海から見た世界史

読んだ本の感想。

シリル・P・クタンセ著。2016年2月25日 第1刷。



各ページに掲載されている地図が良いと思う。

陸上の帝国と対置するべき海上帝国について。

以下の特色。

①交易
海洋上の交易を市は死する。ビザンティン帝国とヴェネツィア、英国とフランス(ナポレオン)のように、武力に対して経済力や貿易封鎖等で対抗出来る。

②戦略
ギリシア諸国家がペルシアに対抗し、英国がドイツを日干しにしたように、敵軍の補給を断つ。

③知的支配
理念を再構築する力。旅は確信を白紙に戻し、研究を促進する。

産業革命は海上帝国を世界帝国に変えた。強国の基盤は、大規模な軍事手段とともに、航路や中継地点を確保する事である。

海洋国家の時代―古代~1492年
序文
海洋国家は通商上の勢力を基盤とし、交易を発展させる事で命令権を得る。エーゲ文明時代のクレタ人は、地中海の交易、中継地点を確保し、対外取引所を運営する事で支配を確定した。

それらを維持するには、強大な海軍が必要である。

クレタ島、帝国の母胎
商売と権力が合わさった海上戦略はクレタ島から始まる。

クレタ島は東地中海の中央にある位置を利用して交易の仲介地となった。黒海の金属、小麦、エジプトのアラバスターや駝鳥の卵、クシュ王国(スーダン)の金、象牙等。

第1宮殿時代(紀元前2100年~紀元前1650年頃):
エジプトや中近東と交易。

第2宮殿時代(紀元前1650年~紀元前1450年頃):
東地中海全域と大陸ギリシア南部と交易。

第3宮殿時代(紀元前1450年~紀元前1200年頃):
競合するミュケナイ人の勢力が増し、キプロス島の銅取引に専念。

クレタ島はクノッソスの下に、サントリーニ島やキティラ島等を統一していき、オイルやワイン、陶器の生産技術が各地に分散した。ミュケナイは一時クノッソスの跡を継いで商業網を奪ったが、紀元前1200年頃に海の民によって滅ぼされる。

フェニキアからカルタゴへ
レバノン海岸のビブロスが、陸上取引と海上取引の接点となる港湾都市の原型である。後背地に杉やヒノキが豊富にあるため、エジプトの特権的パートナーになる。

紀元前1200年頃の港湾都市ティルスは、アクキガイから作る染料や家庭用品、宝石類等の職人による製品を売り出し、アラビア南部(白檀、宝石)、キプロス島(銅)、アナトリア(錫)、エジプト(亜麻)等と交易した。シバ王国の香は、エジプトの神殿で行う儀式に不可欠だったらしい。

やがて植民都市が発展し、紀元前10世紀頃のキティオン(マルタ島)を皮切りに、クレタ島、エウボイア島等が植民化され、アレクサンドロス大王による東地中海の混乱を契機に西地中海にも進出していく。

〇ヒミルコン
紀元前550年頃、ガリアの金、錫、琥珀を占有するためにウェサン島に派遣された。

〇ハンノ
紀元前500年頃、ギニア湾に金の通商路を探す。

フェニキア人は、紀元前5世紀頃のヒメラの戦いによってギリシア人に敗れ、シチリア島を失う。シチリア島の小麦を補うために北アフリカの開拓を進め、ワイン、オリーブオイル、イチジク、アーモンドを生産出来るようになるが、やがてローマに滅ぼされる。

ギリシアの冒険譚
ギリシアは複数の都市国家に分割されており、後背地が無い事から真の海上帝国になれなかった。

〇ミレトス
トルコ西部の都市。紀元前9世紀頃から黒海を経由して、カフカス(鉄)、スキティア(小麦、干魚)と交易した。トラキアの植民化やコリントス地峡経由で紀元前6世紀にはアドリア海(錫、銀、琥珀の陸上輸送ルートの出口)に到達。

その他のギリシア都市も知りリアの小麦や、西地中海の錫等を開拓。

〇三段櫂船
紀元前700年頃にコリントスのアメイクレスが考案。大陸帝国(ペルシア)との戦いで優位となる。海上を支配されたペルシア帝国は紀元前5世紀の戦いでは、ダーダネルス海峡を経由した補給を実施せざる得ず、ギリシアで大軍を長期間活動させる事が困難だった。

〇プトレマイオス朝エジプト
紀元前331年に建設されたアレクサンドリアを起点に、交易を陸路(セレコウス朝シリア)に依存しないよう紅海を開拓。プトレマイオス2世は古代の停泊地ミュオス・ホルモス、ソテリアス、リメインを整備し、プトレマイオス3世はアドゥリスを築いた。これらがインド交易の主要港となる。
しかし、プトレマイオス朝は地中海沿岸を支配するか、パレスチナを支配するかで迷いがあったとする。

海上帝国たるべきローマ
ローマの壺アンフォラは、規格サイズ(1.2mの高さでワインが25l入る)で、四つか五つ積み上げる事が可能。この壺を使用してローマは商業上の主導権を握った。

ローマの発展は通商上のものから政治上のものへ移行し、制海権を確保したうえで敵国海軍の船舶数を制限していった。紀元前67年に制定されたガビニア法では海賊対峙のために地中海全沿岸を統括する最高司令官が任期3年で機能する事になる。

紅海の開拓も進み、バブ・エル・マンデブ海峡にあるオケリスの港は年間約100隻の船が出発し、香辛料や金貨等を運んだという(エリュトゥラー海案内記)。

ビザンティン帝国、ローマへのノスタルジー
ビザンティン帝国はローマ帝国復活という目標に縛られてしまっため、海上帝国と陸上帝国のどちらにもなれないよう力が分散してしまったとする。

ビザンティン帝国は、以下の条件から後背地に恵まれた海上帝国に適していた。

①コンスタンティノープル
黒海とエーゲ海をつなぐダーダネルス海峡を支配する位置にある都。
②穀倉庫
エジプトを食糧供給基地と出来る

しかし、476年に西ローマ帝国が滅亡した事で西ローマ帝国の領土を奪い返す事が戦略的目標になってしまい、東地中海沿岸を戦略目標として集中出来なくなってしまった。

ユスティニアヌス皇帝(在位527年~565年)は北アフリカやイタリアを奪還したが、紅海の支配権を確保してペルシアとの対決に集中すべきだったかもしれない。

コンスタンティノープルは717年~718年にアラブ人に攻囲されるが、敵の補給網を寸断する事で勝利した。しかし、エーゲ海支配に不可欠なクレタ島が826年に奪われ、奪還するのが961年で、黒海やエーゲ海に注力すべき時にシチリアに注力していた。

セルジューク族が勢力を拡大した11世紀~13世紀頃も、マヌエル・コムネノス皇帝はイタリア再征服のために小アジアやバルカンで地歩を固めていた。

ヴァイキングの冒険
ヴァイキング船は当時の船の二倍の速度が可能であり、川を遡る事も出来た。さらに太陽の石(方解石の結晶)により、太陽光の偏光を解消し、方角を推測していたらしい。

810年頃から始まったヴァイキングの襲撃はオランダ北部のフリースラント地方で行われ、876年には英国にデーンロウ、911年にはノルマンディ地方を支配した。

〇ノルウェー・ヴァイキング
南のデンマーク・ヴァイキングを避けて700年頃にシェトランド諸島、800年頃にオークニー諸島、フェロー諸島、860年にはアイスランドを征服。982年にはグリーンランドを開拓した。それらの植民地は1200年以降の小氷河期で放棄される事になる。

〇スウェーデン・ヴァイキング
東へ向かい、バルト海のスタラヤ・ラドガを750年頃に毛皮交易の要所とし、ヴォルガ川を進んでイスラム等と交易した。それらは11世紀頃にアッバース朝の銀山が枯渇した事で衰退するようになる。

ジェノヴァとヴェネツィア、新大陸発見の準備地
〇ヴェネツィア
ダーダネルス海峡入口にあるテネドス島を占有していたために、南西の風を待って安全に黒海まで航海出来た。
10世紀頃に、トルキスタンの部族ペチュネグ人がロシアの隊がを支配し、北欧からビザンティン帝国への通商路を遮断した事を契機に、アルプス山脈を越える代替路を築いて南北通商の仲介役となる。

やがて十字軍を利用して隊商路の終着点を十字軍国家の港町におき、東西の集積地としてコンスタンティノープルに取って代わる。

1280年~1585年には地中海東岸の塩田を独占し、財源とした。

<海洋州>
コンスタンティノープルに至る航路にあるイオニア諸島やクレタ島等(真珠の首飾り)。通商路上の中継地点を確保する上に、造船所を基地として均質で専門化した船団を常時使用出来るようにした。

