緑の資本論

読んだ本の感想。

中沢新一著。2002年5月10日 第一刷発行。



難しい本だった。理解出来ていない。再度読むと思う。

圧倒的な非対称
人間社会は「富んだ社会」と「貧しい社会」に分断されている。

毎日、多くの動植物が殺されているが、「富んだ社会」に提供される肉からは殺戮を想像させる痕跡は抹消されている。

「富んだ社会」が一極集中化する事で、「貧しい社会」との非対称は一層際立つ。

かつてイエス・キリストが神と人間との非対称に立ち向かった方法は、自らを贈与する事だった。キリストは自らを憎む者達のために一人で死ぬ。人間からは死の贈与が行われ、神は愛の流動を送る。

それはテロと相似している。テロリスト達は憎む者達に死を贈与するために自らも死ぬ。両方とも、一方的に奪われる非対称を打ち破る手段である。

両方とも非対称を前提にしている限り問題を解決出来ない。

緑の資本論
一神教は自己増殖を警戒し、それが利子 = 資本主義形成を妨げた。

古代の多神教は異なり、増殖を司る人間と動物が合体した神々を信心していた。

その源になっているのは、人間の脳構造だ。大脳を小さくし、汎用計算機械のようにした。ネアンデルタール人の脳は巨大であるが、複数の計算機械が機能を分担するように設計されていたと推測する。

対して現生人類は、異なる機能を接続し、流動的知性を手に入れた。異質な領域に同一性を見い出し、隠喩と換喩の組み合わせである言語が出来上がる。合理的思考の元になる同定や、違うものの間に等価性を見い出し交換を可能にする思考も、そこから発生する。

そこから、以下の二つの思考が発生する。

合理的思考:同一性を見い出し、世界を同定する
魔術的思考:同一性から溢れ出す過剰。
      無から有を発生させ、増殖させる技術



一神教は、上記の想像性による超越性を否定した。名前だけを持ち、偶像を否定する新しい神。それは「一」なるものである。一神教の原理では、象徴界と現実界は一体で、世界の全てが神の表現である。記号は存在に結び付けられる。

その中で貨幣は、物の代用であり、現物との対応関係を持たなくてはならない。利子を認めた場合、現実に存在する以上の貨幣が存在する前提で考える事になり、想像 = 偶像を否定する一神教の原理が否定されてしまう。

貨幣が物の代用であるならば、買い物は物々交換であり、売り手と買い手の決定的区別は発生しないはず。しかし、実際には貨幣は価値を計測する指標として扱われてしまう。利子の否定は一神教の原理である。

ユダヤ教は異教徒以外からの利子を否定し、イスラム教は支配した全ての地域で利子を禁止した。

かつてはキリスト教も利子を否定していたが、12世紀に経済が発展していくと利子を認めるようになる。原理的にキリスト教は利子を完全に否定出来ない。

イスラム教が一神教的記号論で利子を否定したのに対し、キリスト教は交換のために使用されるべき貨幣を貸す事で代価を受け取る事は自然の摂理に背くという論法をとった。自然に発生した利子を自然の摂理で否定する事は出来ず、神学者は勝利出来なかった。

13世紀になるとスコラ学者達は適正な利子なら問題無いとするようになり、煉獄という生前の罪を浄化して天国に至る事が出来る緩衝地帯が考え出された事で高利貸の心理的負担が軽減された。

イスラム教は「一」の論理で考えられており、以下を前提にする。

①神は不可分な単一の実体
②神は被造物と質的に隔絶している
③神のみが能動的行為者である。被造物は受動的

イスラムでは神という一つの力が流動する。世界が複雑であるのは、一である神が多に表出するからである。そのため、どのような存在者も抽象的に増殖する事はあってはならない。だから、神を想像力によって増やす行為である偶像生産や、存在しない貨幣を増やす利子は否定される。

キリスト教では、神と存在が直接は接続せず、三位一体論が提唱される。神とキリストが存在し、両者は本質的には単一であるが、父と子という関係性によって統一されている。すると、地上にあって視認出来るキリストが神として無限である事になり、人間が把握出来る現実に無限が存在出来る事になる。

