古事記のひみつ

読んだ本の感想。

三浦佑之著。2007年4月1日 第一版発行。



歴史書の成立―プロローグ
「古事記」と「日本書紀」の違い。

例えばヤマトタケルの扱いが違う。古事記では、兄を殺し父に疎まれる存在であるが、日本書紀では親和的な親子関係になっている。

著者は、「古事記」を日本書紀以前の書物と考えている。

「日本書」の構想
史書と法―歴史を占有する国家
古代大和政権は、血縁等によらず成り立つ社会を目指し、法(律令)と法の根拠としての歴史書、経済を活性化する貨幣、中核としての王都を中国に倣い導入した。

それらは漢字という伝達手段によって統括される。

自分達が国家に帰属するという幻想には「歴史」が必要である。支配者の出自と、臣民との繋がりを確認する事により、安定した持続が可能になる。小規模な共同体では口頭伝達で構わないが、国家では文字による伝達が求められる。

大和朝廷が典拠とした中国の正史は、①紀(起源と天皇の事績)、②志(治世や国土)、③伝(臣下や人民の事績)の三つが揃った紀伝体の形式を取り、編年体の体裁を取る史書を「○紀」と呼び、「日本書紀」とは日本書の紀であったのが余白が詰まり、「日本書紀」になったとされる。

当初の「日本書」の構想では「志」、「伝」も記述される予定だったが、頓挫したものと思われる(「続日本紀」には「紀三十巻」と書かれている事も、「紀」以外の構想が存していた事を裏付ける)。

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「日本書紀」では聖徳太子に始まる史書と法の編纂が、大化の改新によって中大兄皇子に引き継がれ、壬申の乱を経て天武天皇によって確立された事になっている。

天武朝における法と歴史
「日本書紀」によると、法の選定作業と史書の編纂作業は681年に相次いで天武天皇の詔によって開始された事になっている。法と歴史書は一体の国家事業だった。

著者は、上記の前提から同時期に「日本書紀」と「古事記」という内容が異なる二つの歴史書が編纂された事を矛盾とし、「古事記」が和銅五年に選録されたという古事記「序」を捏造とする。

「日本書 志」としての風土記
713年(和銅六年)に風土記選録の官命が出される。天皇家の事績を記録する「日本書紀」は縦の時間軸を保証するが、国土の記録として横の時間軸を掌握する試みと思われる。

「日本書 志」を編纂する資料収集目的?以下の要求。

①群や郷の名に好い字を付ける
②特産品目録作成
③土地の肥沃状態記録
④山川原野の名前の由来を記す
⑤古老が相伝する旧聞異事の記載

現在では五ヵ国(常陸、播磨、出雲、豊後、肥前)の報告文書と逸文が遺されている。各国に根付いた歴史(幻想)を掌握するつもりが、その混沌を「日本書 地理志」は実現出来なかったのかもしれない。

<出雲風土記>
国府のある意字群(都を起点とする山陰道の入り口)から反時計回りに各郡の記事を並べ、土地の肥沃状態を除いた四項目を記録する。
しかし、「国引き詞章」では、巨神 八束水臣津野命の鎮座した「意字の杜」を定点として、島根半島を西から東に俯瞰する構図を持つ。

⇒大和を中心とする国家が介在する以前に、出雲を中心とする版図の認識があった?

「日本書 伝」の構想
「続日本紀」には、親に孝行した子を顕彰する記事等が多く挿入されるが、それらは「日本書 伝」の変形かもしれない。

「聖徳太子伝」や「中臣鎌足伝」は存在する。浦島太郎の元祖 浦島子は、「日本書 伝」に加えられる人物だったかもしれない。

「日本書紀」の雄略22年には丹波の余杜群に浦嶋子がいたという記述がある。「話は別巻にあり」とされている事から、先行文献の存在が示唆されており、「万葉集」の歌人 高橋連虫麻呂が浦島子歌を作った時期より古い。

著者は、別巻とは、丹後国風土記逸文に遺された「浦島子伝」の冒頭部分にある伊預部馬養連が記した書物と推測する。「日本書 伝」が完成しなかったために、別巻とありながら該当する巻が「日本書紀」に存在しないと考える。

日本書紀の方法
日本書紀の神話叙述
「日本書紀」以前の歴史は、「過ぎていった歴史」を叙述するのでなく、季節のような「繰り返される時間」を説明する起源譚であったと思われる。

「日本書紀」では冒頭二巻を神代として、三巻以降に天皇の記事を連ねていく。神の世も過ぎ去った時間として歴史化する。中国の歴史とは違い、神々の時代から切れ目の無い時間が認識される。

