横割り世界史

読んだ本の感想。

編集者:武光誠。2006年4月6日発行。



第1章 古代(紀元前~2世紀)
前3000年頃、エジプトに統一国家成立①
紀元前5000年頃にメソポタミア経由でエジプトに灌漑農業が伝わると、生産性が向上し、現在のアラビア語、ヘブライ語に代表されるセム・ハム語系の民族を中心にノモス(部族国家)が成立した。

ノモスはナイル上流の上エジプトとナイル下流の下エジプトに纏まり、紀元前3000年頃に上エジプト主導で統一国家が誕生した。紀元前525年にアケメネス朝ペルシアに征服されるまで、以下のように約30の王朝が存在した。

①古王国時代(紀元前27世紀~紀元前22世紀)
第3王朝~第6王朝。メンフィスを首都とし、太陽神ラーの化身であるファラオを頂点に神権政治体制が確立された。

②中王国時代(紀元前22世紀~紀元前18世紀)
第11王朝~第12王朝。テーベを首都とし、末期にはアジア系遊牧民族ヒクソスの侵入を受けた。

③新王国時代(紀元前16世紀~紀元前11世紀)
第18王朝~第20王朝。メンフィスを首都とし、第18王朝(紀元前15世紀~紀元前14世紀初頭)で領土が最大になった。アメンホテップ4世がアモン・ラー神を排し、唯一神アトンを祀るようになる。彼の死後、アモン・ラー信仰は復活した。

<メソポタミア>
紀元前3000年頃に文明が発祥し、紀元前2700年頃にシュメール人が都市国家を築き、紀元前2400年頃にアッカド人の統一国家が誕生した。

前3000年頃、エジプトに統一国家成立②
エジプトは周囲を乾燥地帯に囲まれていたため、外敵が侵入し難く最古の文明地帯であるメソポタミアよりも先に統一国家が成立したと推測される。

紀元前2700年頃からシリアからレバノンにかけて勢力を誇ったセム語系民族フェニキア人が使用したフェニキア文字はギリシアに伝わってアルファベットに発展した。同時期に内陸貿易で活躍したアラム人の文字はヘブライ語やアラビア語の源流となっている。

前1027年、周朝成立
紀元前3000年頃に黄河流域に興った中国最古の文明が黄河文明である。当時は邑と呼ばれる血縁関係で結ばれた村落が社会の中心であった。
確認出来る最古の王朝は殷(紀元前17世紀~紀元前11世紀)であり、遊牧生活を送っていた周族の武王に1027年頃に滅ぼされたらしい。周朝は諸侯と呼ばれる王の一族に領地を与える代わりに納税と軍役を課し、これを世襲させる事で封建制という政治体制を作り上げた。

前500年、ペルシア戦争開始①
以下の2つの勢力圏の対立。

①オリエント
紀元前7世紀頃までセム語系のアッシリア帝国の支配下にあったが、新バビロニア帝国を中心とする同盟によって紀元前612年に滅びる。その後、紀元前550年にメディア支配下のペルシア人がイラン高原西部に興したアケメネス朝ペルシアが周辺諸国を倒し、紀元前525年には古代オリエント世界統一を回復した。

②ギリシア
平地が少なく小規模耕作しか出来ないため、周辺地域との交易によって生計を立てる自立的農民が生れた。紀元前8世紀頃にはポリス(都市国家)が生み出され、裕福な市民が武装した重装歩兵密集隊が形成された。

上記の2つの勢力は、紀元前500年頃にイオニア地帯の都市が起こした反乱を機に対立し、ペルシア戦争が発生した。

前500年、ペルシア戦争の開始②
紀元前492年、紀元前490年、紀元前480年のペルシアによるギリシア遠征はいずれも失敗。以後、アテネを中心とした対ペルシア同盟(デロス同盟)が結ばれる。

<ローマ>
紀元前8世紀頃にラテン人がイタリア半島中部に興した集落ローマは、王制を経て紀元前6世紀頃に貴族共和制に移行した。紀元前5世紀には平民の権利を保証する十二表法が制定され、平民会を主催する護民官制度も認められた。

前334年、アレクサンダーの遠征開始①
ギリシアでは、アテネを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟が対立し、紀元前431年~紀元前404年までペロポネソス戦争が行われた。各ポリスの衰退が発生し、紀元前338年にはフィリッポス2世のマケドニアの侵入を許し、マケドニアを盟主とするコリント同盟が結成された。

その後、フィリッポス2世の後を継いだアレクサンダー3世が東征に着手する。紀元前330年にペルシア帝国は滅ぼされた。

前334年、アレクサンダーの遠征開始②
アレクサンダー大王の東征によってギリシア文化が東方に広がり、オリエント文化と融合し、ヘレニズム文化が生まれた。東征からローマ台頭までの約300年をヘレニズム時代と呼ぶ。アレクサンダー大王は紀元前323年に熱病で急逝した。

<ヘレニズム文化>
ユークリッド:平面幾何学
アリスタルコス:地球の自転と公転
エラトステネス:地球の周囲を測定
アルキメデス:浮力や円周率の計算
ヘロフィロス:神経と脳髄の発見

<ローマ>
紀元前4世紀のローマでは貴族と平民の争いが発生しており、紀元前367年のリキニウス・セクスティウス法、紀元前287年のホルテンシウス法により法的に両者は平等になった。紀元前267年にローマはイタリア半島を統一する。

前221年、秦の中国統一①
周は紀元前770年にチベット系民族、犬戎の侵入を受け、都を鎬京から洛邑に移した(西周 ⇒ 東周)。周王の権威は失墜し、諸侯が自立化し、群雄割拠の春秋戦国時代が始まった。

この時代には牛耕や鉄製農具、青銅貨幣の登場により、経済が発展した時代でもある。紀元前247年に即位した秦の政によって、紀元前221年に中国は統一された。

前221年、秦の中国統一②
秦では皇帝という称号を用いて、郡県制を採用し、度量衡、貨幣、文字を統一し、匈奴への備えとして万里の長城を築いた。この体制は後の中華帝国の雛形となる。

同時期の欧州では紀元前218年に第2回ポエニ戦争が勃発し、紀元前202年のザマの戦いでローマが勝利している。

前31年、アクティウムの戦い①
貧富の格差拡大等で混乱に陥ったローマの混乱を収拾するために、紀元前46年に終身独裁官となったカエサルは、紀元前44年に暗殺された。その後、シーザーの武将アントニウス、レピディス、オクタヴィアヌス等による三頭政治が開始されたが、アントニウスとオクタヴィアヌスの対立が深まり、紀元前31年のアクティウムの戦いでオクタヴィアヌスが勝利し、紀元前30年にはエジプトをローマに併合した。

前31年、アクティウムの戦い②
オクタヴィアヌスは紀元前27年にアウグストゥスとなり、共和制下の権限と税収を手中に収めた。君主や王という称号でないため、元首政とも呼ばれる。

同時期の中国は、前漢(紀元前202年~8年)の時代で、宣帝(紀元前74年~紀元前49年)が貧民救済、減税という政策を行っていた。朝鮮半島では紀元前37年に高句麗が建国され、勢力を増していく。

25年、後漢成立①
劉邦によって紀元前202年に長安を首都として建国された漢は、外戚であった王莽に8年に王位を奪われ、新が建国された。しかし、王莽の儒教政策は地方豪族の反感を買い、赤眉の乱(18年~27年)によって23年に新は滅亡した。

混乱の中、漢の血統である劉秀が25年に光武帝として洛陽を都とする後漢を再興した。

25年、後漢成立②
儒教は前漢時代から国教となり、礼と徳を重視する事から簒奪者を防ぐ意味があった。後漢時代に伝わった仏教は、一部の知識層への普及に留まった。

紀元前3世紀頃に台頭した匈奴が北方から漢を脅かしており、紀元前189年には匈奴に大敗した劉邦が和議を結んでおり、紀元前127年~紀元前119年には武帝によって匈奴は北方へ後退し、紀元前1世紀半ばには東西に分裂し、西匈奴は滅亡した。

1世紀半ばに東匈奴が南北に分裂し、北匈奴が後漢に侵入するようになる。1世紀後半には後漢が北匈奴を討ち、西域を支配した。

25年、後漢成立③
朝鮮半島では、衛氏朝鮮滅亡(紀元前108年)以後、前漢の時代に四群が置かれた。高句麗は32年には後漢に朝貢を行い、その後、後漢の影響力が弱まると313年には楽浪郡を攻めて朝鮮半島の支配権を確立した。

楽浪郡は鉄器や稲作等を日本に伝える窓口でもあり、奴国は楽浪郡経由で洛陽の光武帝に使者を送っている。

96年、五賢帝時代の始まり①
以下の5人の皇帝が統治した期間(96年~180年)がローマ帝国の最盛期である。

・ネルヴァ
世襲制を排して、後継に属州出身のトラヤヌスを指名
・トラヤヌス
外征を行い、ローマ史上最大の版図を達成
・ハドリアヌス
・アントニヌス・ピウス
・マルクス=アウレリウス=アントニヌス

