東大のディープな日本史

読んだ本の感想。

相澤理著。2012年5月17日 第1刷発行。



第1章 古代
1 古代の朝廷はなぜ白村江の戦いに臨んだのか?
朝鮮半島における拠点確保と、軍事動員により権力を集中させ中央集権国家建設を目指した。

589年に中華を統一した隋は、度重なる遠征による疲弊が一因となり618年に滅びている。次の唐は律令を制定し、貞観律令を整備した二代皇帝太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれる。こうした足場を固めた上で、唐は周辺国へ出兵している。

日本では646年に四カ条からなる改心の詔を発した後に、大宝律令が制定されたのが701年で、守旧派の抵抗によって改革進展が遅れていたものと思われる。

2 古代の朝廷の外交の「たて前」と「実際」とは?
唐を模倣して律令を完成させた日本朝廷は、建前上は唐の冊封を受けなかったが、実際には唐から朝貢国の扱いを受けた。

遣唐使 大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝の元日朝賀において、日本と新羅が席次を争ったと報告している。779年に唐から答礼使が来日した時は、光仁天皇が御座を降りて国書を受け取っている。

新羅との関係では、743年に新羅使が、それまでの調という貢進物の名称を土毛(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷が受け取りを拒否する事例が発生している。しかし、新羅や渤海との交流は盛んであったらしい。

3 群司は地方支配にどのような役割を果たしたか?
群司は実質的な在地支配力を有し、地方豪族が慣習的に世襲していた。律令制では郡司は中央から赴任した国司の監督下に入り、戸籍・計帳の作製、刑の執行等の末端実務を担い、中央集権的地方支配に貢献した。

天武天皇の時代(673年~686年)に設定された行政区画では畿内と七道の行政区の下に国(国司が管轄)・群(地方豪族の勢力範囲に応じて設定)・里(班田や徴税のために設定)が設けられ、8世紀後半には66国が設けられている。

4 平安初期に律令国家や文化はどのように変化したか?
長岡町遷都(784年)、平安京遷都(794年)を行った桓武天皇の画像は、顎鬚をたくわえ、玉座に座る中華皇帝を思わせる。このように平安初期には令外官(律令の規定外の官職。検非違使や蔵人頭等)や格式・令義解の編纂等によって実情に即した律令制が再興されると同時に、唐風文化を導入して威厳を飾る動きがあった。勅撰漢詩集や宮廷義式(郊祀祭天の儀として、冬至の日に先祖を祀る中国の儀式。桓武天皇は785年から父 光仁を始祖として行った)等。

天皇を頂点とする国制が完成すると、太政官制に依拠した政治形態への道が開ける。

〇嵯峨天皇(在位:809年~823年)
平安宮の門や建物の名称、宮廷義式に唐風を採用。漢詩文集『凌雲集』、『文華秀麗集』を勅撰。漢文学流行に彩られた弘仁・貞観文化を開花させる。

5 摂関政治と院政の違いは何か?
摂関期には天皇家との外戚関係が重視されたため、摂政・関白よりも娘や妹が皇太后となった者の方が後見人として官吏の任免権を握った。院政期には上皇が政治を行い、法や先例を打破していった。

866年に藤原良房が人臣として初めて摂政(幼少の天皇に代わって政務を行う)となる。884年に藤原基経が光孝天皇の即位に祭祀て関白(成人した天皇の後見人)となり、887年に宇多天皇の詔で関白の語が初めて用いられる。

摂政・関白は律令における規定は無く、天皇の個人的輔弼者という位置付け。藤原道長は関白にはならず、左大臣(太政官制における最高責任者)と内覧(天皇に奉る文書に事前に目を通す)の地位に就いていた。

藤原道長の子 頼通が天皇の外祖父となれないまま1067年に関白の座を辞すると、1068年に摂関家を外戚としない後三条天皇が即位し、1086年に白河上皇が院政を開始する。

院政は明治維新まで続き、嫡子不在を理由に皇位継承問題が発生する事を防いだ。

第2章 中世
6 平氏はなぜ政権を奪取できたのか?
法が機能したい院政期に、荘園と公領の確定、僧兵の鎮圧、紛争解決に武士の力が必要になった。平氏は娘を入台させ(平清盛は娘 徳子を高倉天皇の中宮として、1180年に孫の安徳天皇を即位させている)、天皇家と外戚関係を築く事で官職を独占する等権力を掌握した。

7 北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?
中世の武士には天皇を頂点とした血筋を重視する意識があり、将軍は貴種である事が絶対条件だったとする。伊豆国の在庁官人だった得宗(北条氏嫡流)は将軍になれなかった。

