読む年表 中国の歴史

読んだ本の感想。

岡田英弘著。2012年3月2日 初版発行。



「中国」の本来の意味は首都であり、「史記」では陝西省の渭河流域から河南省の黄河中流を通って山東省に至る細長い地帯となる。この地域が漢人の居住地域で、洛陽盆地の華山を中心とする。

中国の起源は始皇帝が中原(黄河中流域の平原地帯)の都市国家を征服し、生活形態の違う異種族が混血したところから始まる。

<統一以前>
紀元前3000年~紀元前2000年頃、黄河中流域に都市文明(仰韶文明)が生れる。洛陽から開封に至る200㎞は水路が安定し、商業網が構築された。商業網に組み込まれた都市住民が漢族の祖である。

夏:紀元前1900年頃
中華最古の都市国家。禹王が建国し、東南アジアに由来する?龍神を祀る。漢字を華北に齎したのは夏人で、文字通信専用の雅言となっていく。

殷:紀元前16世紀~紀元前15世紀
東北アジア狩猟民に共通する卵生神話を持ち、モンゴル高原から南下した民族が建国したと思われる。

周:紀元前1111年~
始祖は、姜原という女神が巨人の足跡を踏んで妊娠し、棄と名付けられたとする。姜は犬戎(東北チベット遊牧民)の名で、始祖の棄が后稷(穀物神)とされるのは狩猟民が農耕化した事を示すのかもしれない。

春秋・戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)は西戎(秦)と南蛮(楚)中心の戦いであり、鉄器が普及した。紀元前6世紀からは葬儀業者の儒教等が政治に関わるようになり、多くの学派が独自の漢字の読み方を行う百家争鳴の状態だった。

<一期:秦~隋:紀元前221年~589年>
紀元前221年に秦が中華を統一。始皇帝の下で、かつて国と呼ばれた都市は県となり、幾つかの県を統括する36の軍管区が群(常備軍)と呼ばれ、群長官として派遣された太守が治安維持に務めた(郡県制)。この時代の皇帝は商業都市網を支配する総合商社社長のような存在。紀元前213年の焚書令は、諸子百家による独自の読字方を統一し、字体と発音を統一するものだったとする。

その後の漢は武帝の時代に支配地を広げ、シルクロードやインド洋への貿易路を確保。威信確保のために朝貢貿易を行った。光武帝の時代には朝貢貿易の費用がかさみ、漢倭奴国王の金印は、日本列島にある百余国の献見を受ける余力が無いために、関係業務を奴国に一括するためだったとする。

これらの時代に儒教が普及し、紙を使用した意思疎通が一般化。

やがて200年~230年の三国鼎立初期を経て中華人口は500万人と半世紀で1/10まで減少。220年に魏の曹丕が中原の地と定めた河南省、山東省西南部に250万人程度のかんじんが立て籠もり、その外側に匈奴人をはじめとする異民族が移住する。

華北の支配者は北方遊牧民となり、反切(漢字の伝統的発音を記録)や韻書(漢字の読音の母音、尾子音をグループ化)したものから、二重子音が消失し、頭子音rがlに変化した事が確認され、中国人の言語基層にアルタイ系の要素が加わったと思われる。

<二期:隋~元:589年~1176年>
鮮卑系の王朝の後継として隋、唐が生まれ、洛陽盆地と華中の生産力を結ぶ大運河によって勢力を維持した。この時代の中国人は北方から移住した遊牧民の子孫である。

隋:589年~618年
607年から始まる科挙試験によって人工的記号体系である漢文が普及した。612年~616年にかけて開鑿した大運河(浙江省杭州から長江デルタを縦断して、淮河下流域を通り、河南省開封の西で黄河に入る)によって江南の物資が首都に直通するようになる。

唐:618年~907年
突厥と結んで隋を倒す。630年には東突厥を滅ぼし、北アジア遊牧部族の君主である天可汗の称号を贈られる。太宗の時代にチベット(吐蕃)が歴史に登場し、ソンツェンガンポに文政公主を嫁がせている(640年)。

李白(701年~762年)、杜甫(712年~770年)による漢字表現力拡大(トルコ語の影響?)があり、厳格な規則を持つ近体詩が唐詩を完成させ、科挙の試験で詩作が行われるようになる。

突厥:552年~682年
トルコの部族長であるブミンが柔然から独立し、西魏と同盟(トルコ共和国はこの時を建国年とする)。583年に東西に分裂。682年にはクトルグが突厥第二帝国を建国。ソグド文字に改良を加えたアルファベットでトルコ語を記録した。

契丹:916年~1218年
北京(モンゴル、満州、華北の接点に位置する軍事拠点)を中心に建国。936年には後晋建国を助けた見返りとして燕雲十六州を割譲される。
1124年には金から逃れた皇族の耶律大石がサマルカンドに西遼(カラ・キタイ)を建国し東西トルキスタンを支配した。

