お茶の歴史

読んだ本の感想。

著者:ヴィクター・H・メア/アリン・ホー。
2010年9月20日 初版印刷。



第1章 植物学の寄り道―茶のライバルたち
アルカロイド群は窒素を含む塩基性化合物で、現在では4000種を超える植物で1万種を超えるアルカロイドが同定された。その一種であるカフェインは1820年に同定された。茶はカフェイン飲料の一種。

以下は、浸出液として活用された茶以外の植物。

〇麻黄
紀元前2000年頃のタクラマカン砂漠に埋葬された青銅器時代のミイラの副葬品から見つかる。

〇コカ
アンデス山脈では、コカと石灰を混ぜて、葉に含まれる活性アルカロイド化合物を遊離させる。

〇檳榔
南アジア、東南アジアで使用される強壮剤。

2004年~2005年現在ではコーヒーの生産高は720万t、茶は320万t。カップ一杯をいれるのに必要なコーヒーは15gで、茶葉は5g。

第2章 国の威信のよりどころ―東南アジアと茶の起源
茶の自然分布の中心は、インドのアッサム州のブラマプトラ川上流一帯、ビルマ北部、タイ北部、インドシナ半島、中国南西部とされる。

茶樹は以下に大別される。

①カメリア・シネンシス・シネンシス
中国南部に自生。耐寒性で0.9m~5.5mに育ち、高地でも栽培出来る。繊細で緑茶・烏龍茶・高級緑茶の製造に適している。

②カメリア・シネンシス・アッサミカ
南アジアと東南アジアの湿潤地に自生。中国、アッサム地方、スリランカで栽培される。14mまで育ち、霜に耐えられず、収穫量が多い。

初期人類は、紀元前5万3000年頃には茶樹の生育地に到着したものと思われ、中華神話における神農は紀元前2737年~紀元前2698年に国を治め、100種類の植物を味見し、茶樹が彼を癒したと伝える。

四川省の四川盆地に住んだ巴族は、茶樹の利用が記された最初の民族とされる。『華陽国志』は巴が周に茶を贈ったと思われる記述がある。

同じく四川省に住んだ蜀族も楽山地方で茶を栽培している。17世紀に顧炎武が著した『日知録』では、秦が茶の飲み方を知ったのは、紀元前316年に蜀と巴の領土を獲得してからと記している。

第3章 酪の奴隷―一世紀から六世紀までの茶
1世紀~6世紀で茶の知識と消費、栽培は揚子江下流域へ広まったとする。それまでの中国における代表的飲料はアルコールだったが、道教哲人が調合した薬草の中に茶があった。

しかし、中華北部には飲茶の風習が広まり難く、5世紀~6世紀に北方を支配した北魏の孝文帝(在位:471年~499年)は漢化政策を行ったものの、飲食物にまでは政策が広まらず、拓跋部の支配者達は羊肉と発酵馬乳を主食としたらしい。

第4章 喫茶去!―唐代
610年に揚子江と黄河を結ぶ約1770㎞長の大運河が完成する。中国南部から茶が黄河流域や長安に運ばれ、茶の湯を沸かす事は大都市での衛生向上に寄与したかもしれない。

則天武后(在位690年~705年)の治世に肉食禁止令が出るが、仏教が盛んなこの時代に酒を飲む事が許されない僧侶にとって茶は不可欠の要素となった。

733年に生れた詩人 陸羽が著した茶経は、製茶、喫茶に必要な道具や器具、方法、逸話を現代に伝える。

782年に茶は竹、木、漆と並んで収益の上がる商売になったので、10%の税が課される。徳宗(在位779年~805年)の治世の間、茶税の歳入は青銅銭4000万枚ほどだった。文宗皇帝(在位826年~840年)の時に宰相を務めた王涯は茶の栽培、販売を政府独占にする。

804年の遣唐使によって渡来した最澄と空海によって、茶は日本にも伝わる。

<チベットへの普及>
ソンツェン・ガンポ(581年~649年)は、中華皇帝 太宗(在位626年~649年)から王族である文成公主を嫁入りさせてもらい、チベットは仏教国に改宗し、獣皮の衣服が絹に換わる。嫁入り道具の中には餅茶があったらしい。

<唐代の茶の産地>
①蒙山
四川省 成都の東。漢の宣帝の甘露時代(紀元前53年~紀元前50年)に茶が植えられたとする。唐代から清代まで、吉祥蕊茶が皇帝への献上品として贈られた。『本草綱目』には茶は一般に体を冷やすが、蒙山の茶は体を温める性質があるとした。

