水軍遥かなり

読んだ本の感想。

加藤廣著。2014年2月25日 第一刷発行。



戦国時代末期の九鬼水軍(九鬼守隆:1573年~1632年)を中心にした物語。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、戦が大規模になるに連れて補給を担う海上部隊の役割も大きくなる。やがて日本が鎖国する事によって世界進出の夢は潰える。

◎織田信長
日本国内の暦を統一する思想について。

月を基準にする暦は、新月から満月を経て次の新月までの29日半を一ヶ月とするが、一年が354日となり、三年に一度は閏月を挟む。農作業の実情と合わない場合があり、解決には太陽を基準とした暦作成が望まれるが、潮の満ち干等は月と関係しており、太陽暦普及には強い権威が必要とされた。

P60:
暦は日を数え読むこと(カヨミ)を語源とする。そんな俗説があったように、当時の一般人には、日を超えて、何年だとか、何の月だとかいう「時の推移」を考える感覚は極めて乏しかった。
特に農民層である。農夫は、十年一日のように、暦ではなく、周囲の自然の中の花の咲きようで農作の進行を決めた。広く行動基準としたのはコブシの花である。それが咲いたら田打ちを始め、畠豆(大豆)をまく。言うなれば「自然暦」。

◎豊臣秀吉
1582年の「本能寺の変」の混乱において、九鬼水軍は豊臣と徳川の両陣営から接触を受ける。「小牧・長久手の戦い」にて豊臣方について、伊勢湾に入る徳川軍の軍需品(火薬)を封鎖する。

九州遠征や北条攻めにも物資補給等で活躍する。

文禄・慶長の役では当初は亀甲船の機動力に苦戦するも、後に戦法を工夫し、亀甲船に向かって直進し、転覆させるようになる(慶長の役に九鬼水軍は参加していない)。

P288~P289:
竜骨船とは、角材の船底材構造の船である
(中略)
喫水線が深くなるから、「間切り走り」、つまり向かい風帆走には有効な構造と考えられていた。だが欠点もある。船底が深いため浅瀬や海底の突起に弱い。沿岸航路の多い日本では不向きだった

P333~P335:
小田原北条氏を滅ぼし、その後の関東に徳川氏を転出させる。箱根以遠への追放である。当時の関東の平野部は、毎年の台風の襲来で、二大河川(利根川、荒川)の泥水が、辺り一面を被う一大湿地地帯に過ぎなかった。その治水には、途方もないカネと時間がかかる
(中略)
東海圏と畿内に攻め上がるには「天下の険」と言われる箱根山の自然の要害がある
(中略)
秀吉と茶々との間に鶴松が誕生したこと
(中略)
一歳の鶴松はどうか。その成人の日を自分(秀吉)は見届けることができるか
(中略)
仮想敵・家康に、この間、金と時間を浪費させねばならない

◎徳川家康
関ヶ原の戦いにおいて、大阪から食料や武器を駿府城に運ぶ。しかし、九鬼守隆の父 九鬼嘉隆が西軍に与したため、親子で戦う事になる。

物語世界では、九鬼守隆が徳川家康の命令によって欧風造船に乗り出すが、海外進出を想像出来ない徳川秀忠への代替わりによって世界進出への夢が潰える。

P446:
三河時代の徳川家は、二十余の三河の地侍の集団の代表に過ぎなかった。が、関東に来てからは、家康が新たに造成した土地を付与することで、その立場は「集団代表」から名実共に「主君」に変身したのである。これで一層忠誠心が強固になった

P460~P461:
わが国の船は古くは木材をくり貫いた丸木舟でございました。この時期が西の大陸諸国より長過ぎたように思います
(中略)
木材が豊富過ぎたせいでございましょう。船の大型化に対して、伊勢、木曽あるいは伊豆などでは、探せば、まだいくらも太い樹木が手に入る。これに対して隋・唐あるいは明国は、陶器造りのための燃料として樹木を乱伐した結果、太い木々は枯渇し、細い木を使ってする組み合わせ式としたのでございます
(中略)
彼らの国は如何に少ない材で船を造るかを工夫した。それがジャンコ船(スペイン語、ポルトガル語、英語でジャンク船)でございます

人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ABCDEFG

Author:ABCDEFG
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード