丸かじりドン・キホーテ

読んだ本の感想。

中丸明著。1998年6月25日 第1刷発行。



1998年時点で『ドン・キホーテ』は聖書に次ぐベストセラーであり、70ヵ国語、4000の版を重ねているらしい(聖書は1815年~1975年で349ヵ国語、25億冊)。

物語の舞台であるラ・マンチャはアラビア語で「乾いた大地」を意味するマンシャからきており、平均海抜600mの中央イベリアの、九州全土より広い土地である。

『ドン・キホーテ』を読み解く13の鍵
『ドン・キホーテ』の歴史的背景

①亡国
スペインの原型は「西ゴート王国」にある。

紀元前197年にイベリア半島を最初に統一したのは、ローマ帝国である。海洋民族フェニキア人に対抗するために、地中海を制する港を確保し、資源開発と道路建設を行った。

ローマ帝国は四世紀から五世紀にかけて衰亡し、アジア系のアラン族がフン族に追われて侵入し、ポルトガルに居住した。他にバンダル族やスエビ族等のゲルマン民族が侵入し、スペイン南部を示すアンダルシィーアは、バンダル → アンダルスに由来するという説があり、蛮行を意味するバンダリスモという言葉はバンダル族に由来するらしい。

やがて西ゴート族にイベリア半島は征服される。

<ゴート族>
スウェーデン南部(ゴーテ)に居住したゲルマン民族。270年頃にウクライナに移住し、黒海沿岸に南下して東と西のゴートに分かれた。東ゴート族はフン族に追われてギリシアに移動し、西ゴート族はガリア地方に移住。415年にはローマの傭兵としてイベリア半島に侵攻し、イベリア半島を平定すると573年~586年頃にトレドを都とする。トレドは内陸であり、西ゴート族が交易を主体としない事を示す。

1561年にフェリーペ二世が、首都をトレドから70㎞北のマドリードに移すが、ここも内陸である。

西ゴート族が十万人程度であったのに対し、イスパニア・ローマ人は四百万人を超えていた。支配のためにアリウス派のキリスト教徒だった西ゴート族が、十八代目のレカレード王の代に多数派のローマ・カトリックに改宗(589年)。

西ゴート族の歴史は三百年程度で、34人の王がおり、一人の平均在位は10年に満たない。王の八割は暗殺されており、権力闘争の激しさが伺える。

そして、711年にフリアン伯爵が、娘フロリンダ(ラ・カーバ・ルミーア)をロドリーゴ王に凌辱された恨みからモーロ人の総督ムーサを手引きしてスペインに攻め込ませ、スペインはイスラム教徒の支配下となる。

前編第41章:
ラ・カーバ・ルミーアを「キリスト教の悪女」という意味だとしている。

後編第33章:
ロドリーゴ王が、蛙、毒蛇、蜥蜴の多くいる墓穴に生きたまま入れられた話がある。

②レコンキスタ
モーロ軍に追われた人々が、西ゴート貴族ペラーヨ(在位718年~737年)を王に戴いてレコンキスタ(国土回復戦)にかかった。ゲリラ戦は、この時の山岳戦ゲルラに発するものらしい。

その最中の813年に、ガリシア地方コルーニャ県サンティアゴ・デ・コンポステーラにて、聖ヤコブ(サンティアゴ)の遺骨が発見されたという伝説が生まれた。『ドン・キホーテ』後編第58章にて、この伝説に触れている。

戦況が不利になると、聖ヤコブが舞い降りた等の噂が流れ、アルフォンソ二世(在位792年~842年)やオルドーニョ一世(在位850年~866年)が伝説を利用した事が伺える。聖ヤコブはマタモーロス(モーロ人殺し)という綽名を頂戴し、スペインの国家守護神に祀り上げられた。

③羊の大地
スペインのパエリアは、米作とサフランというイスラム文化が土台になっている。モーロ人は元来が遊牧民であるが、土着民に農作業を行わせていた。

同じようにスペインの王侯貴族も、遊牧民のように羊の大軍を率いて南征しており、メリノ種の羊から取れる羊毛は最大の輸出品だった。

<メリノ種>
北アフリカの蛮族ベニ・メリネス族がスペインに持ち込む。イスラム教徒に品種改良され、毛足の細長い、上質な羊毛の取れる種となった。メリンスという日本語はメリノ種に由来する。

