歴史とはなにか

読んだ本の感想。

岡田英弘著。平成13年2月20日 第1刷発行。



第一部 歴史のある文明、歴史のない文明
歴史とは、「過去にあった事実」を一個人の体験を超えて把握する事である。

この時、歴史は空間(体感的に確認出来る)と時間(過去は確認出来ない)に跨っており、直接は認識出来ない時間に基準を作らなければならない。古来から、周期運動する天体運動が時間の基準となっており、一日(地球の自転)、一月(月の公転)、一年(太陽の公転)を単位とする。

このように時間は人工的にしか計測出来ず、東アジアで誕生日の観念が発生するのは、記録上では唐の玄宗皇帝が729年に自分の誕生日を「千秋説」と呼んだのが最初らしい。

<歴史を成り立たたせる要素>
①直進する時間の観念
時間が過去から未来に向けて、一定の速度で進行するという思想。

②時間を管理する技術
時間に日、月、年と一連番号を振って、暦を作り、時間軸に沿って事件を管理する。

③文字
④因果律の観念
過去にあった事件によって現在が形成されているという思想。

◎インド文明
輪廻転生を基本とするため、日付のある歴史はイスラム系の奴隷王朝が成立する13世紀までしか遡れない。輪廻転生では、現世の原因は前世にあるため、人間世界の事件では因果関係を辿る事が出来ない。さらに、時間は直線的に無限に進行するのでなく、繰り返し原初に戻るため、時間軸に沿って筋道を辿る事が長期では難しい。

そのため、インド文明では現象の説明に神話が使用される。

◎イスラム文明
因果関係が神によって説明されるため、基本的には歴史が無い。しかし、歴史ある文明であるローマ帝国と対立する過程で歴史を取り入れた。外交交渉において、相手が古証文を出してくるのだから、自らも対抗して古証文を出さなくてはならない。

◎アメリカ
米国は移民によって作られた国であり、合衆国で生まれた二世米国人が多数派になるのは1950年代である。そのアイデンティティの基礎は、1776年の独立宣言と、1787年の合衆国憲法の前文である。

その特質は外交交渉で明らかになる。「現状は不合理だ」という米国と、「歴史的事情」を説明する他国との交渉。現在の世界を考える際に過去を考えるのは不合理。

◎日本
七世紀頃の唐朝の影響により歴史が作られる。

720年に完成した『日本書紀』のテーマは、「天命を受けた正統の天皇」という思想であり、初代天皇が即位する年を紀元前660年とする。中国の建国は秦の始皇帝による紀元前221年なので、それより古い事になる。

神功皇后が新羅に出兵するのは二世紀頃で、それまで日本に大陸の影響は無かったとする。その後、千年以上に渡って天皇は外国と関係せず鎖国をしている。日本列島内部のみが天下であり、鎖国が国是となる。

******************

東洋と西洋の歴史観の比較。独自に歴史意識を作り出したのは以下の中国文明と地中海文明のみとする。

<中国文明>
以下は、歴史書の変遷。

①史記
司馬遷が紀元前二世紀から紀元前一世紀にかけて書いた中国最初の歴史書。

その目的は漢の武帝の正統化である。

五人の神話上の君主について書かれる「五帝本紀」を最初に置くが、最初の君主である黄帝は武帝の投影である。どの時代にも天命を受けた皇帝が存在し、皇帝だけが統治権を持ち、正統が禅譲や放伐によって譲られていくとする思想。

その後の記録は『史記』を踏襲するが、天下の変化を記録した場合、皇帝の正統が疑われるため、変化を記録出来ない事になったとする。そのため、東洋史学者は中国の歴史に発展が見られないという問題に直面した。

内藤虎次郎(1868年~1934年)は、中国史を上古、中世、近世に分け、北宋の時代から皇帝権力が強大化し、貴族が消滅し、平民が台頭した頃からを中国の近世とした。この枠組みによって中国史と欧州史を比較する。

②漢書
一世紀の班固が書いた。その目的は王莽の英雄化。

王莽は儒教で天下を経営しようとしたが、その経緯を書くため、漢の高祖から始めて漢一代の話を書く「断代史」の開祖となる。

③後漢書/三国志
『後漢書』は五世紀の范曄が一世紀から三世紀の後漢を書く。『三国志』はそれより古く、三人の皇帝が並立する事態を、魏だけを正統とする事で解決している。