多くの異伝を正伝と並べている事も特徴的であるが、正伝だけを読めば明瞭な展開を持つ。出雲神話が無い事からも、天皇家の事績を継起する時間の中で叙述する事が目的であり、その代償のように異伝が並べられる。

巻三以降は天皇に纏わる唯一の伝えのみが記述され、神代記における異伝は正伝を確認する方法でしかない。異伝にもくわえられなかった伝承は消えてしまう。

天皇像と皇太子象の構想
巻三以降の各天皇紀は編年体の体裁をとり、天皇の事績を中心に年月を追って事件を記述する。

「日本書紀」においては歴史を所有する支配者としての天皇像が強調されるが、「古事記」では息子であるヤマトタケルを恐れる景行天皇等の記述がある。

⇒「日本書紀」は安定した国家を記述する必要があった

時代の節目に賢い皇太子を配す事も特徴的で、「古事記」では仁徳天皇の弟である菟道稚郎子は病弱であるが、「日本書紀」では儒教的教養を身に付けた智者として描かれている。

管理される歴史
「日本書紀」によって完成された歴史は、天皇家を基軸とした神話によって、各部族の祭祀の起源や出自を一元化してしまう。

八世紀から九世紀にかけて出現した氏族神話(氏文)は、そのような状況で出現したとする。

現存する氏文は、「高橋氏文」、「古語拾遺」、「新撰亀相記」、「先代旧事本紀」、「住吉大社神代記」等がある。

古事記の成立
古事記偽書説について
古事記偽書説は、1979年に太安万侶の墓誌が見つかった頃から勢いを失ったとする。

以下の偽書説の根拠。著者は、「序」が偽りという立場を取る。

①続日本紀に撰録の記事が無い
②日本書紀に引用されない
③平安時代まで他書で存在が確認出来ない
万葉集の巻二・九〇番歌題詞に、「古事記曰、」とある軽太子と衣通王との恋物語の引用がある。

④序としながら上表文の体裁をとる
⑤署名が不備
⑥稗田阿礼が疑わしい
⑦序文の壬申の乱の記事が日本書紀に基づく
⑧本文に平安朝で無ければ書けない記事がある
⑨本文の万葉仮名が奈良朝以後の用法
「延喜式」祝詞に用いられた音仮名と近い用法とするが、古事記も延喜式も一般的な万葉仮名の用法に立脚しているだけであり、木簡の用字とも似ている。

特に、「上代特殊仮名遣い」における「も」の書き分けが偽書説への反論とする。八世紀の文献に用いられる「き、ひ、み、け、へ、め、こ、そ、と、の、よ、ろ」の12音については二種類の発音が区別されており、単語によって用いられる漢字の種類が違う。

古事記においては「も」の書き分けも見出され、古事記本文の成立が「序」より古い可能性を示す。同様の「も」の区別は万葉集 巻五の音仮名、702年の戸籍の用字にも残存するらしい。

⑩序文の日付は仮託されたもの

古事記「序」という存在
「序」は、書物の成立や内容を伝えるために添えられる文章である。

古事記の「序」は、文章の冒頭に「序」と記されながらも、上表文として書物の完成を命令者である君主に奏上する文章になっている。この形式は、弘仁年間(810年~824年)に見られるようになり、和銅五年の百年後である。

また、「序」で掲げられた古事記の内容紹介で、出雲神話が含まれず、中巻や下巻でも神武東征や崇神の夢、仁徳の炊煙等の取るに足らない業績を選んでおり、古事記本文を理解していない人物が書いたように思われる。

古事記とはいかなる書物か
著者は、古事記を律令国家において企図された書物とは考えない。

620年(推古28年)に編纂された天皇記、国記に連なる書物とした方が分かり易い。安康天皇を殺したマヨワを庇うツブラノオホミの話等、天皇に背く人物が記述され反律令的な性格を持つ。

偽造された古事記「序」
著者は、古事記の「序」は九世紀初頭に書かれたと推定する。

日本書紀の講書(日本書紀の訓読や講義をする公的行事)の講義記録とされる「弘仁私記」の「序」の一部が古事記の「序」と似ている。

「弘仁私記」の「序」は太朝臣安麻呂の同族である多朝臣人長が講師となって日本書紀を講じた際に書かれたとされる。著者は多氏一族が古事記の「序」の作成に関与したとする。

「弘仁私記 序」では嵯峨天皇が本記に誤りが混じるのを防ぐために講書を命じたとあり、この論理は「古事記 序」と同じである。

「先代旧事本紀」に「序」が書き加えられたのが九世紀初頭とされるが、この時代には歴史書を権威化するために「序」を書き加える流れがあったのかもしれない。

古事記の古層性
比喩の古層性
古事記の神話には音声表現の痕跡が多く見られる。

古事記では、ウマシアシカビヒコヂという神が、葦の芽のように萌え騰がる物によって生まれたとする。

上記は単純には比喩と言えず、ウマシアシカビヒコヂは葦牙そのものとも言える(神名はアシカビ)。比喩と比喩される対象とに分化されず、口頭的な表現であったものと思われる。

