院内銀山は1607年に開かれ秋田藩直轄となった。鉱山運営の経験を持つ北陸・畿内の商人や、石見大森銀山の製錬職人等が集まり、城下町久保田は人口1万人程度の都市となる。

秋田藩の財源基盤は本百姓から徴収する年貢にあったが、人口の多い都市を自領に持つ事により、年貢米を割高価格で独占販売出来る事になり、三都市場(江戸、大阪、京都)に頼らずに藩財政を安定化出来た。

院内銀山は1954年に閉山されている。

13 幕府が印旛沼干拓計画を立てた目的は?
以下の二つがある。

①新田造成と洪水防止
江戸幕府が最初に印旛沼干拓の本格的計画を立てたのは、享保の改革においてで、1724年に平戸―検見川間(約17㎞)の掘割工事が行われるが資金難で頓挫。

次は田沼意次による天明年間で、1786年に利根川の大洪水で頓挫。

②通船
水野忠邦による天保の改革における掘割。利根川と江戸湾を結び物流に便宜を図る(江戸近郊の地廻り経済発達への対応)。この時期にアヘン戦争があり、列強に江戸湾を閉鎖された場合に備え、銚子経由による物資輸送路を確保する策を講じる必要があったのかもしれない。

計画は水野忠邦失脚によって中止。印旛沼開発事業竣工は、1969年まで持ち越しになる。

14 近世の学問の発展の特徴は?
幕藩体制を支える教学となった儒学は、合理的精神や実証的研究方法を根付かせた。自然科学では事物の観察に即した形で本草学が発達し、洋学も翻訳を通して実学が受容された。他に古典の実証的研究を通した日本人固有精神を探求する国学等。

〇朱子学
理気二元論に基づく合理的体系を具え、理が気を支配し、気が理に従って構成される事で万物は生成されるとした。人間も理(善の本質を具える)と気(肉体が持つ欲望に歪んだ性質)の両者からなると考える。
それ故、居敬(敬しみの気持ちを持つ)と窮理(理の究明に努める)が説かれる。

15 幕府は列強諸国に何を要求したか?
1863年に徳川幕府は使節団を欧州に派遣し、開港条約を締結した各国を回る予定だったが、翌年春にフランスと交渉した後に指名遂行を断念して帰国した。

正使の池田長発は、以下をパリ協定でフランスに認めた。

①長州藩砲撃への賠償
②下関海峡通航の自由
③輸入関税率の軽減

帰国後、池田長発は蟄居され、老中 水野忠清はパリ協定を一方的に破棄した。

1858年に結んだ日仏修好通商条約で開港した横浜港を一時閉鎖して貿易を中断しようとしたが、横浜港を閉鎖した場合、列強との武力衝突は必至だった。

孝明天皇は異国との貿易に反対で貿易により都市消費用物資が不足して物価が高騰していた。

第4章 近代
16 なぜ大日本帝国憲法は民権派に歓迎されたのか?
民権派が求めていた公選による議会開設が約束され、予算・法律に対する議会の協賛も憲法に明記された。大日本帝国憲法では言論・集会・結社の自由が認められ、議会の審議を経ていない弾圧法令は無効とされた。

1938年に制定された国家総動員法では、戦時に際して人的・物的資源の動員が法律によらず勅令で行われる事とされ、議会が立法府としての責務を放棄した。

17 明治政府が三国干渉を受け入れた経緯とは?
陸奥宗光の回想では、遼東半島の返還を求める露・独・仏の勧告に対し、利害対立が表面化すれば清との講和条約自体が破棄される可能性があるため、さらなる干渉を防ぐために講和条約批准と三国の勧告を別個に扱い、条約批准後に干渉を甘受する指針が決まった。

18 鉄道はどのように発達してきたか?
1872年に新橋~横浜間の鉄道が開通。大隈重信と伊藤博文が鉄道建設を積極的に推進。1874年に大阪~神戸、1877年に大阪~京都が開通。1870年代に資金不足から鉄道建設が停滞し、東京~神戸が開通したのは1889年(この年に官営と私設の営業距離が逆転)。

1880年代は鉄道と紡績を中心に会社設立ブームがあり、日本鉄道会社(1881年に岩倉具視の触れ込みで設立。)が東北本線や高崎線を開通させている。

1892年に制定された鉄道敷設法では、幹線鉄道9路線の計画が定められ、公債による部分的敷設や私鉄買収が認められた。日露戦争後の鉄道国有法(1906年)によって主要幹線の民間鉄道が官営鉄道となったため、1907年に官鉄と民鉄の営業距離が官鉄優位に逆転する。

第一次世界大戦(1914年~1918年)の好況期には都心部と郊外を結ぶ民鉄の建設が進み、原内閣が四大政綱(教育改善、交通通信機関整備、国防充実、産業奨励)を推進した1919年~1922年は官設鉄道建設費が急激に増加し、地方鉄道拡充が図られた。

19 一九三〇年代に訪れた「農村の危機」とは?
昭和恐慌による生糸輸出の激減に伴う繭価暴落と植民地米の圧迫による米価低迷は、養蚕と米作に依存する零細農家を直撃した。都市の失業者が帰村したために農村人口は過剰になり、困窮が表面化した。

20 教育は日本の近代化にとのような役割を果たしたのか?
明治政府は近代的市民育成を目標に、国民皆学を掲げて初等教育に重点を置いた。学校間の体系が学制・教育令によって関s寧したが、政府の監督責任が強化されて国家主義的傾向が強まり、忠君愛国を基本理念とする教育勅語が発布された。

明治後期には就学率が90%を超えて初等教育が確立すると、大正時代には大学令によって高等教育充実が図られた。戦後は教育の自由主義化の下で教育基本法・学校教育法が制定された。

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