④南史/北史
遊牧民の鮮卑出身だった唐の皇帝が編纂を命じた歴史書。漢人である晋の皇族が江南に建てた東晋も正統としなければならないため、南朝と北朝の両方の歴史を書いた。皇帝が二人いた事になり、『史記』と矛盾する。

⑤資治通鑑
北宋で1084年に完成した歴史書。

北宋時代に漢人とされた人々は唐末からの混乱によって家系の伝承を失っており、遊牧民の後裔が意識的には秦・漢時代の中国人の直系と思うようになった人々とする。

当時の宋は北部の遊牧民族に脅かされており、『資治通鑑』では南朝の年号、皇帝のみを正統とし、隋の中国統一を境に正統を北部の隋に移している。漢人を正統とし、隋や唐を引き継ぐ宋を正統化する無理があるとする。そうまでして北朝を異端とするのは、北部の遊牧民族を北朝に准える意図がある。

こうした「正統」に拘る思想が中華思想の起源とする。

⑥宋史/遼史/金史
モンゴル人の元朝が編纂した歴史。

モンゴル人の立場では、宋・遼・金という三つの正統が同時に成立していた。江南の文人 楊維楨がこれに抗議した記録がある。

⑦元史
明の太祖洪武帝が1370年に完成させた(元が中国支配を失うのは1368年)。しかし、北アジアの遊牧地帯の行政センターだった上都が1358年に紅巾軍に襲われて全焼した事や、伝統的な正史の枠組みにより、漢人地帯の記録しかない。

そのため、遊牧民の横並びの関係が、ピラミッド型の行政組織であったように読める。地理志でも、臨時的な行政組織である「行省」が都市を直接支配していたようになっている。

漢字で綴った役職名を使用していただけなのに、古来からの中国式統治を実践していた事になってしまう。

<地中海文明>
紀元前五世紀のヘロドトスを始まるとする。

ヘロドトスが書いた歴史書『ヒストリアイ』は、以下の三つの思想からなる。

①世界は変化するものであり、変化を語るのが歴史
②変化は政治勢力の対立・抗争によって起こる
③欧州とアジアは永遠に対立する二つの勢力

『ヒストリアイ』は、アナトリア半島のリュディア王国(紀元前七世紀~紀元前546年)から始まり、紀元前480年のサラミス海戦におけるギリシア勝利で終わる。

これはアジア勢力とギリシア勢力が対立し、ギリシアが勝利した事で対立が解決した事を示し、後の歴史書の範となる。トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争をアテーナイの民主制とスパルタの独裁制の二つの原理の闘争として書いた。

〇ゾロアスター教/ユダヤ教
ゾロアスター教の教義では、世界は善と悪の原理の戦場であり、最後には善が勝利して、時間は停止して世界が消滅し、最後の審判があるとする。

ユダヤ教も同様の原理を採用し、ヤハヴェ神殿を破壊したウェスパシアヌスの息子ドミティアヌスの治世(紀元前一世紀頃)に書かれた「ヨハネの黙示録」ではユダヤ人のローマ打倒運動が反映されているとする。

第二部 日本史はどう作られたか
歴史書には、歴史家の目的と、読者の要求という二つの側面がある。

歴史は物語であるが、一般の人々は真実を求めるのでなく、日常から解放してくれる図を求める。だから歴史物語に登場する人間には、等身大よりも大きい人物を求める。

現在のように息苦しくなく、自由で偉大な人間がいたと思いたい。

そして歴史は他人の作成した資料を基にするため、以下の二つの段階がある。

①原始的神話
祭りや儀式の目的を説明する。
②政治的神話
上記①を組み合わせて使用し、王権の起源等の説明に用いられる。

<日本書紀>
『日本書紀』の目的は天皇家の正統化であり、壬申の乱における天武天皇の行動と、神武天皇の行動は近しい。

天照大御神は、天武天皇の時代に天皇家が初めて接した神であり、それ以前に伊勢の皇大神宮と皇室が関わりを持った証拠は無い。神武天皇紀には、「神風の伊勢の海の」で始まる歌が幾つかあるが、神武天皇が東征の最中に伊勢に入った記述は無い。これは神武天皇が天武天皇と考えれば不思議でないとする。

さらに、天武天皇紀によると、壬申の乱の最中に、高市県主の許梅という人物が神憑りになり、「神武天皇陵に兵器を捧げよ」、「西の道から敵軍が来る」と告げ、その予言通りに西方から敵軍が来たとする。神武天皇陵は畝傍山にあるが、古墳でなく自然の岡であり、神武天皇はこの時に出現したのではないか。