<メスタ>
1273年にアルフォンソ十世(在位1252年~1284年)に確立された移動牧羊組合の制度。羊の通行権として、農民達は羊の移動路に石垣を築く事が許されず、1300年頃に約150万頭だった羊頭数は、1526年には約350万頭になった。

1501年にイザベル女王が出した法令は、移動中に羊が草を食んだ土地は、全て永久に牧草地になるとされ、農業発展を阻んだ。

『ドンキホーテ』前編第18章にある羊の大軍との戦いは、セルバンテスの諷刺かもしれない。

④乞食とペストと聖同胞会
メスタ(移動牧羊組合)の制度によって、農民の労働意欲が削がれたとする。さらに、14世紀半ばから半世紀間流行したペストにより、村を捨てる浮浪者が激増。ドミンゴ・デ・ソト師等の托鉢修道会は、施しを受ける権利を主張した。

1476年には聖同胞会が組織され、浮浪者によって乱れた治安を回復する組織が生れた。それまでにあった自警団を中央の統制下に置いて、王室の命令にのみ従うように改組したもの。警察権と裁判権を併せ持った強力な機関となる。

『ドン・キホーテ』の前編16章、23章、45章にて聖同胞会について言及されている。

⑤イスラムの長い影
プロスペル・メリメが1830年にスペインを旅し、『カルメン』の素材とする。オリエンタルなスペインの風情が多くの観光客を生んだとする。

『カルメン』の語り部が旅したコルドバは、756年~1031年まで回教徒の首都であり、六百の回教寺院、40万冊の蔵書がある大学があり、アラビア人の教授がギリシア古典について講義し、それがルネッサンスの母胎になった。

『ドン・キホーテ』後編67章では、アラビア語由来のスペイン語について講義し、alで始まるほとんどの言葉がアラビア語由来とするが、実際には一割(約四万語)がアラビア語起源である。

⑥ユダヤ人
ユダヤ人は、西ゴート族がトレドを首都に定めた頃には商業活動を行っていたらしい。エルサレムに住んだユダヤ人は神殿と密接な関係を持つ祭司や、モーセの掟に忠実なパリサイ派、サドカイ派であるが、商業活動に自由な人々は金銭の流通が自由なエジプト、ギリシア、イベリア半島に住む事を好んだ。

ユダヤ人達はモーロ人の侵攻に手を貸し、アンダルシィーアの文化に同化して大臣になる者さえいたが、1056年にアルモラビド族が侵入すると迫害されてキリスト教徒の領地に逃げ込んだ。

スペイン語を広めるのに貢献があり、アントニオ・ネブリーハが1492年に『カスティーリア文法辞典』を編纂している。しかし、1597年に出版された『ベニスの商人』でユダヤ人が高利貸というイメージが定着。シェイクスピアはセルバンテスと同年の1616年に死んでいる。

⑦大航海時代
レコンキスタが完遂した1492年以降、コロンブスによる大航海時代が始まる。

正確には、イザベル女王の大伯父にあたるエンリケ航海王子(1394年~1460年)のアフリカ西岸探検に始まる1420年から、1620年のメイフラワー号北米到達までを指す。

コロンブスを支援した財務官ルイス・デ・サンタンヘルはユダヤ教からの改宗者である。コロンブスの手紙にはイタリア語のものが皆無で全てがスペイン語。そのため、ユダヤ教からの改宗者が迫害から逃れるためにスペインのヘノバから、イタリアの同名の地ジェノバに移住したという説がある。

新世界植民地化に邁進した人々の中には、騎士道小説の愛読者もあり、エルナン・コルテス(1485年~1547年)は、ドン・キホーテも好んだ『アマディース・デ・ガウラ』の著者オルドニェス・モンタルボの書いた『空地の開拓』に出てくるカリフォリニアという地名をメキシコ北部の地に命名した。

****************

一攫千金に取り憑かれた若者が海外に飛び出した結果、1500年代初頭のスペインの農村は過疎化して荒廃したとする。ペルーのポトシ銀山が発見されるのは1545年だが、セルバンテスの生年はその二年後。