紀元前27年に事実上のローマ皇帝となったアウグストゥスが、紀元前14年に養子のティベリウスに帝位を継がせた事で世襲制が確立された。

96年、五賢帝時代の始まり②
キリスト教は、64年のローマ大火の犯人とされて以来、迫害されたが、奴隷や下層市民に広まっていった。紀元前3世紀にセレコウス朝シリアから独立したパルチア王国は、シルクロード中継地として繁栄し、ローマとは衝突した。

<インド>
1世紀半ばに成立したイラン系クシャーナ朝がカニシカ王の下で領土を拡大し、仏教によるガンダーラ美術が生れた。

184年、黄巾の乱①
2世紀になると側近の争い等で後漢は衰えた。儒学者官僚が宦官を告発した事により、166年に宦官が官僚等200余人を禁固、追放した第1次党錮の禁、169年の第2次党錮の禁が発生している。

太平道と五斗米道という2つの教団が生まれ、黄巾の乱が発生した。

184年、黄巾の乱②
黄巾の乱等の混乱により、群雄割拠の時代となり、後漢の第14代献帝は、220年に魏王の曹丕に禅譲し、後漢は滅亡した。その後、魏、呉、蜀の三国鼎立時代が始まる。

同時期のローマでは、ゲルマン人の侵入が相次ぎ、212年にカラカラ帝が属州にも同等のローマ市民権を与えたが、混乱が続いた。イランでは紀元前248年から続いたパルチア王国が、226年にササン朝ペルシアに滅ぼされた。南インドのアーンドラ朝はローマ帝国との交易で繁栄する一方、北のクシャーナ朝(親魏大月氏国)と抗争していた。

第2章 中世(4世紀~15世紀半ば)
375年、ゲルマン民族の大移動①
紀元前1世紀頃までの西欧にはケルト人が居住していたが、バルト海から南下したゲルマン人に征服された。ゲルマン系の部族国家はライン川を境にローマ帝国と接しており、9年のトイトブルクの森における敗戦で、ライン川、ドナウ川を防衛線に、ローマに従うゲルマン人にはドナウ川流域への居住を認める懐柔策をとった。

375年、ゲルマン民族の大移動②
1世紀頃にヴォルガ川流域に居住していたトルコ・モンゴル系のフン族が、4世紀頃に勢力を拡大し、375年にはゲルマン人の東ゴート族を服属させた。玉突き状態で西ゴート族がローマ領内に大移動を開始し、数度の移動が繰り返され、欧州中にゲルマン人が広く分布するようになる。

<中国>
265年に司馬炎が建てた西晋が316年に滅亡し、その後、華北では5つの北方民族による16の国家が乱立し、江南では317年に東晋が建てられた(五胡十六国時代)。

<インド>
320年にチャンドラグプタが開いたグプタ朝が4世紀半ばに最盛期を迎える。

395年、ローマ帝国東西に分裂
3世紀のローマはゲルマン人の大移動等により軍隊の力が増し、各地の軍隊がそれぞれ軍人皇帝を立てる時代となっていた(235年~284年)。ディオクレティアヌス帝は混乱を収めるために帝国を4分し、四分統治体制を敷いた。

その後、コンスタンティヌス帝が再統一し、ササン朝ペルシアの攻撃に備えるためにコンスタンチノープルに遷都し、キリスト教も公認した。その後のテオドシウス1世は395年にローマ帝国を東西に分けた。

476年、西ローマ帝国滅亡
西ローマ帝国はゲルマン人の侵入を受け、ローマ軍の中枢もゲルマン人が担うようになり、476年にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグスティヌス帝が廃位させられた。以後、複数のゲルマン人国家が領内に成立した。

589年、隋の中国統一①
五胡十六朝時代を経て南北朝時代にあった中国において、北魏の後を継いだ北周が華北を支配し、その外戚であった楊堅が581年に帝位を奪った。楊堅は国号を隋と改め、589年に南朝の陳を滅ぼして中国を再統一した。

楊堅(文帝)は、中央集権体制を支える法体系として律(刑法)、令(行政法)、格(追加規定)、式(細則)を定め、科挙によって人材を集めた(律令体制)。

国が民衆に土地を割り振る均田制を中心に、租庸調(税制)や徴兵制度である府兵制によって国力充実を図り、「開皇の治」と呼ばれた。

589年、隋の中国統一②
文帝の次の煬帝は大事業を乱発し、618年に唐の高祖となる豪族の李淵、李世民親子に殺害された。

<中央アジア>
トルコ系遊牧民族の突厥が6世紀中頃に全盛期を迎えるが、隋と交戦を重ねる内に東西に分裂。イラン北部にはエフタルが5世紀半ばに台頭し、563年に突厥とペルシアによって滅亡する。インドのグプタ朝はエフタルの侵入によって分裂し、550年頃に滅亡した。

<ローマ>
東ローマ帝国にて527年にユスチニアヌス1世が即位すると、ローマ法大全を編纂し、後の西欧諸国の法典の基礎となる。地中海沿岸のローマ帝国領を回復するが、565年にユスチニアヌス1世が死ぬと、東ローマ帝国は衰退を始める。

622年、ヒジュラ①
6世紀後半のアラビア半島では、ササン朝ペルシアと東ローマ帝国の争いを避け、海陸の交易路がアラビア半島西部を迂回するようになったため、メッカが中継貿易の拠点となっていた。メッカの名門ハーシム家に生まれたムハンマドは610年頃に啓示を受け、イスラム教を始める。

イスラム教は迫害され、ムハンマドは622年にヒジュラ(聖遷)を行い、ヤスリブへ移住した。622年をヒジュラ暦元年と呼ぶ。

622年、ヒジュラ②
ヒジュラ後、ムハンマドはイスラム法として生活体系を定めた。そして、630年にムハンマドがメッカを征服し偶像を破壊した。632年にムハンマドが没した後は代々のカリフがウンマ(イスラム共同体)を主導していく。

同時期の中国では、626年に即位した唐の太宗が「貞観の治」と呼ばれる治世を行い、645年には玄奘がグプタ朝滅亡後に興ったインドのバルダナ朝(612年に北インド統一)から仏経典を持ち帰っている。

676年、新羅の朝鮮半島統一①
高句麗、新羅、百済が割拠していた朝鮮半島において、新羅が唐の力を利用し、660年に百済を滅亡させ、668年には高句麗を滅亡させている。

676年、新羅の朝鮮半島統一②
新羅は670年に高句麗の残存勢力を引き入れて唐に対抗。676年には唐の勢力を朝鮮半島から排除する事に成功する。高句麗領であった中国東北部と朝鮮半島北部は唐の支配下であるが、10世紀初めまで新羅と唐の国交は続いた。

800年、カール大帝加冠①
375年の大移動後に欧州に移住したゲルマン人のほとんどはキリスト教異端であるアリウス派を信奉していたが、フランク王国だけは正統派アタナシウス派に改宗し、ローマ教会との関係を深めていた。

ローマ教会は661年に成立したウマイヤ朝のイスラム勢力を恐れ、726年の東ローマ帝国による聖像禁止令に憤慨し、751年にカロリング朝を開いたフランク王ピピンと結び、権威を保証する事と引き換えに教会領の防衛を委ねた。

768年にピピンの後を継いだカール大帝は、西欧の大半を手中に収め、ラテン語の洗練化や古典復興等のカロリング・ルネッサンスという古典復興運動を行った。

800年、カール大帝加冠②
カール大帝の時代にフランク王国の教会はローマ式典礼を採用し、国家統治の土台に教会組織を組み込んだ。そして、800年にカール大帝は教皇レオ3世によって西ローマ皇帝として戴冠を受けた。このとき、ローマ教会は東ローマ帝国から独立し、ローマ・カトリック教会が成立した。

同時期のアラブでは、750年にアッバース家の革命軍がウマイヤ朝を破り、イラクを中心にアッバース朝が成立。イベリア半島に逃れたウマイヤ家は756年に後ウマイヤ朝を成立。アッバース朝は751年に行われたタラス河畔の戦いで得た唐の捕虜から紙の製法を伝えられたとする。

843年、ヴェルダン条約①
フランク族にはゲルマン慣習法による分割相続の慣習があったため、カール大帝が没した後に領土争いが生じ、領土の線引きを条約で決めた。

カール大帝の男児はルートヴィヒ敬虔王(ルートヴィヒ1世)だけであり、教皇ステファヌス4世から戴冠を受けた。その死後、長男ロタール、次男ルートヴィヒ2世、三男シャルルの間で争いが起こり、843年のヴェルダン条約で領土は三分割された。

843年、ヴェルダン条約②
ヴェルダン条約による領土分割は以下の通り。

ロタール:
西ローマ皇帝の帝位と中部フランク(ロートリンゲン地方と北イタリア)