ヤマトタケルの小津応も天武天皇の行動と重なっており、ヤマトタケルの遺品である草薙剣は、八世紀の初めには尾張の熱田社にあるとされるが、天武天皇紀では、686年に天武天皇の病気が草薙剣の祟りなので熱田社に送ったとされており、草薙剣が天武天皇の遺品となる。

日本では神話が政治的な疑似歴史として形成されており、皇室の起源説話として利用された。それは中国文明を範としており、神であった黄帝が地上に実在した帝王のように整えられた事を見習ったためとする。

『日本書紀』の説話に反映されているのは、七世紀末から八世紀にかけての建国当初の事情であり、神話は現在の事象の説明であるため古い時代の記憶ではない。

人々の神話を求める気風は強く、第二次世界大戦後、日本の国史教科書の出発点だった『日本書紀』、『古事記』の神話が削除されると、穴埋めされる形で1948年に騎馬民族征服王朝説(皇室は北アジアの騎馬民族出身)が江上波夫によって提唱される。

1924年発表の小谷部全一郎の源義経 = チンギス・ハーン説は、1879年にケンブリッジ大学に入学した末松謙澄が、差別的待遇に怒り、英国人を装って匿名で書いた論文が、1885年に内田弥八が『義経再興期』として出版したものが元になっている。

神話の代替として自民族を高くするために考古学が活用される。明治以来、神以外の合理的解釈が必要とされ、英国のようにノルマンディー公がアングロ・サクソン人を征服したとすると欧州の歴史と対比し易い。

<魏志倭人伝>
三世紀に陳寿が書いた『三国志』の一部。『三国志』は魏書、蜀書、呉書に分かれ、魏書は三十巻からなり、四巻が紀(本紀)で二十六巻が伝(列伝)になっている。伝の最後にあたる第三十巻が、魏の皇帝の支配権の外側にある種族を扱った「鳥丸・鮮卑・東夷伝」であり、第一部は北アジアの遊牧民を扱い、第二部は東北アジアの七種族を扱う。倭人は七種族の最後に登場する。

陳寿が生きたのは、魏に仕えた家柄を祖とする晋の時代であり、魏を正統として扱う。そして魏を大きく扱うために誇張が見られるとする。「韓」の条には、「四千里ばかり」とあるが、一里 = 三百歩、一歩 = 左右の足を一回ずつ前に出して歩く距離 = 1.5mとすると、一里は450mであるから韓半島の大きさは1800㎞になりインド亜大陸と同等になってしまう。

倭も魏の都である洛陽から一万七千余里となるが、これは卑弥呼が親魏倭王(仲立ちをしたのが司馬)となる239年の前となる229年に大月氏王波調(仲立ちをしたのが曹仁)が親大月氏王となった事と関連しており、仲立ちした者の地位が同格であったため、両国が同じくらい遠方の同程度の大国とする必要があったためと思われる(大月氏の都カーピシーは洛陽から一万六千三百七十里)。しかし、これでは邪馬台国はグアム島あたりに位置する事になってしまう。

さらに方位も会稽群の東治県(福建省の福州市)の東方としているが、当時の敵国である呉の背後に持って来る意図があったとする。

<三国史記、三国遺記>
韓半島で一番古い歴史書は、1145年に成立した『三国史記』である。紀元前57年に新羅が建国され、半島を統一し936年に高麗が新羅を併吞したところで終わる。高句麗が紀元前37年、百済が紀元前18年となっており、新興の新羅が最も古い事になっている。

これは著者の金富軾が新羅王家の一族だった事と関係していると思われる。

『三国遺記』は十三世紀に一然という僧が書いた本であり、檀君という朝鮮建国の王が登場し、1908年生きたとする。

朝鮮半島は紀元前108年に中国皇帝の直轄地となるため、それ以前に民族独自の歴史を遡る事が難しいが、一然は気楽に歴史の限界を超えた。

第三部 現代史のとらえかた
現代史では細部が問題になり、十八世紀末まで存在しなかった国民国家が前提になる。

マルクス主義史観の世界が一定の方向に段階を踏んで進化する思想は、十九世紀に流行した進化論の影響を受けており、現実的でないとする。

しかし、歴史を記述する際には過去を幾つかの時期に分けなければ不便。

著者は、世界史は十三世紀のモンゴル帝国出現で準備されたとする。それ以前は東洋と西洋の関係は薄く、モンゴル帝国がユーラシアの大部分を統一し、十二世紀頃に華北で誕生した資本主義経済を地中海に伝えたとする。さらにモンゴルがユーラシアの陸上交易を独占した事で、外側の日本や西欧が海上貿易に進出したとする。1415年のポルトガルによるセウタ後略や、1350年の倭寇による高麗は襲撃は、その流れに沿うとする。

