東アジアの兵器革命

読んだ本の感想。

久芳崇著。2010年12月10日 第一刷発行。



16世紀末の万暦朝鮮の役(文禄・慶長の役:1592年~1598年)において、明や朝鮮の捕虜となった数千人の日本兵が鉄砲と戦術を広めた話。

崇禎11年(1638年)に刊行された『軍器図説』には、輪番による火縄銃の一斉射撃が戦術として紹介されており、中国史料では日本から伝来した事になっているらしい。長城の合戦における鉄砲の三段撃ちは真偽が疑われているが、少なくとも16世紀末の朝鮮の役では使用された戦術であるらしい。

明朝においても16世紀半ばからポルトガルの鉄砲を模した鳥銃を使用していたが、銅の鋳造により製造したものであって五・六発も放てば破裂の危険性があったが、日本製の鉄砲は鉄の鍛造であり破裂の心配が無かった。

その後、日本からの捕虜を得て鍛鉄製鉄砲が朝鮮半島や中国に広まったとする。

<楊応龍の乱>
16世紀末に播州で発生した反乱鎮圧に鉄砲が使用されている。朝鮮の役に従軍した部隊が動員されており、弓矢を主体とする反乱軍を火器を使用して鎮圧したとされる。

朝鮮の役で明軍の火器は有効活用されておらず、明軍が日本軍から鹵獲した鉄砲部隊を活用したのかもしれない。

『神器譜』の巻一には、万暦30年(1602年)の情勢として、「最近では虜を退けるのは、ただ日本の鳥銃でしかない」と記述されているらしい。さらに、『神器譜』の巻四には、万暦25年(1597年)の頃に、モンゴルの大軍が遼東に来寇した際、投降した日本兵の鉄砲による輪番射撃でモンゴル側の首領を負傷させて退けた記述がある。

<明における火器>
明における火器製造は、当初は兵仗局に限定され、王朝の厳格な統制によって管理されていたが、15世紀末から16世紀半ばには辺境の衛所でも火器が製造されるようになっていた。

明代初期に制定された徴兵システムは軍人の大量逃亡等で機能しなくなり、明代中期以降の明軍は私兵集団を中核とするようになる。反乱を起こす可能性のある強大な国内軍事勢力の出現は無かったが、外部からの侵略に弱い状態になる。

明軍の将軍達は、火器を自前で調達するようになり、万暦47年(1619年)のサルフの戦いにて明軍は騎馬中心の女真族に敗れる(火器を十分に調達出来なかった?)。

明朝における火器技術は、主に中国周縁部における軍事担当者に個別に受容されたものであるが、女真族勢力は火器に精通した明朝側の人材を積極的に受容し、八旗の火器専門部隊も編成され、清朝による中国支配に重要な役割を果たすようになる。

明においても火器使用の専門機関である京営を中心に新式火器の導入体制を構築したが、政府統制等が障壁となり有効に機能せず、粗悪な火器が作成されたとする。

<嚕蜜銃>
オスマン帝国から明に伝わった銃。欧州の銃と同時期(1554年頃)に伝来したらしい。

以下は、「戦国日本の津々浦々」の「嚕蜜銃(ルーミー銃)」へのリンク。

http://proto.harisen.jp/mono/mono/rumi-juu.html

日本式鉄砲が小型で、頬付け床尾(頬に床尾を当てて銃を構えて射撃する)、瞬発式発火装置(引き金を引くと火縄が落ちて着火し、弾丸が発射される。瞬時の点火のため命中精度が高い)という特徴を持つのに対し、肩付け床尾(床尾を型に当てて銃を構えて射撃する)、緩発式発火装置(引き金を引くと火縄が押し付けられて着火し、弾丸が発射される。確実に着火し不発が少ない)という特徴がある。

日本式銃と並ぶ鉄砲の主要モデルとなったらしい。

<朝鮮半島の火器>
朝鮮の役における日本兵捕虜を介して日本式鉄砲が伝えられ、鉄砲生産国となる。

万暦47年年(1619年)のサルフの戦いでは、明朝に日本兵鉄砲隊3500人を含む1万3000人の援軍を派遣しており、17世紀中葉にシベリアに進出したロシア軍と黒竜江付近で衝突した清軍が、ロシア軍の火器に圧倒された際は、順治11年(1564年)に朝鮮王朝に鉄砲隊百名の援軍を要請している。

さらに、順治15年(1668年)にも清朝の求めに応じて二百名の鉄砲隊を派遣し、ロシア軍を圧倒している。

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