人類が永遠に続くのでないとしたら

読んだ本の感想。

加藤典洋著。発行 2014年6月25日。



2011年の原子力発電所事故が思想に及ぼした影響について。政府や企業の能力を超えた限界が、無―責任の世界を現出させたとする。過失を犯した者は、代価を支払う = 責任を果たす事で承認を受ける。それが無ければ社会の紐帯はほつれてしまう。

それは産業が無限を追求せずに、有限性からのフィードバックを意識する時代を意味する。

<近代二分論の系譜>
以下の二つの近代二分論が交わらない事について。

①ポストモダン
近代は無限に続くと前提される開放系の近代観。

1950年にデイヴィッド・リースマンが『孤独な群集』を書き、世論調査で「分からない」と答える新種の人々に焦点をあて、人間の社会活動が生産・開発から消費・人間関係に移行したとする。
1958年にジョン・ガルブレイズが書いた『ゆたかな社会』は社会が豊かさを実現し新しい社会が現れたとした。
ダニエル・ベルは、1960年に『イデオロギーの終焉』、1973年に『脱工業社会の到来』を著して知識情報社会の概要を説明した。知識情報社会はダニエル・ブーアスティンが1962年に書いた『幻影の時代―マスコミが製造する事実』にも書かれている。

1970年のジャン・ボードリヤールによる『消費社会の神話と構造』は記号消費としての消費社会論を提示した。

②エコロジー
近代は環境の制約から限界があるとする閉塞系の近代観。

1962年にレイチェル・カーソンの『沈黙の春』がベストセラーになり、1972年にローマ・クラブが『成長の限界』で示した地球の有限性に続く。

⇒ポストモダンは環境問題に深入りせず、エコロジーも知識消費社会に言及しない傾向がある

ポストモダンは、「資本主義の物語(貧困からの解放)」等の大きな物語(共約可能な理論)が終わった事を示すため、「成長の離脱」という別の大きな物語を認識し難い。エコロジーは、人間社会の発展を否定的に捉える傾向があるため、肯定的に捉える面があるポストモダン思想とは合わない。

資源の有限性は外部問題と捉えられ、情報化というシステム自体は無限の可能性を持つと考えられてきた。そのため、システム内部の人々が科学技術進歩等による改善に目を向け、資源問題に本質的に取り組まなかったかもしれない。原子力発電所事故発生時の責任主体喪失は、システム内部の問題と言えるかもしれない。

<軸の時代>
カール・ヤスパースが「軸の時代」と呼んだ紀元前八世紀~紀元前三世紀は、文明社会の基礎となる「貨幣による異質な他者との関係性」が構築された時代。

古代ギリシャやキリスト教、諸子百家や仏教等は、貨幣経済を基軸とする社会で人間に指針を示してきた。その本質は「無限との対峙」であり、交易による遠隔地との交流は、度量衡が個の比較を、法制が慣習を、時間が時を駆逐する仮定でもある。無限の感覚の出現が空虚感を生んだ。

現代は有限性が出現した時代である。

『孤独な群集』では、社会の発展モデルを人口統計的に、①伝統指向(大衆の同調性は伝統に従う)、②内的指向(人口成長期に人々は幼児期にセットされた内的目標に従う)、③他人指向(人口減退期は他人の期待に敏感)に分ける。

人口増大は自然の力によって発生するが、人口抑制は社会内部のフィードバックによる。

<偶発的契機>
無限の希求を否定しないままに、有限に配慮する事が時代の望む態度?

インターネットは非生産的であり、近代の市場経済の常識から考えれば空虚であるが、それは無限性の追求から有限性への同調に時代が変化した結果かもしれない。

ジョルジョ・アガンベンは、偶発性を「存在する事も、存在しない事も出来る力能」と定義し、しない事が出来る力と結び付ける。偶発性を持っている事が、何者かに促され立たされ動かされている事からの自由を意味する。

有限性への意識は、出来ない事に出来る事を対置する息苦しさを感じさせ、してもしなくても良い偶発性への希求を生んだかもしれない。

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