ルートヴェヒ2世:
東フランク

シャルル:
西フランク

ロタールの死後、再度、分割問題が生じ、870年のメルセン条約で中部フランクのロートリンゲン地方が東西フランクに分割され、ドイツ、フランス、イタリアの原型になった。

1038年、セルジュク朝成立①
中央アジアで遊牧生活を送っていたトルコ人は、10世紀に人口増加等で西方への移住を開始し、アラブ系やイスラム系のイスラム勢力に軍人奴隷として採用された。

当時のトルコ人はシャーマニズムを信仰していたが、西方に移住し、イスラム教に改宗する部族が出てきた。セルジュク族もその一つで、10世紀の終わり頃に族長セルジュクに率いられて南下し、シル川下流のジェンドでイスラム教スンニ派に改宗した。

セルジュクの孫とされるトゥグリル=ベクは、サーマン朝から分離したトルコ系のガズナ朝からイラン東部のホラサーン地方を奪取し、1038年にセルジュク朝を建国した。

1038年、セルジュク朝成立②
アッバース朝は、シーア派のブワイフ朝に実験を奪われており、トゥグリル=ベクに助けを求め、1055年にトゥグリル=ベクはバグダードに進出し、ブワイフ朝を追放した。その功績からスルタン(支配者)の称号を与えられ、東方イスラム世界における政治と軍事の支配者として公認された。

同時期のインドでは、サーマーン朝に仕えるマムルーク(トルコ人奴隷兵)であったアルプテギーンが962年にアフガニスタンで興したガズナ朝が北インドに侵入を繰り返していた。

1038年、セルジュク朝成立③
西欧では、987年にフランス王朝の祖、カペー朝が興り、962年にザクセン朝のオットー1世がローマ教皇にローマ皇帝の冠を与えられ、神聖ローマ帝国が生れた。

イベリア半島では後ウマイヤ朝が10世紀に全盛期を迎えたが、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)により、1031年に滅ぼされた。朝鮮半島では916年に建国された高麗が新羅、後百済(892年に建国)を滅ぼし、936年に朝鮮半島を統一した。

1096年、第1回十字軍①
中東では、カリフの権威によってスルタンの称号を与えられたセルジュク朝が勢力を増しており、欧州ではキリスト教が広まるに連れて聖地巡礼熱が高まっていた。

以下が十字軍の軌跡。

第1回(1096年~1099年):
聖地エルサレムを占領し、エルサレム王国を建国。

第2回(1147年~1149年):
イスラム勢力の反撃により成果無し。

第3回(1189年~1192年):
リチャード1世やフィリップ2世が参加するも聖地を奪還出来ず。

第4回(1202年~1204年):
ベネチア商人によって脱線。コンスタンチノープルを占領し、ラテン帝国建国。

少年十字軍(1212年):
少年達が奴隷として売られる。

第5回(1228年~1229年):
フリードリヒ2世の外交により聖地回復。

第6回(1248年~1254年):
ルイ9世がカイロを攻撃するも敗退。

第7回(1270年):
ルイ9世がアフリカのチュニスを攻撃。攻撃中に病死。

1096年、第1回十字軍②
1076年にローマ教皇グレゴリウス7世に、神聖ローマ皇帝ハインリヒが許しを乞うたカノッサ事件に象徴されるように、当時の欧州では王権よりも教皇権が強かった。

1095年に東ローマ皇帝アレクシオス1世からエルサレム奪還を要請されたローマ教皇ウルバヌス2世は、クレルモン公会議を招集し、十字軍派遣を宣言した。

1096年、第1回十字軍③
第1回十字軍によって建国されたエルサレム王国は、諸侯が帰還した後の兵力不足に悩み、聖ヨハネ騎士団やテンプル騎士団が設立されたが、サラディンがアイユーブ朝を建ててイスラム勢力を結集すると聖地を奪還出来なかった。

1169年、アイユーブ朝成立
1169年にイラク出身のクルド人であるサラディンが、アッバース朝カリフの宗主権を承認する宣言をする代わりに、エジプトにスンニ派のアイユーブ朝を建てた。アイユーブ朝はシリア方面に領土を拡張し、1187年には聖地エルサレムを奪還した。

1192年、鎌倉幕府成立①
日本では、都の貴族を中心に平安時代が11世紀に最盛期を迎えるが、政治が乱れ、有力農民が武器を持った武士が出現した。武士層は天皇を祖先とする平氏と源氏の下で勢力を拡大し、貴族に取り入る形で国政に入り込んだ。

1192年、鎌倉幕府成立②
1192年に源氏の源頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開き、政治の中枢が公家から武家に移行した。

同時期のインドでは、アフガニスタンで独立したトルコ系イスラム王朝ゴール朝が勢力を拡大し、1189年にトルコ系イスラム王朝のガズナ朝を倒して北インドに侵入している。

1206年、チンギス・ハンがモンゴルの君主に①
1206年にモンゴル高原の部族を統合したテムジンが、大ハンの地位に就いてチンギス・ハンと称するようになる。1209年には西夏を服従させ、1077年にセルジュク朝から独立したホラズム朝を、1221年に滅ぼした。

1206年、チンギス・ハンがモンゴルの君主に②
チンギス・ハンの死後もモンゴル帝国の拡大は続き、カラコルムを首都とした。

<英国>
1215年に失地王ジョンがマグナ・カルタを制定させられた。

<インド>
1206年にアフガニスタンのトルコ系イスラム王朝ゴール朝の将アイバクが独立し、デリーを首都にインド初のイスラム王朝、奴隷王朝(1206年~1290年)を建てた。この後の300年をデリー・スルタン時代と呼ぶ。

1258年、モンゴルのバグダード占領①
1258年に、モンゴル帝国第4第ハンであるモンケに派遣されたフビライとフラグによって、バグダートが占領され、アッバース朝は滅亡した。カリフは処刑され、約600年継承されたカリフ制は終焉した。フラグはイランを中心にイル・ハン国(1258年~1353年)を建てた。

1258年、モンゴルのバグダード占領②
1260年にモンケが没すると、フビライが大ハンとなる。都を大都(北京)に移し、1271年に国号を元とした。

<東ローマ帝国>
ニケーアに亡命貴族が建てたニケーア帝国が1261年にコンスタンチノープルを奪還しラテン帝国を滅ぼし、再興した。

<神聖ローマ帝国>
王朝が断絶し、神聖ローマ皇帝が存在しない大空位時代(1256年~1273年)が訪れた。ライン川流域の都市は、治安維持のためにライン都市同盟を結んだ。

1299年、オスマン帝国成立①
12世紀にセルジュク朝は衰退した。小アジアのアナトリア地方ではトルコ系のムスリム戦士が乱立し、その中のオスマン・ベイが1299年にオスマン朝を建てた。その子のオルハンの時には東ローマ帝国領内の都市ブルサを占領して首都とし、その子のムラト1世の時にはバルカン半島のアドリアノープルを占領し首都とした。

以下は各王の功績。

オルハン(1326年~1359年):
1326年に東ローマ帝国のブルサを占領

ムラト1世(1359年~1389年):
1362年にイェニチェリ創設
1366年にアドリアノープル占領

バヤジット1世(1389年~1402年):
1396年にニコポリスの戦いでハンガリー征服
1402年にチムール帝国とのアンカラの戦いで敗れる

メフメト1世(1413年~1421年):
1413年に帝国を再建

1299年、オスマン帝国成立②
オスマン帝国の軍隊は、シパーヒーと呼ばれる騎士階級と、カプクルと呼ばれる君主直属の常備奴隷軍団によって構成されていた。カプクルは強制帝にイスラム教に改宗させた軍人によって補充されており、イェニチェリの原型である。

1338年、室町幕府成立
14世紀に入り、鎌倉幕府の権威が弱まった事で、後醍醐天皇による倒幕が行われる。その後、武士層の不満が生じ、朝廷が南北に分かれる南北朝時代となる。1338年に征夷大将軍に任ぜられた足利尊氏が室町幕府を開く。

同時期の欧州では1328年にカペー朝が断絶し、バロア朝が成立すると、英国のエドワード3世が王位継承権を口実に北仏に侵入し、1339年に百年戦争が始まった。

1368年、明建国①
元の勢力が衰え、1351年には弥勒仏を信仰する白蓮教の指導による紅巾の乱が発生した。その中で農民出身の朱元璋(洪武帝)が頭角を現し、1368年には金陵(南京)を首都とする明を建国した。首都は第3代の永楽帝の時に北京に移される。

洪武帝は中書省を廃し、行政機関である六部、軍事組織である五軍都督府、官僚の監察組織である都察院を皇帝直属とする中央集権体制を敷いた。

また、徴税体制として里甲制(110戸を1里、その内の富裕な10戸を里長戸、残りを10甲とした管理する)、兵役を負担する衛所制(1衛 = 千戸所×5 = 百戸所×50:百戸所は112人)を定め、朱子学を国教とし、科挙を復活させた。