<本土州>
15世紀初頭にパドヴァ、トレヴィーゾ、ヴェローナを支配下に置き、内陸地域からの人材確保を考える。

〇ジェノヴァ
ヴェネツィアとは反対に存在権のためにコルシカ島やサルデーニャ島のムーア人と戦わなくてはならなかった。11世紀にはサルデーニャ島北部等がジェノヴァ帰属になる。
さらに1284年にはピサからコルシカ島を奪取し、十字軍遠征を通じて東地中海のコンスタンティノープルにも影響力を及ぼすようになる。
そして、黒海と小アジアの通商範囲がオスマントルコの圧迫で縮小していくに連れて、北アフリカのアラブ・イスラムとの交易を盛んにしていく。それにより中世最後の二百年間を主要な経済勢力として過ごした(スペイン帝国の銀行家として西インド諸島との取引を行う)。

イスラムの地、逃した機会
不安定な政治体制により海上進出を継続出来ず、統治すべき土地が広大な事から海上に注力し難かった。

サファヴィー朝、モンゴル帝国、オスマン帝国は陸上領土を守るのに忙しく海上進出の余裕が無い。その意味でオスマン帝国は海上に注力出来ないまま滅びたビザンティン帝国の後継者と言える。

〇東アフリカ
モンスーンと貿易風で、冬に南に進み、夏に北東に戻る。

8世紀以降、ペルシア湾岸の王達が象牙、豹皮等を所望するために、オマーンがパテ島、モガディシュに商館を建てた。さらに、アッバース朝のスンニ派の迫害を受けたシーア派がモガディシュやブラハに住み着く等して、イスラム人とバンツー族の混合でスワヒリ語が生れた。

ザンベジ川河口南部からの金とインドとの交易網は15世紀末に全盛期を迎え、そこにポルトガル人が流入する。

<オマーン>
17世紀末にオランダ人の支援を受け手、ポルトガル人を沿岸から放逐し、1698年にモンバサ、1699年にザンジバル、1710年にキルワを落とした。キルワは1785年、ザンジバルは1800年、モンバサは1837年に再征服し、象牙、奴隷、丁子等の交易で富を蓄えるが、1880年代のアフリカ分割でドイツと英国に大陸領土を奪われ、奴隷制廃止でザンジバルは衰退したとする。

インド、断固として大陸的
長い間、インド交易の基盤はアフガニスタン北部のラピズラリだった。

〇マウリヤ朝
紀元前4世紀頃からチャンドラグプタ王が航路専門の部門を持ち、アショカ王は海路でギリシアやエジプト等に外交使節を送った。交易も盛んで、香辛料や宝石等で、プリニウスはローマ帝国がインド商品を買うために毎年100万セステルスを浪費すると嘆いた。紀元前187年にマウリヤ朝が失墜すると、チョーラ朝が東洋との交易を主導するようになる。

〇チョーラ朝
6世紀前半からマレー諸島やインドシナと海上取引を行う。9世紀~10世紀のアーティティヤ1世とパラーンタカ1世の時代に発展。セイロンやモルディブも征服した。
1070年以降、セイロンから放逐されると衰退し、インド亜大陸の海軍全体も衰えた。ヒンドゥー教は航海を禁じ、黒い海を渡る事は不純になる危険に向かう事とした。

その後、インドはポルトガル人等の侵略を受けるが、中央アジア出身の君主達は伝統的な侵略路である北西部に気を取られ、マラータ王国は1674年の建国当初から大砲を備えた海軍を有したが遅すぎた。

おりあしき中国
頻繁な河川航行により海上交通も盛んだった。

960年~1279年の宋は、1127年に南宋となった後も人口の60%を維持し、外洋進出を行った。1132年には常設海軍を創設し、1161年の唐島の戦いと采石の戦いでは金の海軍に勝利している。

1271年~1368年まで中国を支配した元も海上交通路をに進出するが、明の時代になり新儒教の影響等から、1436年には皇帝が自らの船団を焼却し、1480年には軍事担当大臣 劉大夏が大遠征の資料を破棄している。

日本、襲撃とカミカゼのあいだ
日本には長い間、単純な平底船しかなかったが、1274年、1281年の元寇の失敗頃から、14世紀~16世紀に渡って倭寇として大陸を略奪していく。
朝鮮側の記録では、1376年~1385年に174回以上の襲撃があったとする。それらは1588年に豊臣秀吉が海賊行為を禁じるまで続く。

