社会は絶えず夢を見ている

読んだ本の感想。

大澤真幸著。2011年5月20日 初版第一刷発行。



以下は、「大澤真幸オフィシャルサイト」へのリンク。

http://osawa-masachi.com/

社会は夢と同じ寓話的形式で真実を露呈させるが、個人の夢が忘れ去られるのと同様に、意味を捉えられる事無く放置される。奇妙な流行や思い掛けない出来事等。

第三者の審級:
社会秩序が成立するための不可欠な条件。超越的な他者を仮定し、判断が超越的な他者に帰属すると認知される事によって一般的な妥当性を帯びる。神等の超越者。

第一講 「日本語で考えること」を考える
<〇〇は>
明治時代後半の近代日本語の文章に、壁頭から「○○は」が連発される文章が導入された。通常、「〇〇は」の前に、〇〇について説明した文章が無ければ意味が通らない。

例:
ある所に、お爺さんとお婆さんいました。ある日、お爺さん山に芝刈りに、お婆さん川へ洗濯へ行きました。

⇒「は」の前に「が」によって、お爺さんとお婆さんについて説明している。事前説明がなく、いきなり「は」でお爺さんとお婆さんの話をするのは奇妙。

明治憲法は、いきなり「大日本帝国憲法は」という文章で始まる。これは伝えられる人間は、「大日本帝国憲法」について知らなくても、伝えている政府は知っている前提がある。

「〇〇は」の連発が明治時代後期から始まるのは、翻訳文からきており、自分達が知らない事を知っている存在が西洋に存在する前提がある。





<漢字かな混じり文>
ジャック・ラカンは、日本語は音読み(漢字)が訓読み(平仮名)を注釈しているとした(『エクリ』の邦訳版序文)。

日本においては外来語は漢字や片仮名として外来性が明示されている。

漢字で音読みされる語は抽象性が高く、抽象性 = 普遍性が外来性とセットになる事に日本語の特徴がある。初期の王権を形成するためには、直接の面識関係がある者達による無自覚な規範だけでなく、明文化された普遍的社会規範が必要になる。

古代日本は律令や仏教、儒教によって普遍的概念を漢字の形式で導入した。それは外来性を残したまま需要され真には内面化されていない。

漫画が日本で発展したのは、絵画的な表意記号と、漫画の吹出のような表音記号を同時並行で処理する読み書き能力の影響?すると、日本語では漢字が意味する抽象概念は、具体的なイメージとして理解されているのかもしれない。

著者の仮説として、外国語を漢字で翻訳し(自国の語彙を使用しない)、漢字二字で一語にするのは、「わからない」という状態を残すためとする。例えば、「society」を翻訳する時は、「よのなか」とは訳さずに「社」と「会」という二字を組み合わせた。それによって「社」とも「会」とも等値されない語が出来上がり、我々は本当には分かっていないという構えを維持出来る。

外来の概念を日常の思考や行動において自在に活用出来るほど理解してはならないという態度。分かってしまう事への抵抗があり、分かっている主体は海外にいる。

<問いの猥褻性>
質問する事には、問われる他者の無能力、発話不能性の可能性が伴う。

全ての問いの目標は、他者の中心にある回答不能性。それは、フロイトがKern unseres Wesens(我々の存在の核)と表現したもので、人間は自身の中核的なものに羞恥心を覚え、それについて語る事が出来ないとする(自分の裸や性的嗜好等)。

問われる事は恥ずかしく、隠微な猥褻性が伴う。

全ての語りが問いに対する応答とすると、問われても答えなくてすむ場合は、問う他者が既に本質を知っていると想定出来る場合である。日本語が漢字を用いる時や、「○○は」を連発する文体を用いる時は、共同体の外部に知っている存在を想定している。

第二講 社会主義を超えて、コミューン主義へ
現代の資本主義は社会主義を取り入れて公的資金投入等の政策で生き延びており、現代の社会主義は競争によって発展可能性を維持する事で生き延びている。

現代の資本主義は私的所有を前提にしているが、相互依存関係の拡大と強化は、①自然環境、②内的自然(遺伝子等)、③文化の面で誰かの排他的所有物とは見做せない存在を拡大させている。

これに④現代的な排除(格差・貧困)を加えると、真に普遍的な共同体の実現可否が問われる事になる。共同体とは、排除された者に対する贈与の範囲であり、現代的な意味では徴税を媒介にした所得再分配が国家の範囲を規定している。