1368年、明建国②
明と日本は1404年から勘合貿易を開始している。1551年に大内氏が断絶するまで続く。

<朝鮮半島>
1392年に倭寇討伐で名を上げた李成桂が高麗に反乱し、朝鮮王朝を興した。

<中央アジア>
チャガタイ・ハン国が崩壊し、1370年に豪族のチムールがチムール朝を開いた。

<欧州>
フランス国王の圧力で1309年に教皇庁がアビニョンに移り、1378年には2人の教皇が立つ教会大分裂(大シスマ)が起った。この状態は1417年まで続く。

1402年、アンカラの戦い①
オスマン・トルコとチムールの戦い。1370年にサマルカンドを首都としたチムール帝国は、オスマン・トルコに領土を奪われたアナトリア諸侯の要請を受ける形でアナトリアに進出し、アンカラで戦った。

1402年、アンカラの戦い②
アンカラの戦いで勝利したチムールは明への遠征を行うが、途中で病死した。首都サマルカンドでは文化が発展した。

1455年、ばら戦争①
<百年戦争:1339年~1453年>
1328年にシャルル4世が没してカペー朝が断絶すると、シャルル4世の従兄弟フィリップ6世が即位してバロア朝を開いた。英国のエドワード3世は、母親がカペー朝出身である事からフランス王位継承権を主張してフランス領に侵入。毛織物業が発展したフランドル地方の支配権を巡って争いが発生した。

英国のブランタジネット朝はフランス西部を領有していたが、12世紀末の失地王ジョンの時に領土を失い、百年戦争でカレーを除くフランス領を失った。

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百年戦争中の英国でエドワード3世の孫のリチャード2世が即位したが、各地で反乱が相次ぎ、ブンラタジネット家支流であるランカスター家(赤薔薇)が王位を求めて挙兵し、1399年に王位はランカスター家に移った。ヘンリ4世のランカスター朝の始まり。

その次の次のヘンリ6世が1453年に百年戦争に敗れると、1455年にブランタジネット家支流のヨーク家(白薔薇)のリチャードが王位を求めて挙兵し、ばら戦争が始まった。

1455年、ばら戦争②
ばら戦争は当初はヨーク家が優位にあり、1461年にヘンリ6世は廃位させられ、リチャードの息子エドワード4世がヨーク朝を開いた。その弟のリチャードがエドワード4世の息子であるエドワード5世を暗殺し、リチャード3世として即位したため、国内は混乱した。それを見てランカスター派のヘンリ・チューダーが挙兵し、ヘンリ7世として1485年にチューダー朝を開いた。

ヘンリ7世とエドワード4世の娘エリザベスが結婚する事で両家は和解した。

ばら戦争に加入した諸侯は没落し、国王直属の裁判所、星室庁が設置され王権が強まり、絶対王政時代が到来した。

第3章 近代(15世紀末~19世紀)
1492年、コロンブスのアメリカ到達①
13世紀にレコンキスタを完了させたポルトガルやスペインは、オスマン・トルコに抑えられていた香料貿易の利益を手にするため、航路開拓を行った。1488年にはバーソロミュー・ディアスがアフリカ南端の喜望峰を発見し、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を超えてインド航路を開拓した。

1492年、コロンブスのアメリカ到達②
1492年にスペインの支援を受けたコロンブスがアメリカ大陸に到達する。ポルトガルとスペインは、ローマ教皇ロドリゴ・ボルジャの仲介で1494年にトルデシラス条約を結び、大西洋上に境界線を設置して世界を二分割した。

1500年にポルトガル王の支援を受けたカブラルがブラジルをポルトガル領とし、1509年にはディワ沖の海戦でエジプト、ベネチア等の軍を破ってインド洋における権益を確立した。

1492年、コロンブスのアメリカ到達③
ポルトガル貴族だったマゼランは、スペイン王カルロス1世の支援を受け、1519年~1522年に世界周航を達成した。南米のマゼラン海峡を回る南西航路の開拓。

<ロシア>
1480年にロシア帝国の礎となるモスクワ大公国が、キプチャク・ハン国から独立した。

<中央アジア>
チムール帝国が東西に分裂し、1500年、1507年にトルコ系のウズベク族に滅ぼされた。チムール一族のバーブルがインドに逃れ、1206年から続いていたイスラム系のデリー・スルタン朝の最後の王朝ロディー朝を滅ぼし、ムガル帝国(1526年~1858年)を築く。

1517年、ルターの宗教改革①
教会の世俗化に対して、14世紀後半から英国やフランスで教会革新運動が起っていたが、15世紀末からはドイツで教会改革が叫ばれた。
神学者マルティン・ルターは、ローマ教皇レオ10世が発行した贖宥状(罪を軽減する)を批判し、1517年には「95ヶ条の論題」を発表した。
ルターの主張は聖書への回帰であり、人の罪を軽減出来るとするローマ・カトリック教会の存在を否定した。1521年に破門され追放されたルターはザクセン選帝公に保護された。

1517年、ルターの宗教改革②
ルターは1534年に旧約聖書のドイツ語訳を完成させた。15世紀半ばにグーテンベルクによって発明された活版印刷によって広まり、プロテスタントの礎となる。

スイスでも宗教改革運動は広まり、フランス人のツィングリの改革運動をカルバンが受け継ぎ、1541年からジュネーブで救いは神によって定められているという予定説を主張した。カルバン派(ユグノー、清教徒、ゴイセン)はルター派と並ぶプロテスタントの二大宗派となっていく。

<中東>
1517年にオスマン・トルコがエジプトのマムルーク朝を滅ぼし、メッカとメディナの保護権を獲得し、イスラム世界の盟主となる。

1533年、ピサロのインカ帝国征服
スペイン人のピサロによってアンデス山中のインカ帝国が征服される。中南米では膨大な金銀が採掘されるため、安価な銀が欧州に流入し、物価高騰や旧来の産業資本やドイツの銀山経営者没落等の影響があった。

<欧州>
1534年にイギリス国教会を誕生し、同年にフランスでカトリック修道会イエズス会が設立された。

<中東>
オスマン・トルコが1538年のプレヴェザの戦いでキリスト教国を破り、地中海を支配した。

1558年、エリザベス1世がイギリス国王に①
1534年に設立されたイギリス国教会は、カトリックから分離し、共通祈祷書や礼拝形式を統一する事でプロテスタント化が進んだ。メアリ1世(1553年~1558年)はカトリックを復権させようとしたが、その後のエリザベス1世(1558年~1603年)は首長令や統一法を復活させ、イギリス国教会を確立した。

以下は、エリザベス1世の施策。

・北米の植民地化
・ユグノー戦争(1562年~1598年)で新教派支援
・スペイン領オランダ独立支援
・スペイン無敵艦隊撃破(1588年)
・東インド会社設立(1600年)

1558年、エリザベス1世がイギリス国王に②
エリザベス1世は貨幣改鋳を行い、毛織物の大陸への輸出を保護し経済面を活性化させた。毛織物の貿易市場アントワープがあるネーデルラントが1568年に独立戦争を起こすとアントワープが没落したため英国内で失業者が増大し、その対策に貧民救済を義務付ける救貧法を制定した。

<ドイツ>
1555年のアウグスブルクの宗教和議で信教の自由が保証される。

<ロシア>
1533年にモスクワ大公国でイバン4世が即位。1547年以降にツァーリと名乗って中央集権化を進める。

<インド>
ムガル帝国でアクバル帝(1556年~1605年)が即位し、ムガル帝国の勢力を広げる。

1588年、アルマダ戦争①
16世紀末から17世紀の欧州では貴族が弱体化し、国王が絶対的権力を持つ絶対王政が確立していた。宗教的にも王権神授説が加わり、英国やスペイン等が絶対王政が確立していた。

スペインはオスマン・トルコと対立し、1571年のレパントの戦いで勝利して地中海の覇権を手に入れた。

1588年、アルマダ戦争②
フランスでカルバン派(ユグノー)が勢力を拡大し、1562年~1598年にユグノー戦争が勃発した。フェリペ2世はカトリック支援のために介入するが戦争は泥沼化した。

1589年にバロア朝が断絶し、フランス国王に即位してブルボン朝を開いた新教徒のアンリ4世がカトリックに改宗し、1598年のナントの勅令で信教の自由を承認した。

さらにフェリペ2世の異端不寛容政策により、1568年~1609年にはオランダ独立戦争が発生し、反乱を支援した英国との対立を決定的にした。

1588年にスペインは艦隊を英国に差し向けるが英国艦隊が勝利し、英国の覇権が確定した。

1588年、アルマダ戦争③
スペインは1580年にポルトガル王を兼ねてイベリア半島を支配したが、一連の対外政策で破産状態になり、オランダ独立(正式な承認は1648年のウェストファリア条約)によって毛織物市場であるアントワープを失い、アメリカ大陸からの銀の輸入も激減したため、スペインは衰退した。