〇資本主義
十二世紀頃の金で発生したとする。金が支配した華北は商業が盛んだったが、銅の鉱山が無く、取引のための貨幣に手形を使用し、信用の観念が発達したとする。十三世紀にはモンゴル帝国の取引相手だったヴェネツィアに地中海で最初の銀行が出来たとする。

<国民国家>
米国の独立やフランス革命を起源とする。

王の私有財産を市民の共有財産とする。君主制の時代には、特定君主の財産である土地の間には、別の君主の土地が挟まっていて国境線は成立しなかった。革命によって市民が王から財産を奪うと、市民の範囲を設定するために国民の概念が生まれる。

フランス革命では、どこまでフランスでフランス国民の財産かが問題になり、1804年のナポレオン法典でフランス全土で同じ法律が適用されるようになった。全土に同じ言語を創出し強制する。

<立憲君主制>
国民国家という形態は、徴兵によって大規模な軍隊を組織するため、小規模な傭兵主体の君主国の軍隊よりも強い。対抗するために他の国も国民国家を採用した。

君主制を残したまま国民国家を採用したのが立憲君主制となる。

国民国家の主導権争いは、1848年に欧州を席巻し、君主が主導権を握る事になる。その後、都市の労働者が団結する事で国民国家の所有権を握る発想が生まれ、共産党宣言に繋がっていく。

<日本>
天皇家では、皇位継承が行われると陰暦十一月の上巳の日に大嘗祭がある。天照大神の寝床で食事を差し上げる儀式で、先祖代々の人格を引き継ぐ。

つまり、王家が長く続くとは代替わりに関係無く、同一の人格が継続している事になる。持続性のおかげで国民国家であっても君主の人格が国民を代表し統合の象徴となる事が出来る。

日本の明治維新は、以下の条件から国民国家化に有利な条件を備えていた。

①海
日本は海で囲まれており、どこまでが日本かは自明だった。国内に外国の領土は無い。

②鎖国
隣国と大規模な外国関係が無かった。海外に居住する日本人もほとんど無く、国内に居住する外国人も少ないため、誰が日本人かは自明だった。

上記のような条件下で、天皇が日本国民統合の象徴となる。近代化において苦労したのは国語。ラテン語はギリシア語を基にして、イタリアのラティウム地方の言葉に置き換えて作られた言語だが、ドイツ語も十六世紀にマルティン・ルターが『新約聖書』をラテン語から翻訳して開発した言語で、ラテン語と語彙や文法が一対一で出来ている。

日本語も漢文の訓読によって開発されており、品詞の区別や過去形の区別、能動態や受動態が無いため論理を表現出来なかった。そのため明治時代の日本人は、欧州の言語を日本語で表現するために漢文の古典に無い新しい感じの組み合わせを作成し、文体も散文を開発し、論理を表現出来るようにした。

<中国>
中国の国民国家化は、日清戦争で敗れた事が契機とする。

古典的な漢文の文体に代わって、日本文からの直訳体の文体が流行し、語彙も日本人が開発した漢字の組合せを使用した。それまで中国語という観念は無く、話言葉が違っても漢字で意思疎通をしていたが、言文一致の開発が進み、魯迅(1881年~1936年)は白話文として、日本語で考えた原案を漢字で置き換えた。

満州人の清帝国は皇帝による同名種族の連合体だったが、国民国家では同一の言語、法律による支配が志向される。

≪国民国家の終焉≫
著者は国民国家の問題を指摘する。

①観念
国民国家は、国民全員が平等な立場で国家経営に参加する前提であるが、実際には平等は実現し難い。

②国語
国民国家統合の象徴である国語は人工的であり、国民全員が同じ言語を話す事はあり得ない。標準フランス語はラテン語を基礎にして作られた人工言語だが、普段の話言葉は通俗ラテン語から発達したフランス語である。

歴史を書く時は人間集団に名前を付けなくてはならないが、その集団は不変でなく実体が無い。

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