<所得再分配とキリスト教>
所得再分配の傾向を規定する要因に宗教がある。

自助努力を尊ぶプロテスタントのカルヴァン派が強い地域は所得再分配率が低く、カトリックでは再分配率が高い。

その上で著者は、ルター派の強い地域で、特に再分配率が高い事に注目する。

ルターはカルヴァン派の予定説に完全には賛成出来ず、罪ある者が善行を重ねる事による救いの可能性を留保した。

カトリックでは貧者への自発的な施しを最高の善行にする(特異な個人であるキリストを想定し、貧者はキリストを連想させる)。カルヴァン派では予定説を唱えるためにキリストは無化される(普遍的な神を想定し、全知である神が特異的個人であるはずがないと考える)。

両者の中間にあるルター派では、キリストという特異な個人が、直接に神 = 普遍性の具現となる。そのために、特異的な貧者に合わせて社会システムを適応させようとする。それは誰もが貧者になる事を前提にした制度を望む事である。

第三講 リスク社会の(二種類の)恐怖
現代のリスク社会は、第三者の審級が失われたために二十世紀後半から出現したとする。

以下の二つの恐怖。

①第三者の審級が存在する恐怖
神罰や、神が失われる恐怖

②第三者の審級が存在しない恐怖
自らの選択に責任を負う恐怖

リスクは選択・決定との相関でのみ現れる。そのに中庸はあり得ない。例えば、地球温暖化問題に対しては、二酸化炭素排出を激減させるか、現状を維持するしかない(少量の削減では無意味)。

神と伝統から解放された現代人は、神の見えざる手のように、自発的に振舞いながらも集団としては理性的に行動する事になっている。これは第三者の審級の一種であり、不確実で原理的に未知で、空虚である。

社会主義とは、第三者の審級の位置を人間の政府が担う事を目的とした。それがある時は人々は責任が免除されていたが、無くなった時に、自らの困窮の原因は自らにある事になり、外部に助けを求める事が心情的に困難になってしまう。他者に助けを求める事が出来るのは、自分に全面的に責任が無く、最終責任は他の人間が持つと思える時。

<チャレンジャー号>
1986年1月28日のチャレンジャー号の事故において、多くの米国人は、乗組員が死んだのは爆発直後でなく、その後も彼等が三分~五分は生存していた事を無視している。

その死が確実視された時間は、第三者の審級が純粋な意味で不在になる時間であり、意味を見い出す事が出来ない。

著者は、第三者の審級から解放された無意味な死を受容すべきとする?

<2008年の金融危機>
2008年の金融危機時に話題になった金融技術にCDSがある。手数料を支払って、金融商品が崩壊した場合の支払いを頼む構成。

これは神を強引に呼び寄せる手法であり、リスクを無にしながらも、絶対に介入しない事が想定されている。

金融工学では、CDSによって実際に大きな損失が出る事は想定されていない。CDSによって崩壊した金融商品を担保する者は不在である限りで存在しており、実際に損失を保証しなくてならなくなった場合、神ではなく無能な人間に過ぎない。

第四講 今のときに革命について語る
マルクスは、1844年の「ヘーゲル法哲学批判序説」で1830年代のドイツ旧体制は、自己自身を信じ得ると思い込んでいるだけに過ぎないとしている。

マルクスの社会主義はナショナリズムに勝てなかった。1914年の第一次世界大戦勃発前に、共産主義革命を目指す第二インターの人々はインターナショナルな連帯を重視すると事前に約束していたが、実際に戦争が始まると、戦争支持に回って自国政府に与した。

これは現代の資本主義にも通じており、多くの人間は資本主義に執着しつつも、その完全性を信じてはいない。



<感謝の逆説>
感謝の意味は時系列によって異なる。

誰かに感謝の礼をした時に、「そんなもののためではありません」と固辞される事がある。しかし、初めから礼をしなくて良い事にはならない。

感謝の必要はあったが、相手に「お礼はいらない」と言われてから過去が書き換わって、礼の必要が無かった事になる。

同じように革命にも、決定的な事を契機にして命題の真理を変えてしまう効果がある。歴史は勝者によって記述されるため、必然的に革命後の現在を終局として過去を選択する。

革命は第三者の審級を置き換える社会的操作であり、過去の歴史をも書き換える。

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