<ロシア>
モスクワ大公国でイバン4世が親衛隊オプリチキーナによって貴族を粛正する恐怖政治(オプリチナ政策)を行い、1580年代にはシベリアに進出した。

<インド>
1565年にムガル帝国第3代アクバル帝が非イスラム教徒への人頭税(ジズヤ)を廃止し、官僚制度を整備した。

1603年、江戸幕府成立①
1603年に征夷大将軍に任じられた徳川家康が江戸幕府を開く。

1603年、江戸幕府成立②
1641年に日本ととの交易相手をオランダと中国に限定する鎖国制度が完成した。

<英国>
1603年に、エリザベル1世の後をジェームズ1世(ジェームズ6世)が継ぎ、スチュアート朝を開く。

<ロシア>
モスクワ大公国でイバン4世の死後、1613年に皇帝に選出されたロマノフがロマノフ朝を開く。

1618年~1648年、三十年戦争①
1555年に神聖ローマ皇帝カール5世は、アウグスブルクの和議で信教の自由を保証したが、自由が領主のみにしか認められなかった事やカルバン派が宗教和議の対象外となった事が対立の原因となった。

1618年にハプスブルク家出身のフェルディナント2世がボヘミア王になり、プロテスタントを弾圧すると民衆が蜂起し、三十年戦争が始まった。

〇ボヘミア・ファルツ戦争(~1623年)
1619年に神聖ローマ皇帝に即位したフェルディナント2世が、スペインの支援を受けてプロテスタント諸侯を破る。

〇デンマーク・ニーダーザクセン戦争(1625年~1629年)
新教国デンマークが介入するが、皇帝軍に撃破される。

1618年~1648年、三十年戦争②
〇スウェーデン戦争(1630年~1635年)
新教国スウェーデンが介入。

〇スウェーデン・フランス戦争(1635年~1648年)
反ハプスブルクを主導したフランスが参戦。

1648年のウェストファリア条約でルター派に加えてカルバン派にも信仰の自由が保証され、スイス、オランダの独立が国際的に確認された(ハプスブルク家の勢力衰退)。

1618年~1648年、三十年戦争③
ウェストファリア条約でフランスはアルザス地方を獲得し、スウェーデンは北ドイツの領土を得た。ドイツ諸侯に領土主権が認められたため、神聖ローマ帝国は小国へ分裂し、ハプスブルク家の支配地はオーストリアのみとなった。

三十年戦争の間、英国ではカルバンの影響を受けてイギリス国教会改革を目指す清教徒が勢力を伸ばし、1628年には議会の同意無しでの課税を禁止する「権利の請願」をチャールズ1世に突き付けた。

1642年には王党派と議会派で内乱状態になり、議会派はクロムウェルの指導により1645年に王党派を破るが、議会派はクロムウェルの独立派と穏健な長老派に分裂し、再び内乱状態となる。

独立派は1649年にチャールズ1世を処刑して共和制を開始した。クロムウェルの死後、長老派が1660年にチャールズ2世を擁して王政が復古する。

1618年~1648年、三十年戦争④
小国に分裂したドイツで、東北部のブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国が1701年に合併し、プロイセン王国が誕生する。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世による貴族階級(ユンカー)を中心とした絶対王政。

神聖ローマ帝国皇帝位を世襲するオーストリアでは、1660年代から地中海に進出し、1683年の第2次ウィーン包囲を行ったオスマン・トルコに勝利し、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーやトランシルヴァニア等を獲得した。

同時期にあった事として、1580年にスペインに合併されていたポルトガルが、スペインが衰退する中、1640年に独立。インドではムガル帝国が栄え、第5代シャー・ジャハンが1632年から約20年をかけてタージ・マハル廟を建設した。

1756年、七年戦争
三十年戦争後、神聖ローマ帝国皇帝の支配地はオーストリア周辺に限られたが、次第に勢力を拡大していた。1711年に即位したカール6世の死後、娘のマリア=テレジアが王位を継ごうとしたが、プロイセンとフランスが異を唱え、1740年にオーストリア継承戦争が始まる。

1748年のアーヘンの和約によって、マリア=テレジアがオーストリア王になり、夫のフランツ1世が神聖ローマ皇帝に即位したが、シュレジエン地方をプロイセンに割譲する事になった。

そこでマリア=テレジアはブルボン家と同盟を結び(外交革命)、シュレジエン地方奪回のために七年戦争を始める。1763年のフベルトゥスブルク条約でシュレジエン地方がプロイセン領として確定した。

1769年、ワットが蒸気機関を改良①
17世紀の英国では清教徒革命と名誉革命を経て絶対王政が崩壊し、市民社会が形成されていた。その結果、工業が家内制手工業から工場制手工業に変化していた。

以下が産業革命の要因となる。

<労働力>
18世紀には議会の承認の下で地主が多くの土地を囲い込んで中小農民が賃金労働者として都市に流入した。

<資本>
海外植民地を多く獲得し、三角貿易(奴隷、綿花、製品)が行われ富が蓄積されていた。

<技術>
1733年:ジョン=ケイが織りの速度を倍にする飛び杼を発明
1769年:ワットが蒸気機関を改良
1779年:クロンプトンのミュール紡績機
1785年:カートライトの力織機

1769年、ワットが蒸気機関を改良②
綿工業の機械化は他産業も発展させ、従来の大地主と領民という階級に代わって資本家と労働者という階級を産み出した。それは労働者の選挙権を求めるチャーチスト運動に繋がっていく。

1769年、ワットが蒸気機関を改良③
各国の本格的な産業革命は、1825年に英国が機械製品の輸出を解禁してから始まる。フランスは七年戦争の敗北によって海外市場を失い、フランス革命の影響もあって機械化が普及するのは1830年代からである。ドイツでも同時期にライン川流域で綿工業における産業革命が発生している。

<ロシア>
1762年にピョートル3世(七年戦争でプロイセンと単独和議を結ぶ)をエカテリーナ2世が追放し、1771年にはクリミヤ半島を占領し、1772年にはプロイセンやオーストリアとポーランドを分割した。

1776年、アメリカ独立
清教徒が1620年にアメリカ大陸に到達して以降、英国は植民地産業を圧迫していた。七年戦争での戦費出費による財政難から植民地への課税を強化し、それが米国独立へと繋がっていく。

1789年、フランス革命①
16世紀から続く絶対王政下にあったフランスでは、アンシャン=レジーム(旧制度)と呼ばれる社会の下、聖職者と貴族に免税特権があり、市民や農民に政治的権利は認められていなかった。その状況下で英国から公正な社会実現を目指す啓蒙思想が伝わり、市民に大きな影響を与えた。
1788、ルイ16世が財政破綻を前に特権階級へも課税するために三部会を招集した。
1789年の三部会は特権階級と第3身分(市民、農民)の争いとなり、市民が蜂起してバスティーユ牢獄を襲撃、革命が始まった。

1789年、フランス革命②
1792年に成立した国民公会は、王権廃止と共和制樹立を決議した。その後、国民公会は1795年憲法によって解散し、ナポレオン台頭まで5人の総裁からなる総裁政府がフランスを統治した。

こうした西欧の混乱を突いて、1795年にプロイセン、オーストリア、ロシアがポーランド分割を行った。

1804年、ナポレオン皇帝になる①
革命後のフランスは総裁政府が政権を担ったが、共和派、王党派によって社会は混乱していた。1793年に結成された第1回対仏大同盟の軍事的脅威も存在し、1795年にはナポレオンがパリで王党派が起こした反乱を鎮圧した事で頭角を現していく。

以下は、対仏大同盟の経緯。

〇第1回(1793年~1797年)
ルイ16世処刑に対して結成。オーストリア軍が敗れた事で解消。

〇第2回(1799年~1802年)
ナポレオンのエジプト遠征に際して結成。英国とアミアンの和約を結んで解消。

〇第3回(1805年)
ナポレオンの皇帝即位に対して結成。ロシア・オーストリア連合軍が敗れ解消。

〇第4回(1813年~1814年)
ナポレオンのロシア遠征敗退に対して結成。ナポレオンが敗れ、皇帝退位。

1804年、ナポレオン皇帝になる②
ナポレオンは国立銀行設立や税制、教育改革等の内政に手を付け、また、革命時に政府がキリスト教を排斥したために悪化したローマ教皇庁とのアkン系を1801年の宗教協約で修復した。
1804年には近代的な民法であるナポレオン法典を発布。同年に皇帝位につくと、1806年には南ドイツの領邦を集めてライン同盟を結成させ、忠誠を誓わせ、962年に成立した神聖ローマ帝国を消滅させた。
1807年にはプロイセンから奪った土地でワルシャワ大公国を建設している。そして屈服しない英国を経済封鎖するために出した大陸封鎖令(1806年)、ミラノ勅令(1807年)によって機械製品を欧州諸国が輸入出来なくなり、経済的打撃を受けた。

