鎌倉幕府の滅亡

読んだ本の感想。

細川重男著。2011年3月1日 第一刷発行。



鎌倉幕府において、征夷大将軍の前では平等だった武士層が、徐々に階層化していき、中央集権制では日本全土を掌握出来なくなり、崩壊していくまでを書く。

<源頼朝の武士団>
血縁や主従関係を根幹とする戦闘組織であり、構成員を武士と呼ぶ。鎌倉幕府の創始者 源頼朝は御家人制によって武士達を統率した。具体的には武士団の家子(部下)を惣領(主人)と同等に御家人として主従関係を結び、御家人以外と差別した。

源頼朝は、1190年~1199年に、以下の二つの政策を行っている。

①西国再点呼
奥州合戦に参加した西国御家人に、改めて御家人となるか、他者の従者になるか選択させた。

②京都大番役
諸国の武士が交替で皇居の警備を行う制度。御家人のみが警護役を課される事とし、御家人を国家的身分にした。

⇒御家人の範囲が確定し、国家的身分として他の身分と峻別された

鎌倉幕府は六波羅探題への人事権や判決権(審理のみを六波羅探題で行う)を持ち、各国の守護には大犯三箇条(謀反人の追捕等)以外の人事権や裁決権を認めなかった。

⇒中央集権制

<階層化へ>
源頼朝の死後、幕府の権力は将軍の外戚から、役職就任者が握るように変化していく。侍所(御家人と統率と軍事を所管)、公文所(行財政を司る)、問注所(訴訟を担当する)は、戦が無くても平時の事務作業にて手柄を立てる事が可能。

1225年には連署(副執権として幕府公式文書に署名)、評定衆(最高議決機関)が設立される。1249年に創設された引付方(引付衆)では訴訟の予備審理が行われる。

役職は50家~60家(全御家人の2.5%~3%程度)ほどで独占されるようになり、大半は鎌倉意外に拠点を持たず、幕府高官である事によって所領を維持出来た。当時は分割相続であるため、遠隔地にある所領は複雑に分割されていき、現地の代官支配に任せるしかなくなっていく。

<北条時宗>
1264年に14歳で連署に就任。その4年後に執権就任。34歳まで鎌倉幕府の独裁者として、御恩沙汰(所領給与)、官途沙汰(官職推薦)を掌握した。
執権として将軍権力の完全代行者となり、将軍を制度的に棚上げした。

〇寄合
北条時宗の時代に置かれた機関で、私的会議として重要政務を議論。本所一円地住人(非御家人)の軍事動員も決定し、主従関係を有さない御家人も支配した。

北条時宗個人を頂点に位置付ける制度を築き、蒙古襲来に対応。1284年に北条時宗が死んだ後は、個人的諮問機関だった寄合が最高意志決定機関になる。

<寄合合議制期の推移>
①寄合合議制成立期
1284年(北条時宗死去)~1293年(平禅門の乱)まで。さらに霜月騒動を境に安達泰盛執政期1年半と、平頼綱執政期7年半に二分される。

弘安徳政:
安達泰盛による幕政改革。北条時宗の時代に対蒙古を理由に幕府統制下に組み込んだ西国の御家人を正式に御家人にしようとする。この時代に持ち込まれる訴訟は既に幕府の処理能力を超えており、御家人を増やす事は地方支配機関への分権しかない?

1285年の霜月騒動によって、安達泰盛は平野頼綱に敗れ、徳政は失敗する。1287年の追加法第六0九条では御家人を源家三代将軍期の御家人の子孫に限定している。

②寄合合議制成長期
1293年(平禅門の乱)~1305年(嘉元の乱)まで。

平禅門の乱:
北条貞時が平頼綱とその一派を滅ぼす。北条貞時は、七人の執奏を設置し、執奏を通じて訴訟を全て自身で裁決しようとするが失敗し、一年で執奏は廃止される。

③寄合合議制完成期
1305年(嘉元の乱)~1333年(鎌倉幕府滅亡)まで。

嘉元の乱:
超訴頭人の北条宗方が、連署の北条時村を殺害し、北条宗宣(引付頭人)が北条宗方討伐の大将になる。北条宗方は滅ぼされた。著者は、北条貞時が抵抗勢力を一掃するために北条宗方を手を組み、反発が激しかったために北条宗方討伐を命じたと考える。

<分権と統制>
六波羅探題(西国統治機関)では、文永年間(1264年~1275年)に、機構整備が進み、引付頭人・評定衆・奉行人等の鎌倉中枢と同様の体制が整えられた。鎮西探題(九州統治機関)も同様。

一方で鎌倉幕府の中央集権も残存しており、文永年間までの六波羅探題は北条重時(建立した寺院から極楽寺流と称す)の子孫による家職化している。職員の人事権も鎌倉幕府中枢による。

御家人間の所領争い増加や、王朝の統治能力低下によって、鎌倉幕府に持ち込まれる訴訟は増加しており、地方分権は必然であったが、当時の武士が地域権力として成長していない矛盾があった。さらに、地方機関への権限移譲は、鎌倉幕府中枢(特権的支配層)の権力低下も意味した。

<鎌倉幕府の崩壊>
鎌倉幕府は東国の地方政権以上の存在ではなかったが、国家の治安を維持する軍事権門として自己を規定したために、朝廷の権力低下や蒙古襲来に対応しなくてはならなかった。

源平合戦は、所領分割の行き詰った武士社会における新秩序構築のための殺し合いであり、勝者が敗者の遺産を総取りして再分割し、殺し合いを停止するために鎌倉幕府を構築した。

充分な見返りが与えられなくなった現実に対しては、全国の武士階級を全て鎌倉幕府に取り込み、訴訟等に迅速対応するするための地方分権(室町幕府的体質)への転換が必要だった。

室町幕府においては地方分権による間接統治の体制を取り、支配権を大幅に認められた守護が自国に住まう武士を組織していく。

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