②浮梁
江西省にあり、唐代には年間に騾馬の積荷として700万頭分の茶を生産したらしい。

③顧渚山
太湖西側の宜興に近い。代宗皇帝(762年~779年)が771年に皇帝茶園を作り、785年には三万人が動員されて茶摘みと製茶を行った。

第5章 兎毫盞のなかの雲脚―宋代
10世紀には小氷河期によって中国の平均気温が2度~3度下がったため、冬には江蘇省の太湖が凍結し、顧渚山の茶樹は大量に枯死した。977年に皇帝の茶園は顧渚から福建省の南東沿岸の北苑に移される。

唐代には挽いた茶に一つまみの塩を加えて鉄鍋で煮て、瓢箪で作った杓子で茶碗に注いだ。宋代になると、鉄鍋に代わって、蓋と注ぎ口のついた陶器の水差しを使用し始める。

福建省では闘茶として、茶で細かく長持ちする泡を立てる競争が行われた。表面の泡が潰れたり、茶碗の縁から離れると、雲脚があるとして、一番早く茶に雲脚が認められた競技者が負けとなる。雲脚の判定に便利なように、福建省の窯元で焼かれた黒釉の茶碗が多用された。兎毫(兎の毛のような細かい縦筋)、建盞(福建省で作られた茶碗)等の用語。

12世紀には中国全土の2/3の府州県で茶を栽培するようになる。1125年に宋北部が女真族に占領されると、飲茶の風習が女真族にも広まり、金の尚書省が1206年に提出した覚書には茶に関する一年間の出費が100万貫文(年間予算1500万貫文)と記されている。その後、章宗皇帝は、官位七品以上の役人の家庭にのみ飲茶や販売、授受を許可している。

第6章 極上の飲み物で平和を買う―茶馬交易
中華の歴史を通じて、遊牧民族と戦うための馬を調達する事が防衛戦略の要石になっている。国力が強い時期は遊牧民族から貢物として馬を受け取り、弱い時期は銀や絹で馬を買ったが、やがて茶と交換するようになる。

唐は76万頭ほどの馬群を持ったが、10世紀後半の宋は20万頭程度(敵対する契丹族は180万頭)しかなく、黄河中流域の首都開封に近い牧草地で馬の飼育を試みたものの失敗した。

宋は1055年にチベット人から銀10万両(年間生産量の半分)で馬を購入している。1074年に宋は四川の茶で馬を買う事を目的に茶馬司(茶馬交易を管理する役所)を設置。

1078年にチベットの馬一頭の値段は四川の茶100斤で、宋は1万5000頭の馬を入手した(1085年の四川での茶生産量は2900万斤)。1126年に北部が女真族に占領されると、北部の馬市場が奪われ、茶の価格が急落し、体高約135㎝の馬の値段が茶700斤にまで急騰した。

その後、明朝の朱元璋はチベット人との茶馬交易を防衛戦略の軸として復活させ、年間100万斤の四川茶を占有したらしい。成化帝(在位1464年~1487年)は茶税に変えて、栽培者に銀での支払いを義務付けて、銀で馬を購入したが、後に茶馬交易を復活させている。

政府の力が弱まるとともに政府による茶の独占は困難になり、遊牧民族は民間商人から茶を買えるようになると、中国政府に馬を渡そうとしなくなる。

<湘南茶>
茶がチベットに運ばれるまでに何か月もかかるため、緑色だった固形茶が後発酵によって赤褐色になる。16世紀初頭に湘南省安化県の製茶業者によって合理化され、茶葉を高温多湿の部屋で積み重ね発酵させて乾燥させた。

第7章 禅の味は茶―十二世紀から十五世紀までの日本
明庵栄西(1141年~1215年)が1191年に禅と茶を紹介してから、日本の茶文化が本格的に発達する。京都の明恵上人に贈った茶の種は宇治に播かれ高級茶である本茶として知られるようになる。

禅僧 道元(1200年~1253年)が著した『永平清規』には茶礼という茶を供する際の儀式が書かれている。1223年に中国に渡った加藤四郎左衛門は宋の陶器製造技術を学び、尾張の瀬戸に工房を構え、藤四郎焼という茶入を作った。1267年には南浦紹明が中国の径山寺から台子(茶道具を収納するのに使用される茶棚)を持って来た。

室町時代には闘茶も行われるようになり、茶の飲み分けが競われた。後に闘茶は廃れ、村田珠光(1422年~1502年)や弟子の十四屋宗悟、武野紹鷗(1502年~1555年)によって侘び(不完全の美を認める)や一期一会という精神性が重視されるようになる。

第8章 茶聖 千利休―日本の茶道の完成
千利休(1522年~1591年)は、侘びの茶を完成させた。

織田信長と千利休の最初の「茶の湯会談」が開かれたのは1574年で、自らの権力を見せつけ、戦勝を祝すために使用されるようになる。豊臣秀吉は、織田信長にならって豪奢で華美な茶の湯を政治手段として利用した。

1585年に豊臣秀吉は正親町天皇のために茶会を開催し、正式な茶会に出た経験の無い天皇に秀吉が茶を点てて出した。

茶道は、政治的で豪奢な茶会と観想的な個人的嗜好との間で生まれたとする。

<煎茶>
16世紀後半に日本に齎された煎茶の最初の師匠は売茶翁(1675年~1763年)で、1735年頃に京都で煎茶を供したらしい。熱湯と茶葉を急須に投入するだけ。

第9章 韓信天兵―明代と清代の茶
明代の中国で散茶が飲まれるようになる。加熱法として、摘みたての葉と芽を高温で加熱して酵素の働きを止め、茶の新鮮さを留める。散茶を浸出させて飲む方法は、急須を生んだ。

この頃の茶の生産は北苑の蠟茶の終焉とともに、福建省の北西端の武夷山に移る。ここで烏龍茶が誕生し、茶葉を乾燥させて擦り軽く傷つけて茶色にする半発酵とする。完全に発酵したのは黒茶。

西洋では濃厚な紅茶が好まれ、武夷産の茶の名称に過ぎなかった功夫や小種等が欧州で販売される二種類の最も一般的な紅茶の名前に変わったという説がある。

明代、清代には他に白茶、黄茶が出現し、中央アジア奥地にまで茶が伝わった。

第10章 ダライ・ラマの名前の由来―チベットとモンゴルの磚茶
チベットの海抜1860mの高地は低地の二倍の水分を汗によって発散する。そのため茶は必需品となる。

1578年にアルタン・ハーン(モンゴル族トゥメット族首領)とソナム・ギャツォ(デプン僧院、セラ僧院の座主)が会談し、モンゴル語で海を「ダライ」と呼び、「ギャツォ」はチベット語で海の意味なので、ソナム・ギャツォはダライ・ラマと呼ばれた。

ソナム・ギャツォは、仏教ゲルク派の化身ラマの三回目の生まれ変わりだったので、初代と二代にもダライ・ラマの尊称が与えられた。

モンゴル仏教の最高権威者ウンドゥル・ゲゲーンは1650年頃にチベットで教育を受け、茶の儀式を確立したらしい。この頃には茶はチベット人に不可欠になっていたらしい。

第11章 われわれだって、サモワールを発明したじゃないか
     ―ロシア隊商の茶貿易

1727年のキャフタ条約でロシア=中国の国境が画定すると、二国間の貿易主要市場がバイカル湖南のキャフタに設置された。この頃にはロシアにも茶が輸出されるようになる。

ロシアでは茶を沸かす道具としてサモワールが作られた。19世紀初頭にはサモワールを手に入れる事が家の経済事情を示す証拠になった。

1869年にスエズ運河が開通すると、黒海のオデッサ港経由で手に入る茶の方が、キャフタ経由よりも安くなり、1903年に遼東半島に到達したシベリア横断鉄道開通によってキャフタ交易は廃れていく。

第12章 新たな地を征服する―イスラムの茶の世界
16世紀後半にモンゴルの脅威が弱まると、茶馬交易のための専売制も緩められ、ブハラ人商人によってペルシアの首都イスファハーンに茶が運ばれるようになる。

飲酒が禁じられたイスラム教では、神秘主義のスーフィーが15世紀半ばからコーヒーを引用しはじめ、17世紀から茶が導入されていく。

保守的なワッハーブ派がコーヒーを禁じると、茶の消費増大に弾みがついた。19世紀末のモロッコ国王ムーレイ・ハッサンが煙草を全面禁止すると茶の輸入が急増している(1880年の43万ポンドから1910年の550万ポンド)。

茶の値段が比較的安い事や喉の渇きを癒す性質によって、1960年代までに北アフリカと中東では、アルジェリアとイスラエルを除き、コーヒーより紅茶を多く飲むようになり、世界の茶輸入量の1/4を占めるようになっている。

第13章 医者のお墨付き―ヨーロッパへの茶の到来
欧州で初めて茶に言及した例は、1544年に出版された『航海・旅行記集成』であり?、ヴェネツィアでペルシア商人ハジ・マホメッドが健康に良い飲み物として言及している。