1804年、ナポレオン皇帝になる③
ロシアが大陸封鎖令を破って英国と貿易を行い、ナポレオンは1812年に遠征を行うが焦土戦術によって撤退した。ナポレオンは欧州諸国との戦いに敗れ、エルバ島に幽閉され、その後、セントヘレナ島に幽閉される。

欧州各国は革命以前の絶対王政を正統とする保守的な国家体制(ウィーン体制)を作り上げた。

ナポレオンと英国の戦争の間、米国は中立を宣言し、欧州との中継貿易で利益を出したが、英国が海上封鎖を行った事で宣戦布告し、1812年から米英戦争が始まった。ナポレオン敗北後に兵力に余裕が出来た英国がワシントンを占領したが、長期の戦争で疲弊していたため、1814年のガン条約で停戦が決まった。

1804年、ナポレオン皇帝になる④
フランス革命の余波はラテン・アメリカ諸国にも及び、英国はラテン・アメリカの市場を狙って南米諸国の独立を支持した。
米国も南米への影響力を行使するため、1823年のモンロー宣言で欧州諸国はアメリカ大陸に干渉すべきでないとした。

他に1821年にはギリシア独立戦争が発生し、1829年にロシアとオスマン・トルコの間でアドリアノープルの条約が結ばれた独立が承認された。

1840年、アヘン戦争①
清は1616年に満州で女真族が建国した金が、1636年に清と改名し、1644年に明が滅ぶと勢力を拡大した。

〇康熙帝(1661年~1722年)
1683年:中国を統一
1689年:ネルチンスク条約でロシアとの国境を確定。

〇雍正帝(1722年~1735年)
1727年:キャフタ条約でモンゴルにおけるロシアとの国境を確定

〇乾隆帝(1735年~1795年)
1757年:外国貿易を広州一港に限定
1759年:ジュンガル部(1758年)に続いて回部を平定
1793年~:英国使節が通商要求(1816年、1834年)

〇嘉慶帝(1796年~1820年)
1796年:白蓮教との乱(~1804年)で国内混乱

〇道光帝(1820年~1850年)
1833年:英国東インド会社の対清貿易独占権廃止
1839年:林則徐、広州でアヘン没収
1840年:アヘン戦争開始(~1842年)

18世紀中頃の英国は清との貿易で茶の輸入量が増加したが、輸出品が無いという輸入超過であり、銀の産出地であったアメリカを独立で失った事で蓄積された富が流出していた。18世紀後半からアヘンを売る事で、貿易は逆に英国有利となっていく。

1840年、アヘン戦争②
清はアヘンを取り締まったが、英国は貿易自由化を目的に武力介入し、1842年の南京条約で以下を約束させた。

・香港の割譲
・上海、寧波、福州、厦門、広州の開港
・公行(特許商人)の廃止
・賠償金の支払い

さらに1856年のアロー戦争では、天津条約でさらなる開港(牛荘(営口)満州、登州(芝罘):山東、漢口:長江沿岸、九江:長江沿岸、鎮江:長江沿岸、台南:台湾、淡水:台湾、潮州:広東省東部、後に同地方の汕頭に変更、瓊州:海南島、南京:長江沿岸、等の華北や長江流域の内陸港を含む10港)を認めさせ、その後の北京条約で九龍半島を割譲させた。

1840年、アヘン戦争③
アヘン戦争やアロー戦争により、さらなるアヘン流入や賠償金が齎した物価高騰や重税により、1853年~1864年に太平天国の乱が発生する。地方勢力が力を持った事で地方分権化が進んだ。

一方の英国では、1840年代に穀物法と航海条例が廃止されて自由主義が実現し経済力が高まっていた。

<フランス>
ウィーン体制下でブルボン朝が復活したが、シャルル10世の旧制度が反発され、1830年の7月革命で失脚し、次のルイ=フィリップも1848年の2月革命で打倒された。

以下は、二つの革命の特徴。

〇7月革命
ティエール、ラファイエット指導による自由主義の大ブルジョワ中心の革命。選挙権は拡大したが、制限選挙のまま。

〇2月革命
ラマルチーヌ中心、ルイ=ブラウン指導下で中小ブルジョワと労働者中心の革命。ラマルチーヌ中心の臨時政府による第二共和政が樹立され、普通選挙によりルイ=ナポレオンが大統領になる。

<トルコ>
支配下にあったエジプトとの戦争。

〇1回目(1831年~1833年)
1805年よりエジプトの支配者となったムハンマド・アリーがトルコに領土を要求。
(トルコ、ロシア 対 エジプト、英国、フランス、オーストリア)

〇2回目(1839年~1840年)
ムハンマド・アリーがエジプト、シリアの総督世襲権をトルコに迫って開戦。1840年のロンドン会議でエジプトはシリア、クレタ島を失うが、エジプト、シリアの総督世襲権を獲得した。
(トルコ、四国同盟(ロシア、プロイセン、英国、オーストリア) 対 エジプト、フランス)

1853年、クリミア戦争①
18世紀から19世紀にかけてのロシアは、オスマン・トルコ衰退により、黒海沿岸やバルカン地方への南下政策をとっていた。その勢力拡大を阻止しようとする英国、フランスとバルカン半島の権益を狙うオーストリアの間に東方問題という国際問題が発生していた。

ロシアは、オスマン・トルコ領内のキリスト教徒保護を名目にトルコに進軍し、1853年にクリミア戦争が始まる。ロシアの勢力拡大を阻止したい英国、1851年のクーデターで政権を握ったばかりで威信を高めたいナポレオン3世(1852年~1870年)のフランスが1854年にロシアに宣戦布告し、1855年にはイタリア統一戦争中のサルディニア王国がフランスの支援を必要としてロシアに宣戦布告した。

ロシアは、オーストリアが中立を宣言したために国際的に孤立し、1856年んは敗北した。

1853年、クリミア戦争②
1856年のパリ条約で、オスマン・トルコの領土保全と、黒海の非軍事化が定められた。自由主義の広がりや各国が同盟関係維持よりも自国の権益を主張するようになった事でウィーン体制は崩壊した。

ロシアはクリミア戦争敗北を機に資本主義政策を進め、1861年には農奴解放令を発布して近代化を図ろうとした。

<インド>
18世紀後半から19世紀にかけて英国が反ムガル帝国のマイソール王国、マラータ同盟、シーク教国を保護下においていた。産業革命による自由貿易でインドの綿織物業は壊滅し、英国の植民地支配への不満が1857年のセポイの反乱に繋がっていく。1858年に反乱は鎮圧され、インドは英国の植民地となる。

1861年、リンカーン大統領に①
米国は1803年にフランスからルイジアナ、1819年にスペインからフロリダを購入し、1845年にはテキサスを獲得する等、領土を拡大していた。領土拡大により、南部(自由貿易と奴隷制度拡大)と北部(保護主義と奴隷制度廃止)が産業基盤の違いから対立し、1820年に北緯36度30分以北には奴隷制度を認めないミズーリ協定を結んだが、1854年には協定が破棄され奴隷州が増えた(カンザス・ネブラスカ法)事で対立が激化していた。

1861年、リンカーン大統領に②
1860年に北部のリンカーンが大統領に当選すると、南部は認めずにジェファソン・デーヴィスを大統領にアメリカ連合国を結成して連邦を脱退、翌年にリンカーンが大統領に就任すると南北戦争が始まった。
連邦側は、ホームステッド法(5年間西部の公有地に定住し耕作すれば160エーカーを無償供与する)で西部の支持を得、1863年の奴隷解放宣言で戦争の正当性を掲げて英仏の南部への支援を阻んだ。1865年に南部の首都リッチモンドが陥落して南北戦争は終結した。

<イタリア>
サルディニア王国エマヌエル2世が1859年にオーストリアとの戦争に勝利し、1861年にイタリア王国を建設した。1866年にはベネチアをオーストリアより返還され、1870年には教皇領を併合した。

1868年、明治維新①
欧州諸国のアジア進出に伴い、日本の鎖国体制は終わりを継げ、幕府の権威は失墜し、1867年には政権を天皇家に返す大政奉還が行われた。

1868年、明治維新②
旧幕府軍は新政府に反抗し、1868年~1869年に戊辰戦争が発生した。新政府は廃藩置県や四民平等、徴兵令、地租改正等の改革を実行した。

1868年、明治維新③
明治維新後の新政府は外国との交渉を積極的に行い、1875年には樺太・千島交換条約を結んで、樺太をロシア領、千島列島全島を日本領とした。

1871年、ドイツ帝国成立①
ドイツは1814年のウィーン会議でのウィーン体制下で、35の君主国と4の自由都市からなるドイツ連邦に再編されていた。1848年の2月革命の影響で3月革命が発生し、プロイセン王は自由主義に基づく憲法制定を約束した。

当時は大ドイツ主義(オーストリアを中心とした統一)と小ドイツ主義(プロイセンを中心とした統一)が対立していたが、1849年のドイツ憲法では小ドイツ主義が採用された。

