悠久のインド

読んだ本の感想。

山崎利男著。1985年1月10日 第1刷発行。



第一章 インドの統一性と多様性
インド亜大陸はユーラシア大陸南方の半島である。1600年頃には、一億5000万人の人口があったと推定される。北はヒマラヤ山脈、三方はベンガル湾、インド洋、アラビア海に囲まれ、隣接地域からは明瞭に区切られている。

インド洋の交易は紀元前後から活発になり、東南アジアや地中海諸国との交流を行い、七世紀頃には陸上交通よりも盛んになる。

インド最初の統一王国は紀元前317年に興ったマウリヤ王国であるが、インド最南端までを支配出来ず、その後もインド全域を支配する王朝は現れず、諸王国の分立割拠の状態が常態だった。

<降水量>
雨季は6月初旬のモンスーン到来から始まり、四か月続く。この間に年間降水量の80%の雨が降る。また、12月から2月にかけてパンジャーブ以西に麦作に好適な降雨がある。そのため、大麦や小麦は北部のパンジャーブからガンジス川中流域が主な産地で、米は南部のガンジス川流域や東西海岸地帯、東南部等が主な生産地となる。デカン高原ではキビ類、モロコシ類が生産される。

<言語>
インドの七割の人々が使用するのはインド・アーリヤ語であり、紀元前1500年頃に西北から移住したアーリヤ人の言語から発達し、北インドやマハーラーシュトラに広がっている。

ドラヴィダ語は、アーリヤ人より前にインドに移住した民族の言語で、主に南インドで使用される。文章語の出現がアーリヤ語(1000年頃)より早く、紀元前後頃に文学作品が尽くされ、タミル語、テルグ語、カンナダ語で七世紀~十三世紀頃に多くの作品が書かれた。

アーリヤ語の地方語の出現が遅れたのは、サンスクリット語が文章語として圧倒的な地位を保持したからであり、やがてヒンドゥー系哲学や倫理を通じて、インド全域に広まりインド文化に統一性を齎した。

その中で、ペルシア語は十三世紀以後、インドを支配したムスリム諸王朝で公用語とされ、行政や財政の術語を齎した。パキスタンの公用語であるウルドゥー語は、十四世紀の西北インドの軍隊でヒンディー語とペルシャ語の混淆によって生まれたとする。

第二章 インド文明の形成
ヴェーダは人々の守るべき宗教的義務を伝え、紀元前1300年~紀元前600年頃にバラモンによって作られた祭式に関する文献の総称とする。最も古い『リグ・ヴェーダ』の言語はゾロアスター教の聖典『アヴェスター』の最古層の言語と極めて近く、インドとイランのアーリヤ人の近似性を伺わせる。

アーリヤ人のパンジャーブ移住は紀元前1500年頃で、半遊牧の部族民の戦闘体制や二輪車、青銅製の武器等によって侵略したものと思われる。アーリヤ人は先住民と混血し、両者の相違点として宗教と社会の規範が重視されるようになったとする。

『リグ・ヴェーダ』の記述の中心はパンジャーブに関する記述であり、ガンジス川は紀元前1000年頃に成立した巻から登場する。ガンジス川流域が開拓されると農作物が生産されるようになり、インド村落社会の原型が成立した。

第三章 ブッダの時代
紀元前五世紀から六世紀頃に仏教やジャイナ教が成立。ガンジス川流域を中心に幾つかの国が栄えたとする。

部族体制を基盤とした国から、コーサラ、ヴァッサ、マガダ、アヴァンティの四大王国が王制国家として登場し、他王国を征服した。その中でマガダ国がコーサラ国を破ってガンジス川流域を支配した。マガダ地方は鉄器の使用によって開拓され、米作農業が発達し、ブッダ等の新しい宗教者が集った。

この時代の特徴は都市の繁栄であり、紀元前八世紀頃に生まれたガンジス川流域の都市が政治や商業、文化の中心となり、商人が新興階級となっていた。交通路も北の道(西北辺境のタクシラからマガダ王国の王舎城に至る)と南の道(ガンジス川岸からデカンに及ぶ)が開かれ、金属貨幣や文字が使用された。

仏教やジャイナ教は通商路に沿って主に都市生活者に広まったらしい。

第四章 マウリヤ帝国
マガダ国の発展を受け継ぎ、紀元前317年にマウリヤ朝が古代帝国を完成させる。その基盤はガンジス川流域平野であり、それ以外では諸地域に地方長官を派遣し、交通路を確保したとされる。

マウリヤ朝はアショーカ王没後に衰え、紀元前185年頃に滅ぼされた。それからグプタ帝国成立までの約500年間は諸国家が分裂し、西北から異民族が相次いで侵入した。

紀元前二世紀頃にはバクトリアのギリシア人がガンダーラ地方を征服し、北インドのマトゥーラまで勢力を伸ばし、ヘレニズム文化を齎した(インド初の円形貨幣等)。紀元前一世紀には、西北からバルティアや釈迦が侵入し、後のクシャーン朝に征服される。

<クシャーン朝>
バクトリアで半農半牧の生活をしていたイラン系民族。一世紀後半に西北インドに侵入し、ガンダーラ地方からマトゥーラまで進出した。中国―ローマの東西貿易の中枢部を占めており、中継貿易国家として繁栄した。

貨幣にはインド、イラン、ギリシア、ローマの王の称号が列挙されており、表面には王の肖像とギリシア文字、裏面には諸民族の神が描かれた。王朝の金貨は約9.2gで純金分95%とローマ金貨と同質量だった。

三世紀にはササン朝の侵攻を受けて、中央アジアの領土が奪われるとクシャーン朝は衰退した。

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同期間の南インドは農業と商業の発達を基盤として、各地方に王国が形成され、サータヴァーハナ朝がデカンを統一した。サータヴァーハナ朝は三世紀前半に衰微し、各地で様々な王国が現れた。

ローマとの交易は輸入超過で、ローマ金貨を改鋳したクシャーン朝にたしいて、サータヴァーハナ朝は銀貨をそのまま使用したとする。

第五章 古代インドの宗教と社会
仏教は一世紀以後にマトゥーラ以西で有力となり体系的教理を樹立した上座部系の説一切有部と、各地方に広まった大衆部等に分かれた。

ヒンドゥー教もヴェーダの神に代わって、シヴァ、ヴィシュヌ、クリシュナ等の偶像を作成し、三世紀以後は寺院の建立が始まる。これらの神々はマハーバーラタとラーマーヤナの二大叙事詩にて物語られていた。さらに、二世紀~四世紀頃にバラモンの哲学体系が完成された。

三世紀にサータヴァーハナ朝が衰え、ローマ貿易も衰えると仏教が一時衰えたとする。

第六章 グプタ時代
320年から約200年間、北インドをグプタ朝が支配した。

この時代にサンスクリット文学が多く作られ、二大叙事詩や六派哲学の教典、プラーナ文献等の古典が現れた(古典時代)。

グプタ朝は、中央インドなどの辺境地帯の支配者を服属させ、貢租を納めさせたが、引き続きそれぞれの領土を統治する事を許した(マヌ法典等で推奨されるダルマの勝利)。

五世紀頃からは中央アジアの遊牧民であるエフタル民族の侵入を受け、西方世界との交易を妨げられた事で衰微した。それは金貨に表れ、五世紀中頃の第五代スカンダグプタ以後、金貨がスヴァルナという重量に改められ、純金分が減少した。

そして、550年頃、グプタ朝はビハールとベンガルに攻められて滅亡した。

グプタ時代には、階級と身分の文化が顕著となり、地位が世襲化された。ヒンドゥー寺院が盛んに建立され、社会秩序維持のための宗教支配が行われた。

仏教は衰微していき、八世紀以後、東北インドのベンガルやビハール、オリッサや東南アジアとの貿易港だった南インドのネーガパトナム等の僅かな地域に残った。仏教は十二世紀末にベンガルを征服したムスリムのゴール朝によって仏教寺院を破壊され、滅んだとされる。

仏教はジャイナ教と違い、在家信徒が独自の社会集団を組織せず、冠婚葬祭についての仏教独自の規範が無いため、寺院が衰微して僧侶が四散すると信徒が拠り所を失って仏教から離れたとする。

第七章 ヒンドゥー諸王朝の展開
八世紀中頃から、ガンジス川中流域、ベンガル、デカンで強大な三王朝(パーラ朝、プラティハーラ朝、ラーシュトラクータ朝)が栄えた。

十一世紀~十二世紀の北インドは、アフガニスタンのガズナ朝の侵入を受けながら、各地方に諸王朝が乱立しており、壮大な寺院が建立された。

八世紀~十三世紀頃にカースト制が確立し、土地所有農民や各種職人の分業体制が作られ、世襲化されるようになった。

第八章 ムスリムのインド支配
十二世紀末から十三世紀初にかけてムスリムがインダス、ガンジス川流域を征服した。

それ以前に侵入したクシャーン、エフタル等が数世代の内にインド文明に吸収されたのに対し、ムスリムはインドに大きな影響を与えた。

一神教と多神教、偶像崇拝、ヒンドゥーの火葬とムスリムの土葬、牛と豚等、二つの異なった文化の遭遇が発生した。

<ガズナ朝/ゴール朝>
十一世紀初にガズナ朝マフムードが北インドを侵略する。1031年までにパンジャーブを併合した。十二世紀後半にはガズナ朝は衰え、ゴール朝が台頭した。1198年にはベンガルを征服し、ガンジス川流域を支配した。ヒンドゥー系王朝は分裂していたため、団結してイスラムに対する事が出来なかった。

1206年にゴール朝のムハンマドが暗殺されると、奴隷出身のアイバクがデリーに政権を樹立しスルタンを称した。その後も奴隷出身のイレトゥミシュ、バルバーンがスルタンとなり(奴隷王朝)、1266年にはラホールに迫ったモンゴル軍の侵攻を防いだ。

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1290年に奴隷王朝に代わってハルジー朝がデリーを制圧し、北インドを掌握後、1306年~1317年に南インドを征略した。しかし、その後も南インドはデリーの王朝に完全に支配される事は無かった。さらに北部においてもムスリムの人口が少ないため、ヒンドゥーの領主層の地位を保障し、徴税と郷村統治にあたらせた。

ムスリム支配下では商業が盛んになり、デリー諸王朝は良質の貨幣を大量に発行したとする。

第九章 ムガル帝国
1526年にティムールの五代後裔のバーブルが、デリーとあーぐらを占領した。その孫、アクバルによって北インドは征服された。

〇アクバルの徴税
1580年までに10の州があり、地方長官、徴税官、裁判官等が配置された。徴税は土地を測量して単位面積あたり一定額を徴収する方式も行った。過去10年間の実績を調べ、農作物毎に貨幣で徴収する(ザプト)。

〇マンサブ制
軍事、行政の家臣を66に分けられたマンサブに叙任し、定められた騎兵と馬を維持する義務を課した。様々な出自の者を宗教に関係無く家臣団に編成する狙い。マンサブ保持者は二年~三年で給与地を変えられ、土地と結び付かないようにされた。

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1657年に即位した六代目のアウラングゼーブの治世50年の間にムガル帝国の版図は最大になったが、諸地域で反乱が起こるようになる。1642年には西北要衝の地カンダハールがサヴァヴィー帝国に奪われたため、アウラングゼーブはカーブル地方も警戒せねばならず、1660年代と1670年代のアフガン族の反乱に揺るがされたとする。

アウラングゼーブは、デカン平定のためにムスリムの武将達をマンサブに叙任し、マンサブ保持者の増加によって給与すべき土地の不足を招いた。

第十章 十八世紀前半のインド
ムガル帝国はアウラングゼーブの死後、急速に崩壊に向かい、各地の諸勢力が分裂した。この間に英国が利権を獲得し、18世紀中頃から植民地侵略に着手した。

フランスも1664年に設立した東インド会社によって、マドラスの南のポンティシェリー、カルカッタの北のチャンディルナガルを本拠地とした。1720年からはインドとフランスの貿易が活発になり、その後の20年間で約10倍(英国の半分)になり、英国を脅かした。

1740年のオーストリア継承戦争で英国とフランスが交戦すると、フランスのデュプレクスがカーナティックの太守継承をめぐる内紛に介入したのを契機に、両国はインドでも争い、1763年までの三度のカーナッティック戦争で英国が勝利した。

英国は1764年にはバクサールの戦いでムガル帝国、ベンガル・アウド両太守の軍をバクサールの戦いで破り、1765年にはベンガル、ビハール、オリッサの徴税行使権をムガル帝国から獲得し、北インドの植民地支配を開始した。

英国は郷村にまで英国人を派遣し、行政、徴税、司法等の面で間近に植民地支配を行った。英国は欧州文明の優越を信じていたため、英国の制度を容赦無く導入し、インド社会を変質させた。

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