記録されている限りでは、1607年にオランダ東インド会社の船が初めてマカオからジャワまで茶を輸送している。17世紀中頃から欧州のコーヒハウスや薬屋で茶が販売されるようになる。

1730年頃にはロンドンのコーヒー熱が冷めて、イギリス東インド会社の独占によて大量の茶が運ばれたために、コーヒーは押し出される事になる。

19世紀にはヂンドでは木綿製造業の崩壊を茶栽培によって取り返そうとし、茶がインドの主要輸出産業となっていく。

第14章 この有名な植物がたどってきた道―茶と阿片戦争
英国は七年戦争(1756年~1763年)や米国独立戦争(1775年~1783年)によって財政危機に陥り、1779年~1785年まで英国から中国にスペイン銀貨は一枚も輸送されなかった。

茶税の引き上げられ、1772年の64%、1777年の106%、1784年の119%となり、1770年代には申告された500万ポンドに対し、700万ポンドが密輸されたらしい。

1784年に英国首相ウィリアム・ピットが断行した「茶と窓」法では茶税を12.5%に引き下げ、減収を一世帯の窓の数に従って課税する窓税によって埋め合わせた。それによって税関を通る茶の売上が、1784年の500万ポンドから1785年の1300万ポンドに跳ね上がった。ナポレオン戦争によって茶税は1806年に90%になるが、密輸業者は立ち直れなかった。

銀の代りに阿片が中国との交易に使用されるようになる。

19世紀初めの10年間は、中国は年間2600万ドルの対外貿易黒字を享受していたが、1820年代に阿片消費量が急増し、1828年~1836年にかけて3800万ドルの貿易赤字を積み上げた。

第15章 名ティーポット職人の真夜中の騎行―アメリカの茶
米国への茶の輸出は1720年代に始まり、その3/4はオランダからの密輸だった。

18世紀半ばまでイギリス東インド会社は世界一豊かな会社となっていたが、それは茶貿易独占のためで、茶によって利益の90%が生み出された。茶の輸入税が高くなると密輸によって同社の利益も下がり、やがてボストン茶会事件に繋がっていく。

ポール・リヴィアが真夜中の騎行によって、マサチューセッツ民兵に英国軍による武器欧州を警告したのは1775年とされる。

第16章 FTGFOP―十九世紀のインドとセイロン
1833年に東インド会社が極東での通商独占権を失うと、1834年に東インド会社によってインドでの茶栽培が検討されるようになる。1836年にジェームズ・ゴードンが中国で入手した種子からカルカッタ植物園で育てた二万本の茶樹がサディヤに届けられ、二万本がパンジャブ地方に、二千本がマドラスに送り届けられた。

1841年にダージリンでの栽培が始まり、インドから英国への茶交易は非課税だった事もあって茶生産が急速に伸びた。

<セイロンでの茶栽培>
セイロンではアラビア人によって齎されたコーヒーが主要換金植物だったが、1869年からのサビ病菌流行によってコーヒーが全滅し、解毒薬キニーネの原料となるキナの木が栽培されるようになる(1884年に年間生産量1180万ポンド)。
しかし、キニーネは供給過剰によって値崩れが発生し、1867年頃から栽培される茶が主要換金植物となっていく。土着のシンハラ族が茶園での労働を拒んだために、南インドからタミル人労働者が導入され、現在の民族紛争の原因になっている。

第17章 クリッパー船の全盛期―イギリスの茶
イギリス東インド会社による中国貿易独占が1834年に終わるとティー・クリッパー(大型商用帆船)の真価が始まる。

1834年には十月前に茶が広東に届く事は無かったが、1848年には七月末に広東から出帆し、三ヶ月~四か月で英国に到着した。

英国の人口は、1801年の1050万人から1911年の4080万人に急増しているが、その一因としてコレラのような水媒介性の伝染病を根絶する茶のような煮沸する飲料の普及があげられる。同年間に、茶の公式輸入量は年間2370万ポンドから2億9530万ポンドにふえている(値段は5シリング10ペンス = 約70ペンスから8ペンスに低下)。

第18章 地球村からの点描―私たちの時代の茶
世界中の茶文化紹介。

1950年代に書かれた中国近代文学『茶館』では20世紀前半の茶館が描かれている。20世紀前半には茶の生産地として東アフリカも登場し、ケニアが世界最大級の茶輸出国となった。紅茶が東アフリカの伝統文化に組み込まれていく。

日本では明治維新以後、女性でも茶道を習う事が許されるようになり、花嫁修業の一環として重視された。

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