1871年、ドイツ帝国成立②
1861年にプロイセン国王となったヴィルヘルム1世は、ビルマルクを首相に抜擢し、1866年の普墺戦争でオーストリアに勝利した事でオーストリアを排除した北ドイツ連邦を成立し、1870年の普仏戦争でフランスに勝利しドイツ帝国を成立させた。

排除されたオーストリアは1867年にオーストリア・ハンガリー帝国を成立させた。

第4章 現代(20世紀~21世紀)
1904年、日露戦争①
1876年の日朝修好条規で、日本は清の属国であった朝鮮を独立国とし、1884年に日本の支援を受けた金玉均のクーデター(甲新事変)が失敗すると清と日本の対立は決定的になった。

1885年の天津条約で、朝鮮出兵時の相互事前通告を約束した天津条約を結び、1894年の東学党の乱で出兵した清軍に合わせて日本も出兵し、日清戦争が勃発。勝利した日本は遼東半島や台湾を割譲させるが、ロシアなどの圧力(三国干渉)で遼東半島を返還した。

日本が返還した遼東半島を租借したロシアは1900年の義和団事件に応じて満州に出兵し、事件後も撤退せずに朝鮮への進出を狙った。英国は1902年に日英同盟を結び、ロシアの勢力拡大を警戒した。

1904年、日露戦争②
1904年に日本の仁川、旅順への奇襲攻撃をきっかけに日露戦争が始まる。1905年のポーツマス条約で朝鮮への優越、南満州鉄道の譲渡、南樺太の領有等が日本に認められた。

これ以降、1899年に中国市場の門戸開放と機会均等を提唱した米国と日本は満州権益を巡って対立するようになる。

1911年、辛亥革命①
列強による植民地化への無力から、清朝打倒の革命運動が活発化した。代表的なのは1894年に孫文がハワイで結成した興中会である。孫文は1905年に東京で中国同盟会を組織した。

1911年には清朝が義和団事件の賠償金支払いによる財政危機を打開するために民営鉄道の国有化を宣言した事で、四川で暴動が発生し、辛亥革命の発端となった。

1911年、辛亥革命②
以下の段階。

〇第1革命
1911年に帰国した孫文が南京で臨時大総統に選出され、1912年に中華民国建国を宣言。清朝は軍閥の袁世凱に革命鎮圧を任せたが、袁世凱は革命はと取引をして裏切り清朝は滅んだ。

〇第2革命
袁世凱は孫文から大総統の地位を得て、主導権を奪還しようとする国民党(中国同盟会を母体とする)を弾圧した。国民党は武装蜂起するが鎮圧され、孫文は海外へ亡命した。

〇第3革命
袁世凱は皇帝になろうとするが、反対する武装蜂起が続き、1916年に病死。中国は軍閥が分立する状態になった。

1914年、第1次世界大戦開始①
三国同盟:
1882年にフランス孤立化を目的にドイツ宰相ビスマルクの主導で、ドイツ、イタリア、オーストリアの同盟が結ばれた。ビスマルク辞任後、ヴィルヘルム2世はオスマン・トルコからバグダードの鉄道敷設権を獲得する等して、英国の植民地政策と対立した。

三国協商:
ドイツとロシアの関係は悪化し、ロシアは露仏協商を1891年に結び、英国は1907年に英仏協商、ロシアと1907年に英露協商を結んで三国同盟に対抗した。

当時のバルカン半島ではゲルマン系やスラブ系の民族が混在しており、汎スラブ主義(スラブ民族の言語・文化的統一)と汎ゲルマン主義が対立していた。

1914年、第1次世界大戦開始②
サラエボ事件:
オーストリアが1908年に併合したボスニア州のサラエボで、オーストリア皇太子夫妻が汎スラブ主義のセルビア人青年に暗殺される。オーストリアはオーストリア人判事を入れた裁判を要求したが受け入れられず、セルビアに宣戦布告した。

三国同盟と三国協商の戦いという世界大戦へと拡大していった。戦争は三国協商側の勝利に終わったものの、英国やフランスは没落した。1919年のヴェルサイユ条約で全ての海外植民地を失い、過酷な戦後賠償を課せられたドイツではファシズムが台頭していく。

一方で、戦前は最大の債務国であった米国が、戦時生産によって工業生産力を増大して最大の債権国となった。

1914年、第1次世界大戦開始③
1920年に国際連盟が誕生した。理事国全会一致でのみ制裁が可能である事や米国やソヴィエト連邦が加盟していない欠点があった。

第一次世界大戦後は軍縮の流れがあり、1921年~1922年のワシントン会議で英、米、日、伊、仏、中、蘭、ベルギー、ポルトガルの9カ国により主力艦を制限する海軍軍縮条約、日英同盟破棄が決められ、1930年のロンドン軍縮会議では英、米、日の補助艦の制限が決められた。

1917年、ロシア革命①
ロシア革命は、以下の二つを指す。

①3月革命:1917年にロマノフ朝が倒れた
②11月革命:ソヴィエト連邦成立

3月革命では立憲民主党を主とする臨時政府が成立し戦争を継続したが、戦争に反対するレーニンがボリシェビキ(多数派)を率いて帰国し、11月革命でソヴィエト政権を樹立した。

1917年、ロシア革命②
レーニンを議長とする人民委員会議は重要産業や農地の国有化を推進したが、1918年の普通選挙で社会革命党が第1党になったため武力で議会を閉鎖。ボリシェビキを共産党と改称して一党独裁体制とする。
さらに革命を世界へ広げる国際組織コミンテルン(第3インターナショナル)を1919年に結成した。
成立直後のソヴィエト政権は、自国への革命波及を恐れる列国により、ロシア国内に残されたチェコ軍救出を名目に対ソ干渉戦争(1918年)が行われるが、ソヴェエトは崩壊しなかった。

1917年、ロシア革命③
レーニンは1921年に戦時共産主義を廃止して強制食糧徴発を辞め、農民による余剰農産物の自由販売や私営中小企業の存在を認める新経済政策(ネップ)を採用した。
レーニンの死後、社会主義国家建設を唱えるスターリンと世界革命論を唱えるトロツキーの対立が表面化し、1928年にスターリンはトロツキーを追放し、第1次五か年計画を発。ソヴェエト連邦は世界有数の工業国となり、1933年には国際連盟に加盟した。

<中国>
日本の21ヶ条の要求に対し、五・四運動という反日運動が起こり、1924年に広州で政府を樹立していた孫文の国民党と、ソヴィエト連邦の影響で成立した共産党の第1次国共合作が成立。孫文の死後は蒋介石の指導で北伐(北方軍閥の征討)が行われ、1928年に中国統一が実現した。

1933年、ナチス政権誕生①
1920年代の欧州は、米国の戦後復興資金に依存し、経済回復していたが、1929年10月24日(暗黒の木曜日)に発生した株式大暴落で米国資本が欧州から撤退し恐慌が広がった。

恐慌対策として、海外植民地を多く持つ英国やフランスが排他的ブロック経済を形成し、高関税を課して他国の商品を閉め出す保護主義貿易を行い、有力な海外市場を持たないドイツ、イタリア、日本では有効策を打ち出せない議会政治への失望から、民族主義的なファシズムが支持を集めた。

<イタリア>
ヴェルサイユ体制打破を唱えるムッソリーニが1919年にファシスト党を結成し、1922年にローマへ進軍し首相に就任。1927年にアルバニアを保護国化し、1936年にはエチオピアを併合した。

1933年、ナチス政権誕生②
ドイツでは、ヒトラー率いるナチスが1932年の議会選挙で第1党となり、ワイマール憲法を停止して国会の同意無しに法律を制定出来る全権委任法を可決して一党独裁体制を築いた。
1934年に総統になったヒトラーは1935年にザール地方を奪還して再軍備宣言を行った。

<米国>
フランクリン・ルーズベルト大統領の下で大規模な公共投資で雇用を創出するニューディール政策をとった。

・農業調整法(AAA、1933年)
農産物価格向上を目的に農業生産を制限
・テネシー川流域開発公社(TVA、1933年)
テネシー川流域の総合開発。
・全国産業復興法(NIRA、1933年)
政府による産業統制、労働者の地位保障
・ワグナー法(1935年)
労働者の団結権と団体交渉権保障を立法化

他に1933年のソヴィエト連邦承認や、善隣外交としてラテン・アメリカ諸国への軍事干渉停止等。

<スペイン>
1931年に革命が起こり共和制に移行して、1936年に左翼諸派による人民戦線内閣が誕生したが、フランコ将軍が反乱を起こした(スペイン内乱)ドイツとイタリアはフランコ派を援助した。

