教科書一冊で解ける東大日本史

読んだ本の感想。

野澤道生著。2017年1月20日初版1刷発行。



以下は、「野澤道生の『日本史ノート』解説」へのリンク。

http://www.geocities.jp/michio_nozawa/

0時間目
小学校の教科書で解くNHKドラマの主人公・吉備真備と遣唐使

古代遣唐使は、律令に基づく能力で選ばれた役人による中央集権制度、天皇の交代に関係無く政務を行う場としての都城の建設(飛鳥時代までは天皇が変われば政務を執り行う宮も変わった)、漢字を使用した歴史書の編纂による支配の正統化、年号等を日本に伝えた。

吉備真備は唐に留学(717年~735年)して儒教、歴史、兵法等を習得し、孝謙天皇(称徳天皇)の皇太子時代の教師だった事もあり信任を得た。筑前国の怡土城建築や764年の藤原仲麻呂の乱鎮圧等の功績があり、766年には右大臣になっている。

1時間目 5世紀から10世紀へ 神様が仏様はじめました
日本の神々への信仰は自然崇拝に由来し、後に渡来した仏教は氏族を祀った古墳を仏教寺院によって代替していく。奈良時代には神宮寺建立や神前での読経等の神仏習合の風潮が見られ、平安時代前期には僧形の神像彫刻が盛んに作られた。神々への信仰が仏教理論によって体系化され、本地垂迹説(神は仏の化身)が生まれた。

日本の寺院の伽藍配置(塔や金堂、講堂等の建設物 = 伽藍の配置)は、古いほど塔が中心にある。仏舎利(釈迦の遺骨)を安置する塔でなく、本尊を祀る金堂が中心的位置にくる。最初の寺院とされる飛鳥寺では、塔の心礎から副葬品(祖先の遺品)が見つかっており、古墳(副葬品を納めた石室を中心とする)と寺院とが習合したと考えられる?

2時間目 8世紀 次男房前、参議となる
奈良時代は個人の能力に基づく官僚制度が導入されたが、実際には有力貴族が政治を独占していた。しかし、貴族の中から儒教的学識を備えた官僚政治家が現れ、氏族制を継承する勢力は後退していった。

壬申の乱の後に中臣氏は朝廷の中枢から一掃されたが、藤原不比等が下級役人から出世し、大伴氏や佐伯氏等と勢力を競いながら、次男房前を参議として717年に朝政に参加させ、その四年後に嫡子武智麻呂を中納言とした。藤原氏は兄弟四人が同時に公卿となり、一定範囲の上級貴族から一人ずつという議政官構成の伝統を破り、藤原氏による複数議政官の端緒となる。

3時間目 12世紀から16世紀へ 遠くの身内より近くの他人
鎌倉時代の守護は軍事警察権を持つだけだったが、室町時代には国人を家臣化し、荘園、公領を侵略して領国支配権を確立した。国人達は一揆を結ぶ等して守護に抵抗し、戦国大名は分国法を制定して紛争裁定を自らに委ねさせて主従関係を強化した。

鎌倉時代の武士による荘園支配は惣領個人による支配でなく、組織体としての支配だった。宗家の首長(惣領)が分家を統括して一門として団結する(惣領制)。しかし、分割相続の繰り返しで惣領制は解体していき、単独相続が一般的になり、血縁よりも地縁的結合が重視されるようになる。

鎌倉時代の守護は軍事指揮官であり、土地の支配権は無かったが、室町時代の守護は将軍からのお墨付きを根拠に地域支配権を確立し、戦国大名の支配へと繋がっていく。

4時間目 14世紀 建武の新政
後醍醐天皇は綸旨(土地所有権の確認)に絶対的な効力を持たせ、政務機関としての記録所(土地関係の訴訟機関、産業や流通統制にも取り組む)等を設置して天皇への権力集中を図った。北畠顕家(神皇正統記)は武士への恩賞給与や家柄を無視した人材登用が天皇の権威を低下させると批判した。

後醍醐天皇は平安時代の終りに国政改革に取り組んだ後三条天皇を参考にしたものと思われ、荘園を整理して公領を増やした。

後醍醐天皇が構想した雑訴決断所による全国支配のための訴訟制度は室町幕府に引き継がれ、足利義満による公家、武家、寺社勢力の抑え込みのモデルになったとする。

5時間目 17世紀 江戸時代初期の朝廷と幕府
徳川幕府は禁中並公家諸法度を制定して朝廷運営の基準を示し、天皇の勅許に優先するとしながらも、天皇の権威を利用するため伝統的儀礼を再興した(1646年の伊勢神宮に毎年派遣され、15世紀後半以来、中絶していた伊勢例幣使再興等)。

後水尾天皇は幕府による統制に反抗して、1627年に幕府に諮らずに十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与え、幕府は勅許状の無効を宣言して、抗議した大徳寺の沢庵らの高僧を東北地方に流罪にしている(紫衣事件)。

後水尾天皇は明正天皇に譲位し、7歳の幼い女帝によって朝廷運営が停滞したため、三代将軍家光は、後水尾の院政を認めた。後水尾は若手公家を対象とする勉強会を催して和歌を添削し、寛永文化の土台を作った。

6時間目 17世紀から19世紀へ
家康公はそんなつもりではなかったぞ

1609年に徳川家康は、大阪の豊臣秀頼に味方する恐れのある西国大名の軍事力を削減するために大船禁止令を出した。当初は外洋航海禁止が目的でなかったが、鎖国形成時期に武家諸法度に加えられた事から、幕末には諸大名が貿易によって富強になる事を防ぐ施策と理解された。

7時間目 19世紀 長州征討と諸藩への影響
1864年の長州征討においては、諸大名、旗本が定めの通り、各自の知行高に応じて人馬や兵器を用意した。一旦は屈服した長州藩は高杉晋作がクーデターによって主導権を握って幕府が示した領地削減に抵抗したため、1865年に再度の征討が決定されたが、長州藩と結んだ薩摩藩が命令を拒否し、他の藩も消極的になった。

8時間目 激動の20世紀前半 石橋湛山の「一切を棄つるの覚悟」
日露戦争後のポーツマス条約において、日本は旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道と付属の利権を手にした。政治家の石橋湛山は、1921年のワシントン会議前に発表した「一切を棄つるの覚悟」にて中国の利権を放棄して、朝鮮半島や台湾の植民地を放棄する事を主張したが、植民地は重要な市場・原材料供給地であり資本投下の場でもあったため実現は出来なかった。

中国で北伐が始まると、対中国政策は権益を実力で守る方針に変わり、山東出兵や張作霖爆殺事件、満州事変へと戦線が拡大した。

石橋湛山は、「大日本主義の幻想」にて、朝鮮、台湾、満州を合わせても1920年では9億円余りの取引しかないが、米国とは輸出入合計14億3800万円、インドとは5億8700万円、英国とは3億3000万円の取引があり、植民地よりも米国の方が重要とした。

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