著者は、日本が十六世紀、十七世紀に鎖国しなければスペインのように人材が海外に流出したとする。

⑧異教徒追放令
コロンブスが第一次航海に出帆する三日前の1492年7月31日に、改宗を拒んだユダヤ人達が航海に旅立った。

レコンキスタを完遂したスペイン王家は、改宗を拒んだユダヤ人16万人~17万人を追放して財産を奪っている。

アルハンブラ宮殿でイザベル女王とフェルナンド王が、ユダヤ人国外追放令を金貨三万ドゥカードと引き換えに解除する事を協議したが、改宗者トマス・デ・トルケマーダ(1420年?~1498年)の注進によって追放令が署名された逸話がある。このユダヤ人追放令が解除されたのは1968年の事である。

スペインにおける異端審問制度は、1478年にローマ教皇庁に申請され、開設されたが、設立を建言したのが、宮廷で重職に就いていた改宗ユダヤ人達で、同胞達の中にユダヤ教に戻る者が多くなるのを見て、自分達の社会的地位が危うくなるのを恐れて告発する道を選んだとする。

1492年当時のスペイン総人口は約700万人ほどであり、ユダヤ人は50万人程度だったが、都市人口の30%以上はユダヤ系であり、追放令が発令されて一年後にはセビリア市の歳入は1/3になり、バルセローナの市中銀行が倒産している。

イスラム教徒も当初は寛大な措置が取られたが、1609年には改宗したモーロ人30万人以上が国外追放されている。イスラム教徒追放はバレンシアの農業に深刻な打撃を与えたとする。『ドン・キホーテ』後編第54章では、サンチョ・パンサの友人であるモーロ人リコーテが追放された話がある。

⑨血の純潔
サンチョ・パンサは由緒正しいキリスト教徒である事に拘る。これが「血の純潔」だ。兵籍に入るのも「血の純潔証明書」が必要で、政治的統一を欠いていたスペインでは、カトリックという共通信仰による異端審問所設置が、カスティーリア人、アラゴン人、カタルーニャ人を結び付けた。

それによって、旧教対新教の宗教戦争を回避出来たのかもしれない。

<カトリック両王の結婚>
1469年に行われたイザベル女王(カスティーリア王国)とフェルナンド王(アラゴン王国)の結婚は、入婿という契約結婚であり、フェルナンドが政治的にイザベルに従う事が結婚契約書に明記されていた。

アラゴン王国の領土はカスティーリアの1/4、人口はカスティーリアの六百万人の1/6であった。二人の結婚資金はユダヤ人が用立てて、フェルナンド王は母方からユダヤ人の血を引いていた。

最初の異端審問所長官トマス・デ・トルケマーダは改宗ユダヤ人であり、スペインのユダヤ教迫害はパラドキシカルでもある。

⑩ハプスブルク家のスペイン
イザベル女王は1504年に没するが、男子に恵まれなかったため、王位を継いだのは次女のフワナであり、ハプスブルク家のフェリーペ一世と結婚している。

フワナは精神に異常をきたし、トルデシーリャスの修道院に幽閉され、王権は長男のカール(カルロス)が代行した。カールは17歳の1517年にスペインに来て、新教徒との戦資金や、神聖ローマ皇帝位を継ぐための選挙資金をスペインから獲得する事を宣言した。

アウグスブルクのフッガー家は、資金を融通する代わりに、スペインの銀鉱採掘権や、貨幣鋳造権、免罪符の販売権まで手にしている。

フランスのフランソワ一世もローマ皇帝位には執心していたため、カルロス五世(スペイン王カルロス一世)としばしば干戈を交わす事になる。

40年間に及ぶ治世中、スペイン王としてのカールの年収は通常100万ドゥカードであり、1542年以降は150万ドゥカードに増額されたが、治世中にスペインを担保にして2886万ドゥカードを借りており、返済総額は3800万ドゥカードに上っている。

サンチョ・パンサが『ドン・キホーテ』に仕える前の月収は、「飯付きで月に二ドゥカード」であった事から、その巨額が分かる。1554年版が最古として残る『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』は腹ペコの少年が主人公であり、当時のスペインが良く見えるとする。