1940年、日独伊三国同盟①
1932年に発生した満州事変を、国際連盟に派遣されたリットン調査団は侵略行為とし、日本は1933年に国際連盟を脱退した。同年にドイツも国際連盟を脱退し、1937年に国際連盟を脱退したイタリアも合わせてソヴェエト連盟への対抗を名目に1937年に日独伊防共協定を結んだ。
ヒトラーは1938年にオーストリアを併合し、1939年にチェコ全土の併合に乗り出し、次にポーランドに進出した時点で、1939年9月に第2次世界大戦が開始された。

1940年、日独伊三国同盟②
ソヴィエト連邦は独ソ不可侵条約によってポーランドに進軍し、半分をドイツと分割統治し、バルト三国等を支配下に置いた。
1940年に日本が北部仏領インドシナに進駐すると日独伊三国同盟が結ばれた。この同盟が米国を刺激し、対日石油禁輸等が行われた。

1945年、第2次世界大戦終わる①
1939年のドイツによるポーランド侵攻で始まった第2次世界大戦は欧州中心の戦いであったが、1941年に日本が真珠湾攻撃を行うと戦線はアジアに広がった。

1945年、第2次世界大戦終わる②
1942年6月のミッドウェー海戦で日本が主力空母のほとんどを失うと米国は反撃に転じ、1944年に日本がサイパン、グアムを失うと日本本土が空襲にさらされるようになった。
欧州では、1943年にドイツがスターリングラード攻防戦で敗北し、1943年9月にイタリアは連合国に降伏した。
ドイツは1945年5月に無条件降伏し、日本は同年8月に無条件降伏する。

1945年、第2次世界大戦終わる③
1945年4月にサンフランシスコに50ヵ国が集まり、同年10月に国際連合が発足した。日本の進出により旧宗主国の支配から脱した東南アジア諸国では民族運動が高まり独立を達成する一方で、東欧は社会主義化しソヴィエト連邦の支配下に入った。

中国では対日という共通の目的が無くなった事で国民党と共産党の内戦が起こり(国共内戦)、1949年に敗れた蒋介石が台湾へ逃亡し、中国本土では共産党主導の中華人民共和国が成立した。

台湾に逃れた蒋介石は中華民国として米国に承認され、1971年まで国際連合での代表を維持した。

1950年、朝鮮戦争①
1945年8月15日の日本敗戦と同時に、朝鮮では建国準備委員会が組織され、同年9月には朝鮮人民共和国成立が宣言された。しかし、独立は達成されず、ヤルタ協定に基づき北緯36度線を境にソヴェエト連邦と米国の統治下にはいった。

1948年に南朝鮮で米国主導の選挙が行われ李承晩を大統領にする大韓民国が成立し、同年に北部では北朝鮮民主主義人民共和国が成立した。

1950年、朝鮮戦争②
1950年6月25日、北朝鮮軍が武力統一を目指して38度線を越え朝鮮戦争が始まった。ソウルが陥落すると米国が韓国支援に乗り出し、中国国境の鴨緑江に達すると、中国が義勇軍を派遣して戦線は膠着状態に陥った。

1953年に休戦協定が結ばれ、以後38度線が停戦ラインとなっている。

1950年、朝鮮戦争③
朝鮮戦争では後方補給基地としての日本の重要性が増し、経済が回復に向かった。1950年には警察予備隊が設置され再軍備が開始した。
1951年のサンフランシスコ平和条約で日本は独立を回復し、日米安全保障条約で極東における米国の後方基地として冷戦構造に組み込まれた。

1965年、ヴェトナム戦争①
1945年にホー・チ・ミンがヴェトナム民主共和国の成立を宣言したが、独立を認めないフランスと1946年から第1次インドシナ戦争が始まった。
1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍が大敗すると、ジュネーブ休戦協定が結ばれ、北緯17度線以北にソヴィエト連邦等が支援するヴェトナム民主共和国、以南に米国が支援するヴェトナム共和国が生れた。

ヴェトナム共和国初代大統領ゴ・ディ・ディエムは、次第に国民の支持を失い、政権打倒を目指す南ヴェトナム解放民族戦線(ヴェトコン)が誕生し、ゲリラ活動を行った。

1965年、ヴェトナム戦争②
1964年、北ヴェトナムのトンキン湾で米軍の駆逐艦が北ヴェトナム軍の魚雷攻撃を受けたとされるトンキン湾事件が起きると、米国(ジョンソン大統領)は軍事介入を開始。1965年には大規模な空爆(北爆)を行い、ヴェトナム戦争が始まった。
1968年には北ヴェトナム軍とヴェトコンによる大規模攻勢(テト攻勢)が始まる。

米国のニクソン大統領は、1970年にカンボジア、1971年にラオスに侵攻して北爆を再開するが戦果は拡大し、1973年にはヴェトナムとパリ和平協定を締結した。米軍が撤退した後の南ヴェトナム軍は敗走を重ね、1975年にはサイゴンが陥落し、1976年にはヴェトナム社会主義共和国が成立した。

1965年、ヴェトナム戦争③
1961年に米ソに中立的立場をとる国々が集まり、第1回非同盟諸国首脳会議が開催され、1963年にアフリカ統一機構(OAU)が成立した。
中国は独自の共産主義化を目指し、毛沢東、林彪等が、毛沢東の次の国家主席である劉少奇が資本主義化を企てたとして失脚させ、文化大革命として知識層を弾圧した。

1974年、第4次中東戦争①
第1次世界大戦後の中東では、英国が戦費をユダヤ資本から得るためにパレスチナへのユダヤ人国家建設を約束し、一方ではアラブ諸国に独立承認を約束していたため、入植したユダヤ人とアラブ人との摩擦が発生していた。

第二次世界大戦後、国際連合はユダヤ人国家とパレスチナ人国家にパレスチナを分割する提案を行い、1948年にイスラエルが誕生した。

〇第1次中東戦争(1948年~1949年)
アラブ諸国(エジプト、イラク、サウジアラビア、シリア、レバノン)等によるイスラエルへの武力行使。イスラエルが勝利し、パレスチナ難民が約100万人発生した。パレスチナ難民はパレスチナ解放機構(PLO)を組織しイスラエルと武力闘争を展開していく。

〇第2次中東戦争(1956年~1957年)
アスワン=ハイ=ダム建設のために、エジプト大統領ナセルが、1956年にスエズ運河国有化を宣言し、反対する英国、フランス、イスラエルが武力侵攻した。国際連合の調停で停戦し、スエズ運河の国有化は達成された。

1974年、第4次中東戦争②
〇第3次中東戦争(1970年)
イスラエルが6日間戦争とされる圧倒的勝利でガザ地区、ヨルダン川西岸、シナイ半島、ゴラン高原を獲得。

〇第4次中東戦争(1973年)
エジプト、シリアがイスラエルに侵攻。1968年に結成した石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルを支援する米国に石油禁輸政策をとり、エジプトがスエズ運河を奪還した。

1979年にエジプト・イスラエル和平条約が結ばれたが、他のアラブ諸国の反発を招き、1981年にエジプト大統領サダトは暗殺された。

東西緊張緩和の流れは他国にもあり、1972年に米ソ間で第1次戦略兵器制限交渉が調印され、東西ドイツ基本条約で東西ドイツが相互の主権を承認した(両国の国際連合加盟は1973年)。

1972年には米国大統領ニクソンが訪中し、周恩来首相と会談して国交を正常化した。

1989年、冷戦終結①
1985年にソヴィエト連邦共産党書記長になったゴルバチョフはペレストロイカ(改革)路線を推進し、市場経済導入や言論の自由を認めた。1989年には冷戦終結を米国とのマルタ会談で宣言している。

1990年には東西ドイツが統一され、連鎖的に東欧で共産主義体制が崩壊した(東欧革命)。

1989年、冷戦終結②
1990年のバルト三国独立を皮切りに、ソヴェエト連邦内部で独立要求が高まり、保守派が1991年に反ゴルバチョフのクーデターを起こすが失敗。ゴルバチョフに代わってロシア共和国大統領エリツィンが主導権を握り、1991年12月にゴルバチョフは共産党解党を宣言した。

ソヴェエト連邦は消滅し、ロシア共和国を中心とする独立国家共同体(CIS)が成立した。

1999年、EUのユーロ導入①
1967年にフランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクからなるヨーロッパ共同体(EC)が成立。ECは加盟国間での関税撤廃や城外への共通関税設定等の関税同盟だった。

英国は北欧諸国等とヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を結成していたが、1973年にアイルランド、デンマークとECに加盟した(拡大EC)。

ECはさらに通貨統合を目指し、1991年に単一通貨導入とヨーロッパ中央銀行設立による経済的統合等を目指すマーストリヒト条約を採択し、1993年にはヨーロッパ連合(EU)へと発展した。

1999年には単一通貨ユーロが導入された。ただし、英国、デンマーク、スウェーデンは単一通貨に参加していない。

1999年、EUのユーロ導入②
2004年にバルト三国、ポーランド、チェコ等もEUに加盟した。EU内部では財政状態の違う国の統合を進めた結果、南北格差が生じ、失業が外国人排斥が問題になっている。

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