その後も外洋用のガレオン船を作る等し、1637年にはフィリピン侵攻計画支援をオランダ人に頼むが、翌年の島原の乱を契機に鎖国に向かったとする。

植民地の時代―新大陸発見~1945年
序文
新大陸発見の発端は貨幣とする金への渇望である。

船尾舵、平張り、羅針盤、天文学、ラテン帆、海図等の進歩が航海を後押しした。エルサレムを上にせず、北極星と羅針盤が示す方角を優先するポルトラーノ海図は、1290年代のピサ図が最古で、14世紀から本格的な海図が登場した。

ポルトガルの夢
ポルトガルの海上帝国はアヴィス王朝と一体出る。アヴィス王朝の創始者ジョアン1世は、1415年にイスラムの要衝セウタ征服に出発するとともに、三男のエンリケ王子にアフリカ大陸沿岸開拓用資金を与えた。

スペインのように解放すべき領土が無く、イスラム教徒の知識を活用した。さらに、ポルトガルはジェノヴァ人が東地中海と北海を結ぶ際の中継地点となる。

夢想にふけるスペイン
スペイン帝国は、1519年に神聖ローマ皇帝となるカール5世の広大な欧州の領土によって、海上帝国化に専念出来なかった。

カスティーリャの政策:
フランスと協調してイベリア半島全体と地中海南部の領土を確保する(1509年のアルジェリア征服)。

アラゴン王国:
地中海西部の支配のためにフランスと対立。

16世紀のスペインは世界帝国を目指し、1580年にはポルトガルと合同し、宗教戦争に介入した。これにより新大陸を統括する取引所や大西洋の輸送網を保護する海軍育成に注力出来ず、オランダや英国に敗れる事になる。

オランダ連合州、あるいは資本製造所
オランダでは、加工場に原料を供給する周辺経済を基盤とする植民地経済が築かれた。

オランダは、1570年のシュテッティン和約でデンマーク海峡の自由な航行を認められ、17世紀初頭にはエーアソン海峡を通る輸送の2/3を占めた。さらに1585年にスペインが中継貿易港であるアントウェルペンを略奪した事で、アムステルダムが香辛料貿易を独占するようになる。

1602年の東インド会社(バルト海通商で第一位)、1621年の西インド会社(オランダ領ギアナの砂糖栽培)は軍隊も保有し、構造的優位を持った。スペインが帝国内の地点を結んだのに対し、オランダは世界的に通商網を拡張子、収益性のある分野で独占権を獲得する。例えば、中国の絹製品と日本の銀を交換し、その銀で中国の磁器や香辛料を手に入れる。

その原型は15世紀のバルト海で、提供する製品の幅を広げるために、塩や鰊等の基本的製品の他に、香辛料やライデンの織物などの贅沢品も取引するようになった事に遡る。

原材料の輸出入だけでなく、砂糖精製や煙草工場、織物生産等を行う方は、英国等が貿易障壁を用いる事で優位を失った。

1720年に2/3を握っていたバルト海沿岸の用材は1760年には1/5になり、1710年代に独占状態だったライン地方のワインは1750年代には60%以上が失われた。

デンマーク同盟、あるいは氷の戴冠
クリスティアン4世は、1596年に22隻だった船団を1610年に60隻に増やし、1616年にデンマーク東インド会社を設立した。密貿易専門となり、英国やフランスの保護貿易政策によって利益を出した。1730年代~1740年代に需要が増えた茶は最も大規模な商品だった。

デンマーク西インド会社は、1671年にセントトーマス島、1718年にセントジョン島、1733年にセントクロイ島を入手し(ヴァージン諸島)、砂糖黍の農園とした。

北部にも拡張子、1776年に王立グリーンランド貿易会社は鯨油の取引独占権を獲得している。

この海外帝国は、1845年にインドの植民地、1850年にアフリカの植民地が英国に譲渡され、ヴァージン諸島も1917年に米国に譲られる等して衰退していく。

1814年にはノルウェーをスウェーデンに割譲し、アイスランドは独立、第二次世界大戦後にはフェロー諸島が自治領となった。

イギリス、海の女帝
百年戦争でカレーをギーズ公に奪還され、欧州の領土を諦めた事が英国繁栄の基盤となる。ハノーヴァー朝が生れたハノーファーを1866年の普墺戦争でプロイセンンに併合されるにまかせた。

英国が植民地獲得に乗り出すのは遅く、香辛料の三角貿易を基礎とした方法で植民地を獲得していく。その後、フランスをターゲットにして、スペイン継承戦争(ジブラルタル、メノルカ島、セントクリストファー島等の戦略拠点を1713年に奪う)や7年戦争(フランスの商船300隻を襲いフランス海軍から人員を奪う)等でフランスの海洋支配力を減じていく。