宋:960年~1276年
趙匡胤が後周を乗っ取って建国し南方諸国を併合していくが、1004年に契丹軍に敗れ、澶淵の盟によって契丹にそれ以降の約120年に渡って貢物を贈るようになる。1126年には金に追われ、1138年から杭州(臨安)を首都とする南宋が成立。

1084年に成立した「資治通鑑」は紀元前403年~959年までを扱う編年体の歴史書だが、漢民族王朝のみを皇帝と呼ぶ。12世紀には朱子学(新儒教)が完成し、道徳の実践を人間の本性とし、君臣の序列も強制的でなく天理と定義した。

金:1115年~1234年
トゥングース系の女真族によって建国。1126年には開封を占領して宋の徽宗、欽宗を捕らえた。女真族は狩猟の他に農耕も行い、契丹よりも都市に馴染み易かったが、銅鉱山が少ない華北のみを占拠したために、通貨供給の補助手段として約束手形を発行し、信用経済の基礎とした。

<三期:元~日清戦争:1176年~1895年>
元朝のフビライは世界帝国のハーンでありながら中華皇帝もかねる初めての君主である。

フビライは、大都(北京)に中書省をおいて所領を支配し、地方には中書省から出向した役人による行中書省にて現地住民を管理。遊牧地帯については上都(カラコルム)に行政センターをおいて支配した。

1351年には白蓮教(ゾロアスター系)による反乱が発生し、1368年には朱元璋が明朝を建国。

〇里甲制
明朝の開祖 洪武帝が定めた地方制度は、十進法によるモンゴル帝国の軍事制度の影響があるとする。1381年に全国で戸口調査を行い、人民を軍戸、民戸に分けて、県の下に里(百戸所)をおき、里の下に甲(十戸)を十おいた。

明朝の軍戸は元朝時代の非漢人の子孫として、初代将校はモンゴル風の名らしい。

1399年の靖難の役で健文帝を殺して即位した永楽帝以降の明朝は1420年に南京から北京に遷都し、モンゴル人やイスラム教徒、キリスト教徒などの非漢人色の強い華北を地盤とし、元朝の後継とも言える。

〇オイラト部族
イェニセイ河の上流域(モンゴル西北端のダルハト盆地)に居住するシベリア森林地帯狩猟民に、フビライの弟 アリク・ブガを支持する反フビライ連合が合流。フビライ家を支持するモンゴル人と抗争を繰り広げる。

明朝は1449年の土木の変でオイラトに敗れて正統帝がオイラトの捕虜になり、その後、1457年に天順帝として即位した正統帝はオイラト軍を防ぐために大同を囲む長城を建築士、成化帝(在位:1464年~1487年)のオルドスに沿った長城、弘治帝(在位:1487年~1505年)や正徳帝(在位:1505年~1521年)、嘉靖帝(在位:1521年~1566年)の時代に嘉峪関 から渤海湾に至る長城が建設された。

それでも遊牧民の侵攻は食い止められず、1571年には明の隆慶帝が大元のアルタン・ハーンと講和し、アルタンを順義王に封じて朝貢貿易を行った。

清(後金):1616年~1912年
1571年にフィリピンにマニラ市が建設されてからメキシコ銀が中国に流れ込み、高麗人参や毛皮の需要が高まった事で女真人の経済力が高まった。
二代目のホンタイジは、山海関方面を迂回してモンゴル高原回りで明を責める事とし、1628年にモンゴル人諸部族を征服。清朝は1644年から中華を支配したが、満州人は八旗(八部族の部族長会議)の議長として支配し、チベット人はチベット仏教の保護者として支配し、モンゴル人は大ハーンとして支配した。

漢人は清朝皇帝の官僚にはなれたが、他部族の行政には関与出来なかった。その後、1851年の太平天国の乱を漢人将軍の曽国藩や李鴻章等が鎮圧した事で漢人の発言権が高まり、日清戦争における敗北で伝統的統治システムの限界が明らかになった。

<現代:1895年~>
日清戦争敗北を機に欧米システムが採用されるようになる。1905年に科挙が廃しされ、旧来の古典的文法に日本製熟語を借用した時文が新聞用語等に使用されるようになる。

魯迅の「狂人日記」は白話(口語)文で書かれ、魯迅が日本語で考えた文章を漢文に写したもので日本文学の主題を漢語で表現出来るようになった?

現代中国では共産党と国民党の二つの対立が残っており、蒋介石は辛亥革命で宣統帝から禅譲を受けた中華民国が正統と主張し、宋・元・明・清の皇帝の秘宝を証拠とした。

対等の中国人国家が存在する事を認めると、正統が失われるという歴史観が、紀元前100年頃に書かれた「史記」以降、現代も継続している事を示す。

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