また、北条氏は将軍という天皇の直臣とならなかった事で武家政権としての独自性を発揮出来たという意見もある。源頼朝直系の血筋が途絶えた後は、北条氏は摂関家から頼経を鎌倉殿に迎え、1252年には天皇の兄である宗尊親王を戴いている。

8 元寇で武士たちは「国」を背負って戦ったのか?
惣領に率いられた血縁的武士団が、幕府からの恩賞を目当てに個別で参戦した。モンゴルは高麗軍を海上戦に従軍させようとしたが、結束力欠如から日本遠征は失敗した。

9 一揆の団結力のみなもとは何か?
一揆では血縁関係よりも地縁的結束が優先され、参加者全員で行う合議による決定と誓約による拘束があった。署名者全員が対等な立場で、神前で一味同心である事を誓う等、神が結束の核となった。

鎌倉後期には分割相続の繰り返しによる所領細分化より困窮する武士が増加し、嫡子単独相続への移行が進んだ事で、血縁的結束に綻びが生じ、惣領制から切り離された武士が自立して在地の国人になっていったと考えられる。

10 能や侘び茶はどのようにして生まれたのか?
室町時代には、諸産業や流通の発達による民衆の経済的成長を背景に惣村等の自治組織が形成され、これを基盤に民衆芸能が生まれた。猿楽能、喫茶、連歌等が流通の中心である京都に集約され、諸文化の融合が進んだ。

血縁や個人の利害を離れた個人が、対等な立場から一つの目的を共有する姿勢は、一揆や能の一座、茶の湯の一期一会の精神でもある。

〇猿楽
中国から伝わった散楽に由来する滑稽芸、田植え時に豊作を祈って行われた歌と踊り等を起源とし、歌舞の要素が強調された。室町時代になると、能楽師で構成される一座が寺社の保護を受け、興福寺を本所とする大和猿四座(円満井座(金春座)、外山座(宝生座)、結崎座(観世座)、坂戸座(金剛座))が栄えた。

結崎座(観世座)からは観阿弥・世阿弥が出て能を作り上げた。

〇侘び茶
南北朝期に経済的に成長した民衆の娯楽として喫茶が行われるようになる。闘茶が婆娑羅(新奇や放蕩を好む新興武士)の間で流行したが、足利尊氏が制定した建武式目(1336年)で禁止されている。

村田珠光は、集まって茶を飲むという本来の目的に立ち返った侘び茶を創始した。

〇連歌
上の句、下の句を一座に集まった人々が詠み継いでいく文芸。平安時代当初は貴族の遊戯だったが、連歌の指導をする連歌師が各地を遍歴すると民衆の間にも浸透していく。

第3章 近世
11 豊臣秀吉が天下統一に向けてとった手法とは?
自力解決を否定し、関白に任じられる事で天皇から全国支配を委ねられたとして、領地確定に関しては自分の裁定に従うよう命じた。全国の領主権を握る豊臣秀吉が諸大名に石高を基準に知行地を与え、それに見合った軍役を負担させる。

惣無事令(戦闘停止と領地確定)、海賊取締令、喧嘩停止令(村同士の境目争いの禁止)等。

豊臣秀吉は、1586年に後陽成天皇から豊臣の姓を賜り、1588年には京都に造営した聚楽第への後陽成天皇の行幸を実現し、諸大名を聚楽第に呼び寄せ、関白に従うという起請文を提出させている。

12 江戸時代の幕府と朝廷の関係とは?
徳川幕府の地位は、朝廷からの征夷大将軍任命によって保障された。徳川幕府は、禁中並公家諸法度によって公家勢力の政治的発言力を抑制する一方、伊勢例幣使の再興等で朝廷を経済的に支援して融和を図った。

既存組織を利用する徳川幕府の方法。

〇村方三役
名主、組頭、百姓代。村民と代官を結ぶ窓口となる。

〇本山・末寺の制
全国の寺社を宗派毎に組織し、民衆は必ず檀那寺を持つ事にした(寺請制度)。

13 徳川吉宗は出したくて上げ米令を出したのか?
文治政治転換に伴う人件費増加や米価低迷、貨幣経済発達による階層分化での本百姓制動揺によって幕府財政は悪化し、封建的主従関係を確認する参勤交代を緩和しながらも政府収入を増やした。それは統制力を弱める事に繋がる。参勤交代には江戸に長く滞在させる事で、諸大名の割拠性を弱める役割があった。