日本書紀では、あしかびの如く誕生した神は「国常立尊」であり、葦牙の如くは修辞としての直喩として自立する。古事記は音声を保持し続けており、表現の質が古い。

天津麻羅の象徴性
純粋な漢文体を志向した日本書紀には見られない表現。

<伊弉諾と伊弉冉の性交>
「成り合はぬ処」と「成り余れる処」の結合として書かれる。日本書紀では「雌の元」と「雄の元」と表している。古事記では韻を踏んだ語呂合わせから、音声を媒介にした表現と推測する。

<天の岩屋>
日本書紀の正伝では鏡作りの作業が描かれていない。古事記では鍛人 天津麻羅が女神 イシコリドメとの競作によって八咫の鏡を打ち出す。鍛人のマラ(男根)が石のように固くなるという意味であり、鉄を固めて鏡を作る作業と、天津麻羅の男根を固くする術とが二重化されている。

⇒古事記では和語を指向し、音声が残存している

古事記系譜の古層性
古事記は母系の系譜を伝えている。

神武天皇から用明天皇に至る31代の天皇系譜にて、29名の天皇に合計84名の后妃との結婚が記され、ほとんどの后妃は父親の名が記される。しかし、14名は父親の名を記さないで母や兄の名を記載したり、当人を祖としている。

例えば、垂仁天皇の条にて語られるサホビコ、サホビメの兄妹の母親(沙本之大闇見戸売)の親について父親の名でなく、母親の名(春日建国勝戸売)が記される。

ちなみに日本書紀では39代の天皇の后妃131名の内、8名が母系と見做せる(当人を祖とする事例は無い)。「祖」であった女性を、某之女としてしまう改変の逆は考えられず、古事記の系譜が日本書紀の系譜に変えられたと想定出来る。

<祖となる女性>
①河俣毘売(綏靖):師木県主の祖
②賦登麻和訶比賣命 (懿徳):師木県主の祖
③意富阿麻比売(崇神):尾張連の祖
④若比売(継体):三尾気等の祖

天皇家は父系継承の一族であり、母系継承の一族から後継者を娶ると、その一族が母系を捨てて父系に移行する事になる。日本書紀では兄妹による系譜を改変している様子もあり、古事記の系譜概念との違いが分かる。それは二代目の綏靖から九代目の開化に至る婚姻記事に特によく見え、県主と呼ばれる奈良盆地に本拠地を持つ大和の豪族層に多い。

これは天皇家の初期において、父系継承の一族が母系継承の一族を同化させていく過程とも思える。古事記系譜では継体天皇の時代で系譜に対する認識が違って?おり、先代天皇の女が次の天皇の后妃になる傾向がある。純血観念の成立?

倭武天皇
倭武天皇という呼称
常陸国風土記には、倭武天皇(ヤマトタケル)という、日本書紀や古事記に登場しない天皇の伝承がある。

風土記撰録の官命が出たのは、713年だが常陸国風土記が「群―里」の行政呼称を用いる事から、郷里制が施行される717年以前に成立した書物と思われる。

天皇系譜が日本書紀にて正式に認められたのは720年と思われ、それ以前には別の系譜があった可能性がある。

古事記中巻で直系の父子継承でないのは、十二代目の景行天皇とヤマトタケルの子である十四代目の仲哀天皇のみ。古事記ではヤマトタケルの物語の後に、ヤマトタケルの妃や子女の系譜が詳細に記述される。天皇以外では例外的で他に開化天皇の子である日子坐王に見い出せるのみ。

タチバナと倭武天皇
古事記や日本書紀では常陸国はヤマトタケルの通過点でしかないが、常陸国風土記では南端と北端にて土地の名付けをする等の事績を残している。

記紀との共通点は少ないが、タチバナという后との物語が共通する。

いくつもの倭武天皇
井戸を掘るエピソードや討伐エピソードの紹介。

律令国家として成立する以前の大和において、東国を征服した倭武天皇が存在したのかもしれない。さらに常陸国風土記のヤマトタケルには悲劇性が無く、常陸国風土記が編纂された時にはヤマトタケルの物語は確定していなかったと考えられる。

他に、ヤマトタケルの子である仲哀天皇の后である「息長帯比売(神功皇后)」は、日本書紀との記述と違い、常陸国風土記では中央で即位した事になっている。

神功皇后の子である応神天皇を始祖的存在とするために、神功皇后を聖母に位置付ける改変が行われたのかもしれない。

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