東大のディープな日本史2

読んだ本の感想。

相澤理著。2012年12月25日 第1刷発行。



第1章 古代
1 「日本」はいつから始まったのか?
「天皇」、「日本」号は、7世紀の天武朝に定められたという説が有力。

日本は、隋による中華統一を受け、7世紀初めには皇帝に臣従しない形式で中国と国交を回復(5世紀に倭の五王が南宋に朝貢して以来)し、7世紀後半に遣唐使を中断するものの新羅統一によって朝鮮半島情勢が安定すると8世紀初めに遣唐使を再開して律令制を再開。以降、定期的な朝貢を通じて文化交流を行う。

2 朝廷はなぜ巨大道路を建設したのか
古代の朝廷が建設した道路は、駅路によって都と各国府を結ぶもので、中央集権体制を支えた。特に大宰府と都を結ぶ山陽道(幅12m)は、外交使節の歓待や威勢誇示の役割を果たす。

駅路は30里(約16㎞)毎に駅が設けられ、班田農民から選ばれた駅長・駅子が管理した。駅は駅鈴と呼ばれる乗用資格証明を持つ役人のみが使用出来た。

駅子は庸・雑徭を免除されたが、駅使への食糧供給や宿舎提供の負担があり、律令制が動揺し、個別人身支配(戸籍による管理)が緩んだ9世紀には駅子の逃亡が増加した。

3 貨幣とはなんだろうか?
日本では、8世紀初めに銭貨の発行を政府が開始し、蓄銭叙位令(10貫につき1位を朝廷に納めれば位階がもらえる)を発し、官人への給与を銭貨で支払う事とし、物品や租税との交換比率を定め、地方への普及を図った。しかし、生産力に乏しい地方では流通せず、逆に需要の高い畿内(京都は、全国から庸調として産品が集まる)では不足したため、8世紀末には地方の銭貨を畿内に回収する政策に転じた。

4 奈良の大仏はどのようにして造られたのか?
聖武天皇は鎮護国家の仏教に頼って国分寺建立や大仏造立を傷下。班田農民の支持を集めた行基は動員力を利用され、さらに大仏建立には戸籍支配から離脱した班田農民を取り込む意図もある?

〇行基(668年~749年)
百済系渡来人の子孫として668年に生れる。15歳で出家し、法相宗を修める。710年頃から民衆への布教を開始し、民間布教を禁じた朝廷から弾圧されるも、多くの信者を獲得。743年からの大仏造立に協力し、大僧正の位を贈られる。大仏開眼の供養会は752年。

743年は墾田永年私財法によって開墾が奨励された年で、先立つ723年に三世一身の法が出されると、行基は畿内近国で開墾の指導を行っている。

5 古代の役人はどのようにして私腹を肥やしていたのか?
奈良時代の調は成年男子に対して課される人頭税で、納められた特産品は運脚(班田農民が自ら納める)によって都に運ばれた。平安時代の調は名田(公田の区分単位)の面積に応じて課される土地税で、朝廷から一定額の徴税を請け負った国司が自由に税率を決定し、他国の粗糸を買って納入に充てるなど、蓄財の手段にもなった。

税のうち、租は田地1段(約12アール)につき2束2把(収穫量の3%)で農村における初穂儀礼に由来しており、神に捧げる米により共同体の結束を固める意味があった。ために徴収された租は都には納められず、国衙(国司が政務を行う役所)の財源として蓄えられた。

律令税制崩壊は9世紀頃で、902年に醍醐天皇が行った延喜の荘園整理令による班田が記録上最後の班田となっている。醍醐天皇・宇多天皇による寛平・延喜の国政改革では、国司に地方支配を一任するかわりに一定額の税の納入を行わせている。

第2章 中世
6 御成敗式目を制定した意図は?
御成敗式目は、1252年に3代執権 北条泰時が制定した51条からなる武家社会の基本法。所領紛争が増加する中、御家人を対象に裁判を公平に行うための基準を明文化。
朝廷との協力も必要な鎌倉幕府は、御成敗式目の大将が荘園や公領以外で公家法が本所法を侵すものでないと説明する必要があった。

泰時消息文は、北条泰時が御成敗式目を制定した趣旨を京都の六波羅探題にいた弟の北条重時に宛てて書いたもの。

7 幕府はなぜ次男の言い分を認める判決を下したのか?
北条泰時が行った裁判について。父の所領が全て次男に譲られた事案について、次男の相続承認を認めている。当時の武家社会は惣領制で、一族の長である惣領の命令に庶子が従う形で、血縁の絆で結ばれた。惣領には次期惣領の指名権もあり、父(惣領)が親権において次男を跡取りに指名したとする。