1557年のトリエント公会議でルター派を異端として断罪したカルロス五世の後を1557年に継いだフェリーペ二世は反宗教改革の中心とならざるを得ず、1503年~1660年に欧州の銀保有量の約三倍にあたる1600kgの銀、18万5000kgの金(欧州の金供給量の1/5)がセビリアに運ばれたが、宗教戦争の費用のために国外に流出していた。

『ドン・キホーテ』後編60章から61章に登場するローケ・ギナールは実在の盗賊だが、街道筋を支配して金銀の密輸で生計を立てていた。

ユダヤ人とモーロ人を欠いたスペインではメリノ羊毛を安く売って、製品化されたものを高い値段で売り付けられるようになり、1629年には新大陸の金銀の75%は、ロンドン、ルーアン、アントワープ、アムステルダムに集中したと言われる。

異端思想の侵入が恐れられ、1558年には外国の書物輸入が禁じられ、1559年には禁書目録が増え、同年にスペイン人の海外留学が禁じられた。『ドン・キホーテ』前編第6章で村の住職達がドン・キホーテの蔵書を燃やす話がある。

⑪レパントの海戦
『ドン・キホーテ』後編第1章にて、ドン・キホーテの明晰を判断するために、村の住職達がレパントの海戦(1571年)を仄めかす個所がある。

この戦いには、24歳のセルバンテスも参戦し、左腕を切断する重傷を負っている。

1580年にはポルトガルも併合し、1588年には英国に敗れるものの、スペインは世界一の強国だった。しかし、フェリーペ三世(在位1598年~1621年)の治世では、不況とインフレが頻発し、乞食や盗賊が横行し、1614年には改宗したモーロ人30万人以上が追放されている。

こうした世相を背景に、『ドン・キホーテ』前編が1605年、後編が1615年に出版された。

⑫郷士
ドン・キホーテは郷士であり、貴族と平民の間に位置した。騎士は馬に乗れる身分であるが、郷士はそれ以下。軍役奉仕する義務があった。家系を定めるのは父親の血筋であり認知されれれば娼婦の子でも郷士を名乗れた。

『ドン・キホーテ』前編49章では、ドン・キホーテがブルゴーニュで冒険したグティエレ・キハーダの男子直系と言っている事から、ドン・キホーテの先祖は遍歴の騎士だったようである。

レコンキスタが最終段階に入った十五世紀には、職業軍人が台頭し、軍隊も組織化され、郷士の存在理由が薄れ、自尊心を堅持しながらも乞食化する人々もいたらしい。

元来、ドンとは王侯貴族にのみ冠せられたが、レコンキスタの時代にドンの称号が増産され、1541年の『年代記』の数字では、741万5000人程度の総人口の内、10万8000人のドンがいた事になっている。

『ドン・キホーテ』後編第45章で、サンチョ・パンサがドンと呼ばれて眼を剝く場面や、正式な表題である『才智あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』という郷士とドンを並列する事は、セルバンテスの皮肉かもしれない。

⑬ドン・キホーテの食卓
ドン・キホーテが冒頭で食した食人は以下の通り。

(1)羊肉よりも牛肉を余分に使った煮込み
原文ではオージャ(深鍋)。ひよこ豆、腸詰、豚の脂身や骨、じゃが芋、野菜などを煮込んだ料理。当時、羊よりも牛の方が安かった。

(2)昼の残り肉に玉葱を刻み込んだ辛し和え
辛し和えはサルピコンと呼ばれ、塩(サル)とピコン(挽肉)に玉葱を加えた料理。

(3)塩豚の卵和え
原文では「悲嘆(ケプラント)と破壊(ドウエロ)」。ベーコン・エッグであるらしい。『ドン・キホーテ』前編18章で、ドン・キホーテに羊を殺された羊飼い達は、羊を「砕かれ(ケプラント)」、「損失(ケプラント)」し、「悲嘆(ドウエロ)」にくれ「服喪(ドウエロ)」の内、肉を塩漬けにして、卵を和えて食べたとする。

(4)扁豆
レンズ豆の事。

(5)小鳩の一皿
聖霊が小鳩に宿ると考える。



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