これは貨幣の利子と同様であり、実体として視認出来る貨幣が利子という概念を付与する事で無限の貨幣を想像出来てしまう。さらに貨幣は値段を付けする事で、全ての存在を価格にし、神のように全存在と接続する。

さらに「聖霊」の概念がある。イエスは常に霊に満たされており、信者に降りてくる霊の働きも「父」から直接くるものとして神と見做された。唯一神は自らの内から「聖霊」を発出するものとされ、増減するものを示す。

三位一体の世界観では、神と子の同一性と、神と精霊の増殖性との結合により、後の経済論の二つの傾向に分裂していく。

①重商主義者:等価性
貨幣は増えない。貨幣は抽象的価値を表象する金属であり、他の共同体との価値観の差異を利用した貿易により価値を増殖出来る。

②重農主義:増殖性
貨幣は増える。農業等の労働によって増殖した種子から現実の価値が増殖し、それが利潤を増やしていく。

現在の古典派経済学でも資本を流動資本(耐久性が少なく速やかに消費される)と固定資本(緩やかに消費され回収期間が長い)と二種類に分けている。

マルクスも相対的価値形態と等価形態の不均衡な出会いにより、等価形態を取る商品が、相対的価値形態を取る商品を表現する地位になり、貨幣が萌芽するとした。

キリスト教は、三位一体によって等価性(父と子の一体性)と相対性(聖霊による愛に満ちた増殖)を組み込み、等価性は貨幣の本質に、相対性の商品と資本の本質に繋がったとする。

対してイスラムは緑の資本論である。均一な対象生産やマスとしての顧客、定価を決めずに、個々の商人が個々の商品を個々の顧客に販売する。



シュトックハウゼン事件
2001年9月に、ドイツの作曲家カールハインツ・シュトックハウゼン氏が、9.11テロをアートと表現した批判された事件。

この事件が表しているのは、現代では両義的な表現が危険な行為となっている事である。人々は快感原則に従って自らの幸福を追求するが、欲望が満たされた安全球体(スラバイ・ジジェク)の中では芸術は意味を失う。

人間は欲望対象が失われた時、それを象徴の働きによって補おうとする。苦痛や欠乏が無い限り、想像力によってそれを補う行為 = 芸術は意味を失う。

宗教が衰退していく17世紀から芸術がその機能を代行し始め、人間の象徴能力発生の現場を再現してきた。

モノとの同盟
モノとは、思考の対象となるもの全てである。

古代日本における物部氏は、軍事・警察に関係しており、その名字にあるモノは、霊魂を意味するモノノケのモノからきているとする。物部氏はモノを扱う豪族として、鎮魂法を芸能として天皇に仕えていた。そこから派生して裁判や軍事に関わるようになる。

土地の精霊を象徴的な道具によって捕獲、管理する物部氏の技能は、外来の普遍レベルに立つ仏教徒対立し、抗争の結果、物部氏は滅ぼされたとする。

鎮魂においては魂(タマ)という概念が出てきて、物部氏はモノを使用して魂(タマ)を人間の体に付着させた。タマもモノも非人格的であるが微妙に違う。タマがモノとして現れる。

天王が豪族を服属させるために、彼等の神宝を献上させ、石上神宮の神庫に収め、物部氏の技芸によって管理する。神宝(モノ)には、豪族達の魂(タマ)が込められており、それを管理する事で天皇の魂(タマ)の威力が増す。

タマ-モノの関係は、同一性の内部からの増殖を説明している。全てを一つの神で説明する一神教では増殖を説明し難い。キリスト教では、聖霊としてタマ-モノと同質の思考構造が内包されている?

資本主義は、同一性と増殖性の結合から出来上がっており、あらゆるものを商品化し、等価交換の原理に従わせる。徹底した合理化が暮らしに浸透し、基準が広まっていく。

例えば、マックス・ウェーバーはピアノの大量生産が調律の一律化につながり、十二音平均律を完成させ、十二音平均律に従う事だけが唯一の音楽的想像と考えられるようになったと指摘する。



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