1722年の上げ米令によって、参勤交代の江戸在府期間を半減する代わりに、石高1万石あたり100石を徴収し、年間19万石(年貢高の一割以上)の一時的収入を得ている(年貢増徴策によって、連年150万石前後の年貢収納高が確保された8年後に廃止)。

享保の改革では、他に役職毎に役高を定め、在職時にのみ家禄の不足分のみを支給する足高の制を採用して人件費を抑制している。

14 「鎖国」下の幕府の外交能力とは?
長崎の出島、対馬の宗氏、琉球、松前等、海外との窓口を制限する事で、外部情報と貿易利潤を独占した。

15 化政文化はなぜ農村まで広まったのか?
化政文化は江戸の経済的発展を背景にした町人文化だが、出版の発達や商人・文人の交流活発化により、経済的に余裕の生じた豪農層にも受容された。

〇元禄文化
17世紀後半に上方(大阪・京都)の町人達が担い手とした。

〇化成文化
19世紀前半に江戸町人を担い手とした。

第4章 近代
16 明治新政府が内外に打ち出した方針とは?
開国の方針を示して列強を支持を得て、国内で根強い攘夷運動鎮静化を図った。儒教道徳を遵守させ、キリスト教を禁止する等もしている。

17 大久保利通が描いた日本の将来像とは?
不平等条約改正を目標に、富国強兵に務めて列強に並ぶ国力を養う。大久保利通は民主政治を理想としたが、当面は君主権の下で政府主導で近代化を進め、民度を高めていく君民共治が良いと考えた。

大久保利通は自らが内務卿として、内治の整備を進める内務省を管轄した。しかし、1878年に紀尾井坂の変にて49歳で死んでいる。

大日本帝国では、天皇の統治権について規定した第四条では、統治権は憲法によって抑制されるべきとあり、大久保利通や伊藤博文が理想としたデモクラシーの精神が埋め込まれている。

18 明治日本が産業革命を達成できた原動力は?
主要輸出産業である製糸業が、甲信地方を中心に発達し、外貨獲得産業になった。一方で紡績業は関西を中心に大工場生産が発達したが、綿花はインド・中国、機械は英米からの輸入であったため、貿易収支は赤字だった。

日清戦争前後を繊維業を中心とする第一次産業革命、日露戦争前後を重工業を中心とする第二次産業革命とする。

古代に中国の律令や文化を形として受容したように、明治時代にも欧米の政治制度や科学技術をそのまま形として導入した。江戸時代後期の寺子屋の発達等、民衆レベルで近代化を受け入れる下地があった。

19 協調外交以外に日本に道はなかったのか?
戦後恐慌の中で、国内市場が狭く、国際競争力も無い日本は、資源供給地や輸出市場としての満州を手放せなかった。そのため、対米英協調の方針を堅持する事で、列強の一員として満州権益を確保していた。

〇ワシントン会議(1921年~1922年)
第一次世界大戦後の軍縮体制構築と、アジア・太平洋問題解決を目的に開かれた。

日本の首席全権 加藤友三郎は以下の方針を政府から伝えられた。

①軍縮
列強同士の建艦競争を終了させて軍事費膨張を抑制する。
②米国との円満な関係維持
③満州の権益確保

四カ国条約(太平洋における勢力の現状維持)、九カ国条約(中国の主権尊重等を規定)、海軍軍縮条約(補助艦の保有量制限を定める)が結ばれ、こうして構築された国際秩序をワシントン体制と呼び、1920年代の日本は、対米英協調と対中国不干渉主義を堅持していく協調外交を選んだ。

20 「憲政の常道」はなぜ終焉したのか?
政党内閣は明治憲法によって制度化されておらず、昭和初期に元老 西園寺公望の推挙によって慣例的に二大政党時代が続いていただけだった。慢性的不況に解決策を打ち出せない中、満州事変を機にテロ・クーデターが相次ぎ、政党内閣の終焉後には軍部と官僚が手を組んで内外の危機に対応する体制が作り出された。

元老は天皇に首相の推挙も行っており、大日本帝国の民主的運用には、加藤高明を首班に指名した元老 西園寺公望のような憲法外の存在を必要とした。

〇憲政の常道
憲法に基づく政治として、正しい道と信じられるもの。

具体的には以下のよう。

①組閣
民意を反映した衆議院で第一党である政党が組閣して政権を担う。
②禅譲
内閣が失政によって倒れた場合は、第二党に政権を禅譲する。

第二次護憲運動によって加藤高明内閣が成立(1924年)したから犬養毅内閣が五・一五事件(1932年)で倒れるまで二大政党による政権交代が実現していた。

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