十五万両の代償

読んだ本の感想。

佐藤雅美著。2010年12月15日第1刷発行。



徳川幕府 十一代将軍家斉を太政大臣に、父 一橋治斉を准大臣にするために、老中首座 水野忠成が島津家(隠居 斉宣の娘 郁姫が近衛家に嫁ぐ支度をする等、朝廷とつながりが深い)と協力。代償に島津家による長崎貿易を許可し、それによって幕府の海外貿易が圧迫され、十五万両以上の損失となった話。

P88:
寛政三年三月に権中納言に昇進していたが、尾張や紀伊のように大納言でもない。水戸と同等のたかが中納言。将軍の父というのに、尾張や紀伊より格下というのはたえがたいことであった

〇家斉の子沢山
養子や嫁に出すには持参金が必要で、嫁がせた娘への仕送りは年三千両と相場が決まっていた。

子沢山のために仕送りが多額になり、また、子を産んだ母親達が大奥にいるために、天保十三年の大奥に対する出費は歳出の5%に当る七万五千三百七十一両であったらしい。

【水野忠成の政策】
田沼時代、江戸幕府の剰余金は三百万両に達したが、田沼失脚の後、天明六年七月の集中豪雨を経て、剰余金は八十万両に減る。

寛政元年から文化十三年までの28年間の歳入は平均して年百二十二万二百九十五両、歳出は平均年百二十二万七千二百七両。

財政難を救うために、老中首座 水野中成は、銀貨に金貨の単位を刻印し、金貨として通用させる事にする。文化十五年六月には真文二分判(金貨二分の代用貨幣)を発行し、文政元年からの四十年で平均年四十四万九千両程度を改鋳によって稼いだとする。

それ以前の松平定信、信明の時代は、26年間で年平均七万両を諸大名から上げ金の名目で出されていたが、水野忠成の時代にはそれが無くなる。

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