喧嘩両成敗の誕生

読んだ本の感想。

清水克之著。2006年2月10日第一刷発行。



喧嘩両成敗とは、喧嘩した両者の「理非」を問題にせず、双方を罰する規定である。

日本には「痛み分け」という発想がある。英米法では「全てか無か」という損害賠償の発想を、過失相殺として損害の割合を被害者・加害者で相殺する制度もある。

損害を分担する事で調和を図る発想。

第一章 室町人の面目
室町時代の人々の名誉意識は激しいものだった。

1432年(永享四年)には、立小便している姿を稚児に笑われた事から、北野天満宮と金閣寺の僧侶が衝突し、北野天満宮が襲撃されかかる事件が発生している。

この章では、人々の名誉意識が殺し合いに発展した事例が記述される。こうした意識は江戸前期の武士社会においても共有されたらしい。

第二章 復讐の正当性
16世紀に来日した宣教師ヴァリニャーノは、日本人の名誉意識と、同時に時節が到来するまで忍ぶ陰湿を記述している。

大名でさえも臣下の憤怒を制御出来ず、罰する場合には即時に殺してしまう事があったとする。社会的に復讐としての親敵を殺す事は正当化されていた。

公権力による禁止(御成敗式目第三四条による女敵討禁止等)があっても、慣習的に復讐は継続していた。自力救済(名誉や財産を自分で回復する)が通用する社会。

そうした中では、自殺も復讐手段として存在しており、伊達政宗によって1536年(天文五年)に制定された分国法(塵芥集)では、自殺した者が遺言の敵を記した場合、伊達氏が代わって成敗するという条項がある。

欧米では、自殺した場合、敗北を認めた事になる。

第三章 室町時代の個と集団
室町時代の集団主義について。

不本意なトラブルに巻き込まれた時には、頼もしい支援集団を得る事が大切。

1479年(文明一一年)に発生した五条坊門油小路での妻敵討事件では、梅酒屋という酒屋の主人が妻の密会を知り、間男を殺害している。間男が赤松政則(京都治安維持にあたる侍所を務める)の被官だったが、梅酒屋の息子が板倉氏(幕府重臣である斯波義廉の被官)と主従関係を結んでいた事から、赤松氏と斯波氏の争いに発展する。

⇒この事件は、梅酒屋主人が妻を殺す事で痛み分けの解決となっている

室町時代の諸身分集団は、個々の構成員に危害が及んだ時に、その危害を自らが受けたと同様に見做した。それだから、少しのトラブルが双方の属する集団の争いに発展してしまう。

さらに復讐の対象は加害者当人でなく、加害者が属する集団の誰かに向けられる事もあった。

第四章 室町のオキテ
公認された落ち武者狩りについて。

中世欧州ではアハト刑といって、家族や氏族との関係を断たれる刑罰があった。アハト刑を宣告された者は殺害しても良かったし、法による保護の対象とならなかった。

日本における落ち武者狩もり同様で、敗者からの財産略奪は当然視されていた。

そこで室町幕府は、南朝落胤や公家といった堂々と処刑出来ない者達を流罪とする事で、法外者とし、幕府が死刑執行の責任から逃れる形で殺害する事があったとする。

室町幕府は私刑を封じ込める姿勢をとっていたが、私刑の世界に犯罪者を放擲する事で、事実上の公刑を実現していた。自力救済の社会に依拠する、公権力としての室町幕府。

第五章 喧嘩両成敗のルーツをさぐる
中世から近世にかけての自力救済観念の克服は、権力者による抑圧でなく、それ以前からの紛争解決のための法慣習蓄積によって為されたとする。

双方を同罪とする事に強い拘りがあり、犯罪を穢として関わった双方を抹消する思想があった。著者は衡平感覚と相殺主義と呼ぶ。

日本における「折中の法」として、係争対象の利権を当事者間で折半する事で問題解決を図る思想。一方が確定的に勝利する事は望ましくないとされた(同様の事例は中世欧州にもあるらしい)。

〇中人制
第三者(中人)が紛争調停を行う制度。中人の調停は折中と呼ばれた。

〇解死人制
加害者集団から被害者集団に解死人という謝罪の意を表す人間を差し出す紛争解決慣行。解死人は処刑されず、原則的には解死人の顔を見る事で被害者の名誉が満たされるとした。

第六章 復讐の衝動
古典芸能から考える復讐。

能の演目「正儀世守」:
父敵である大臣を討った正儀、世守という兄弟の処刑を、母親が官人と論争して助け出す話。

母親の論理は敵討ちを正当化するものであり、官人側の「殺人者は死刑にする」という思想と対立する。そして、大臣一人の殺害の罪だから、兄弟の内の一人を処刑しようという提案に対し、誰もが他を庇おうとするため、全員の罪が許される。

*****************

室町幕府は自力救済の慣行に依拠しながらも、それを乗り越えようという志向性もあり、本人切腹制が自力救済抑止のための具体的紛争解決原則だった。

切腹は名誉ある処刑方法とされ、罪の責任を加害者だけに負わせる事による反発を誇り高い処刑方法で補った事になる。そして室町幕府は被害者が何人いようと加害者一人を処罰する事に固執したらしい。

しかし、例えば1424年(応永三一年)の守護大名 赤松氏の四男が将軍近習を殺害した事件では、加害者が失踪したために無関係の代官が切腹している。

本人切腹制の貫徹は困難だったようだ。当事者も本人の処遇ではなく、喧嘩が集団間の紛争に発展した以上、相殺主義に照らして妥当な身分の者が処刑される事を望んだ。

第七章 自力救済から裁判へ
喧嘩両成敗と裁判は本質的に矛盾する制度である。

江戸幕府は関ヶ原の戦いや大阪冬の陣・夏の陣、将軍上洛の時等に喧嘩両成敗法を発令しているが、それは臨時的措置で原則的には喧嘩両成敗を採用していない。

支配権を公的なものへ高めるために公正な裁判を実現する必要があった。紛争を民衆の自力解決に委ねるのでなく、権力者の法廷に訴え出させる。

中世以来の法慣習は戦国大名によって体制化されていき、それは江戸幕府に結集する。

〇赤穂事件
1701年(元禄一四年)の赤穂事件では、喧嘩両成敗が適用されなかった事で騒動が発生し、最終的に双方が痛み分けの採決となっている。

当時の記録では、松ノ廊下事件の審理に当たった目付 多門重共が「あまりに片手落ち」と抗議したり、儒学者の浅見絅斎が喧嘩両成敗を採用すべきと自著で述べている。

18世紀になっても衡平を実現するためなら、事件の原因特定に拘らない感覚があった。

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