鎌倉幕府にとって惣領制の血縁的結束は政治的・軍事的な基本単位であり、その維持を図らなくてはならない。

8 鎌倉仏教が爆発的に流行したのはなぜか?
法然や親鸞による念仏を用いた往生という日常生活で実践出来る平易な教えが、内面的な救済を求める武士や民衆に広まった。国家的事業としての旧仏教は戒律や学問を重視する立場から朝廷の力で圧迫し、社会事業を通じて民衆救済も行った。

鎌倉仏教の特徴は、専修、選択、易行の三点で、念仏(南無阿弥陀仏)・唱題(南無妙法蓮華経)、座禅という修業方法から一つを選び、それに専念する。

9 南北朝の争乱はなぜ全国化・長期化したのか?
南北朝時代は、1336年に後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏が京都に入り、1392年に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位するまで60年近く続いた。

当時は単独相続への移行によって一族内で所領紛争が生じ、武士は惣領の親権に従わず、有利な陣営についた。強固な血縁的結束を誇った惣領制が解体する中で、嫡子と庶子が一体化しなかったために争乱は長期化した。観応の擾乱(1350年~1352年)では足利尊氏、直義双方が南朝を利用する等、室町幕府も調停者としての役割を果たせていない。

〇観応の擾乱
1349年に高師直のクーデターによって引退に追い込まれた足利直義は、1350年に南朝と和睦(後村上天皇の綸旨を得た)して京都を制圧し、高師直を滅ぼす。その後、足利尊氏によって足利直義は毒殺される。
鎮静化のために足利尊氏は1351年に北朝の崇光天皇と皇太子直仁親王を廃して後村上天皇を京都に迎え、元号も南朝の「正平」に統一している(正平の一統)。

統一は一時的なもので、南朝は京都から撤退し、その際に北朝方の上皇と直仁親王を連れ去ったので、北朝は天皇・上皇が不在という事態を迎える。

10 続・貨幣とはなんだろうか?
958年に皇朝十二銭の最後となる乾元通宝が発行されて以来、宋銭が日本で流通した。農産物や手工業品が多くなると、市が成立し、貨幣需要が増す。

国内に銭貨を管理する一元的権力が不在な状況(鎌倉幕府は公武二元支配、室町幕府は弱体)では中国銭が多用される。後に統一権力として成立した江戸幕府は、金・銀・銅の三貨体制を確立する。

第3章 近世
11 豊臣秀吉がキリシタンに感じた脅威とは?
宗教的結束に基づく自立的権力に脅威を感じた。豊臣秀吉のバテレン追放令は1587年。

キリスト教宣教師は布教と貿易を一体化する形で大名を取り込み、大名の支配力を利用して家臣や領民を強制入信させた。1549年にフランシスコ・ザビエルが来日してから40年ほどでキリシタン信者が20万人に達した推計がある。

〇蓮如
本願寺8世法主。室町時代後期に一向宗の勢力を北陸の農村に拡大。延暦寺によって京都を追われた後、1471年に越前吉崎(福井県あらわ市)に拠点を移す。
惣村の指導者である名主・乙名の支持を取り付け、彼等を核に講(門徒の寄合)を組織した。

12 支配者は農民をどのような目で見ていたか?
本百姓からの年貢収入を財源基盤とした幕藩は、自立した小農を保護すべく、田畑永代売買の禁(1643年、田畑の権利売買を禁止)を発する等、小農が貨幣経済に巻き込まれて没落するのを防ごうとした。

13 江戸時代に蝦夷地が果たした役割とは?
耕地に恵まれない蝦夷地は、松前氏が幕府からアイヌとの独占交易を認められ、参勤交代の形で朝貢する事で華夷秩序に組み込まれた。18世紀には家臣に交易権を与える商場知行制から和人商人による場所請負制に移行し、アイヌに対する経済的支配が強まった。

蝦夷地には、漁獲物、毛皮、木材、肥料用〆粕等が入手出来たとする。

1789年にクナシリ・メナシの乱が起こると、ロシアとアイヌの合一を恐れた徳川幕府は、1797年に近藤重蔵等を派遣して択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てる。これは現在の日本政府が北方領土を主張する根拠にもなっている。

14 琉球王府が語った架空の「トカラ島」とは?
1846年に琉球政府は、トカラ島という架空の島を持ち出してフランス海軍提督の通商条約締結願いを断っている。トカラ島は、吐噶喇列島とは違う。琉球は、中国への朝貢品や輸出品、必需品を日本のトカラ島で買う以外なく、フランスと友好通商条約を結ぶと、トカラ島の商人達は日本の法律によって来る事が出来なくなるとする。