英国とフランスの対立では、産業革命を迎えた英国が優位にあり、植民地を獲得して砂糖や煙草を転売するフランスよりも、大規模生産した製品を持つ英国の方が経済的に栄えた。

重用なのは産業革命に不可欠な原料と、販売市場を確保する事である。

とぎれとぎれのフランス
フランスはハプスブルク家と境界を接する脅威から海の重要性を意識し難かった。

特に7年戦争(1756年~1763年)で海外領土の多くを失った痛手が大きい。それは1815年のパリ条約で確定する。

ドイツ帝国、深海獲得をめざして
細分化されていたドイツは統一後に海に進出するが、方法が古典的だった。

海外領土拡大を植民地会社の所有地を保護する形で実現し、太平洋の島々(リン、熱帯材)やアフリカのトーゴ(カカオ、綿)、カメルーン(ゴム、カカオ、象牙)、タンザニア(コーヒー、胡麻、銅)等を手に入れいた。

さらにラテン・アメリカにも投資し、1818年の入植以降、1880年にはドイツ人共同体の人数はブラジルで20万人程度となった。エミール・ケルナー将軍は1891年のチリ内戦で議会派軍を要請し、1900年~1910年には最高指揮官になっている。

これらの海外植民地は第一次世界大戦で全て失われる。

日本、陸と海のあいだ
明治維新後の日本は、1904年に米国が日本人労働者と新しい労働契約を結ぶ事を禁止し、移住地を閉鎖された事から、新たな領土を探す事が不可欠になった。

1910年の朝鮮保護下や南満州への進出はその延長にある。しかし、1920年頃のシベリアへの進出は失敗し、1939年のノモンハン事件や独ソ不可侵条約によって、太平洋に向かう事になる。

仮にドイツと協調して満州の石炭と鉱物を確保する戦略を採用出来ればソヴィエト連邦を打倒していたかもしれない。

ロシア、遅すぎた登場
ロシアの海の歴史はイヴァーン雷帝による白海への進出に始まる。

ピョートル大帝の時代にはバルト海やカスピ海に進出し、エカチェリーナ2世は1792年に黒海西岸を確保して不凍港を獲得している。

その後、1958年にソヴィエト海軍が世界二位の規模となり、1985年まで保つが、ソヴィエト連邦崩壊により、米国の海上支配に服している。

世界的な主役の時代―第2次世界大戦~現代
超大国アメリカ
アメリカの海上進出は19世紀末に本格化し、1914年に完成したパナマ運河が戦略の根幹になっている。

現在の国際体制には米国によって海上通行の自由と安全が確保されている事が不可欠であるが、衛生網や電波標識、沿岸信号所、海軍航空隊等を統括、維持する負担は大きく、米国は地中海と大西洋を他国に任せて、中国が台頭するインド洋と太平洋に集中する意見がある。

地域のを地域的に管理する代替部隊を求める動きは後期ローマ帝国とも類似しており、米国も同じ道を辿っているのかもしれない。

中国、未来の海の女王から?
中国には大陸派(海を防衛線と考える)と海派(海を扉と考える)の二つの意見がある?

中国海軍は、1992年2月25日の領海と隣接区域に関する2条により、中国海上領土を主張してベトナムからガベン礁を奪った。さらに1995年にはフィリピン海域内のミスチーム礁を占拠。海洋進出を加速させている。

中国海軍は世界第三位の規模であるが、技術的に外国依存度が高く、空母や航空機の確保が課題となっている。

インド、インド洋征服へ
インドの防衛努力の大半は中国やパキスタンへの対抗上、陸地に集中していたが、海上への進出も見られる。

2009年には国産空母である新ヴィクラントが起工され、1986年~2000年にかけてはロシアから潜水艦10隻を購入し、2009年に国産原子力潜水艦アリハントを進水させている。

経済発展によってインドでは欧州との通商路である紅海や、石油を輸送するペルシア湾の確保が不可欠になっており、インド洋を占有する目論見がある。

オマーンやモザンビーク、カタールとの防衛協定やマラッカ海峡の海軍司令部、紅海における海賊対策作戦への参加には自国の通商路を守る意志を感じる。

まとめ
海上を支配する事には、通商路の支配という意味がある。

交易のグローバル化は海に依存する原因でもあり、僅かな供給網の遮断が生産全体の麻痺の原因ともなり得る。さらに、現代では漁業以外の資源が注目されており、海底に含まれるレアアースの量は地表の1億200万tに対して900億tにもなるとする。

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