琉球政府は日中両属関係を維持し、薩摩藩との密貿易を利用する意図があったため、フランスとの友好通商条約を断ったとする。

〇琉球国家建設
12世紀頃に大陸から穀物栽培や鉄器文化が齎され、各地に按司と呼ばれる首長が出現し、グスク(城砦)を構えて抗争が始まる(グスク時代)。

14世紀には北山、中山、南山の三つの勢力圏に統合され(三山時代)、中山王となった尚巴志が1416年に北山、1429年に南山を滅ぼして琉球王国を成立させる。

1469年に7代国王 尚徳が亡くなると、貿易責任者だった金丸(尚円)がクーデターを敢行し王位を奪っている(第二尚氏王朝)。金丸の子の尚真の時に各地の按司が首里に集められ、王権の基盤が確立。

1609年には島津家久に首里を占領され、薩摩藩を介して徳川幕府に慶賀使を、謝恩使を遣わすようになる。

15 民衆はなぜ「御蔭参り」に熱狂したのか?
1830年に約500万人が伊勢神宮に参詣した(当時の日本人口は約3200万人)。19世紀前半には交通網の発達や大御所時代(11代将軍 徳川家斉が実権を握った時代)の好調経済を背景に寺社参詣が流行したらしい。

伊勢神宮への参詣は、1705年、1771年、1830年と60年おきに流行したらしい。

第4章 近代
16 伊藤博文が憲法制定を急いだのはなぜか?
不平等条約改正のために、領事裁判権撤廃の条件として列強から求められている、近代的諸法典の整備を急ぐ必要があった。また、国内の自由民権運動に対抗する形で明治14年に国会開設の詔を発布し、明治23年の議会開設を約束して政府主導による立憲君主制を実現しようとした。

17 日露戦争で国際関係はどのように変化したか?
日露戦争は満州・朝鮮権益をめぐって争われたが、講和によって日露間の勢力均衡が回復された。日本が南満州鉄道の共同経営提案を拒否した事から、中国での門戸開放を求める米国との関係が悪化したが、日露協約によって対抗している。

以下は、ポーツマス条約の内容。

①韓国における日本の指導権の承認
②旅順、大連の租借権の日本への譲渡
③長春以南の鉄道利権の日本への譲渡
④南樺太(北緯50度以南)の領有権の日本への譲渡
⑤沿海州、カムチャッカ沿岸における漁業権の日本への付与

18 地租改正と農地改革の意義は?
地租改正では、租税が金納になるとともに、地主に土地所有権が認められる事で近代的土地所有制度が確立した。税額基準が生産高(石高)から地価に移行し、納入者が耕作者から土地所有者に変化する事で豊凶に関わらず一定額の税収を確保可能になる。一方で、小作人が高額な小作料を物納する形で寄生地主制(小作料だけで生活出来る地主は耕作から離れる)の発達が促された。

地租は金納となっても小作料は物納のままで、生産高の六割を持っていかれるため、小作が自作農になる可能性は低かった。1890年代には小作地率は40%台に達し、寄生地主は株式等に投資したため、鉄道・紡績を中心とした企業勃興が見られた。

農地改革では小作地を国が直接買収するという方法により自作農が創設された(自作値は全耕作地の90%に達した)が、零細農家の増加という問題も発生した。

以下は、GHQのダグラス・マッカーサーが幣原喜重郎に指示した五大改革の指令。

①婦人解放
②労働組合の結成奨励
③教育制度の自由主義的改革
④圧政的諸制度(治安維持法、特高警察等)の撤廃
⑤経済機構の民主化

19 高橋是清はいかにして恐慌から脱出したか?
金輸出再禁止を行って為替相場の下落を誘発し、積極財政と合わせて輸出を拡大した。その前の井上蔵相の緊縮政策、産業合理化、金輸出解禁等によりリストラが進めらた下地もあるとする。

20 日本国憲法は本当に<民主的>なのか?
日本国憲法では、国民主権を原理に、内閣の議会解散権、国会の内閣首班指名権、裁判所の違憲立法審査権等、各機関の均衡による権力抑制が図られている。

以下は近代憲法の原理。

①立憲主義
憲法による国家権力抑制。

②権力分立
権力を分割して異なる機関に担当させ、抑制と均衡を保つ。

憲法に明記されているから人権が守られるのでなく、国民の不断の努力によって自由と権利は保持される。

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