世の初めから隠されていること

読んだ本の感想。

ルネ・ジラール著。1984年3月30日 初版第1刷発行。



集団的私刑によって共同体の基礎が形成される事。その例外としてのキリスト教について。

第一編 基礎となる人類学
第一章 犠牲のメカニズム、つまり宗教的なものの基礎
人間の行動で習得されたものでなくものは無い。修得は真似(模倣)に帰着する。

模倣により、同一対象を複数が欲しがる場合、横取りが発生する。禁忌(礼儀)とは、模倣による敵対を避けるために他者の前で控えめにする事である。多くの社会における禁忌は、真似る行為の禁止である。逆に、儀礼(集団的私刑の再現)においては模倣による暴力を再現する事で共同体を再構成する。

群衆には、自らの感情を特定個人に想像力によって集中させようとする傾向があり、儀礼による生贄には一時的に集団の不満を解消する効果がある。

暴力や敵対に熱中する者達は、互いに真似し合い、相手の幻影に姿を変える。近代社会においては、法的制度によって暴力行為を他から遊離した犯罪と見做すが、それが存在しない原始社会では暴力の模倣による伝播を防止しなくてはならない。

第二章 文化と諸制度の発生
あらゆる人間の文化は、生贄によって説明出来るとする。

王位とは、一人の人間を身代わりの犠牲者とした和解のメカニズムを再現しようとした事から始まったとする。次代の王は、最初の犠牲者が犯した罪を全て犯す事が求められる。王とは執行を猶予された犠牲者だ。

王は、あらゆる不和の根源という形で恐怖を与える力を持っている。猶予期間が長ければ、代用の供物を捧げる事も出来る。

王権だけでなく、例えば動物の家畜化も生贄から始まったとする。家畜化には、動物を人間なみに扱う動機が必要で、将来的な利得を原始人が想像したとは思い難い。生贄は、共同体構成員と別な存在であり、且つ、構成員に似ていなくてはならない。

アイヌ人の熊祭りでは、子熊を共同体の子供と一緒に育て、定められた日に儀礼によって犠牲とする。犠牲になった熊は神として部族に食べれれるが、こうした行為が家畜化の原点とする。

第三章 人間化の過程
共同体にとって、怒りは破壊的な作用を齎す。組織化において、怒りの抑制と支配者を目指す無制限の上昇欲求抑止は基本的条件である。

位階制は、下位者が上位者を模倣する事を阻止するので、内輪揉めを防ぐ効果がある。能力による位階を定める近代社会は、動物の社会に似ている。

第四章 神話、偽装された基礎づくりのリンチ
集団的私刑の痕跡は消去されようとする。

あらゆる神話において、犠牲者は神とされる。神である故に混乱に責任がある。受身の媒介物とはされない。犠牲者は全能の力を持ち、そのために殺されなくてはならない。

第五章 迫害のテクスト
歴史的にも少数者への私刑は繰り返されている(ユダヤ人への迫害等)。

共同体が危機に陥る(階級差消失、伝統的価値零落等)時に、少数民族が嬰児殺しや近親相姦、瀆神等の罪を犯し、共同体浄化の対象となる。これは神話のパターンであるし、歴史的パターンでもある。

人間は、至る所で分身同士の戦いを行い、自分達が確信を持つ神話を吹聴する。人間科学が、人間同士に差異が無い事を証明する時、それと気が付かずに機能していた犠牲のメカニズムが消失するかもしれない。

第二編 旧約・新約聖書のエクリチュール
第一章 世の初めから隠されていること
聖書では、以下のパターンがある。

①共同体の構成要素である差異と階級の消失
バベルの塔の混乱やソドムとゴモラの腐敗、ノアの方舟等。
②集団による暴力の「一人対全員」
アダムとエバの追放、ヤコブの祝福等、基礎作りとしての追放や殺人。
③禁忌と儀礼の制度の完成
アブラハムがイサクを生贄にする時、羊を代わりにするよう神託が下る。

カインとアベルの神話では、結局はカインが権力を手に入れるとしても、烙印を押された追放者であり、そこが他の神話とは異なるとする。ユダヤの聖書編集においては、犠牲者(アベル)が罪を犯しておらず、暴力よって築かれた文化はその性格を保ち続け、供儀の効果が切れると文化が破壊される事を示すとしている。

聖書におけるサタンは暴力の循環的機構であり、模倣の全過程に与えられた名でもある。キリストは、偽りの秩序の根源を否定する。人間は己の暴力を否定するが、イエスは文化の基礎が暴力であるとした事で恨みをかう(ルナ、一一の四四では、「あなた方は、全く人目につかぬ墓のようなものだ」と指摘している)。

第二章 福音書のテクストの非供儀的な読み
福音書は供儀の効力を否定する。

キリストの磔刑は供儀でなく受難である。福音書には人間の暴力はあっても神の暴力は無い。イエスは暴力は自らに返って来るとして、暴力の神聖化を拒否する。暴力から抜け出すには、報いという観念を捨てなければならない。誰もが最初に暴力を振るうのは自分だとは思っていないし、自らの暴力は相手からの暴力の結果だと思う。報復の権利、正当防衛を放棄しなくてはならない。

イエスは、一切の報復を捨てる神以外を模倣してはならないとし、イエスは自由意志に基づく犠牲者となる事で、超越された犠牲者となる。

第三章 供犠的な読みと歴史的なキリスト教
供犠においては犠牲者は神聖化され、不滅な者となる。王は生きている神であり、神とは死んだ王なのだ。

『ヘブライ人への手紙』では、イエスの受難を供犠と解釈する。

イエスの死が供犠であったならば、復活は磔刑によって作り出されたものとなる。しかし、正統派神学においてキリストの神性は人間性の外にあり、生存中に起こった事件に依存しない。聖書は反供犠的システムによって動かされており、以下のように人間化された供儀のシステムが確立されている。

①族長時代
人間の供犠から動物の供犠への移行。

②脱出の書
復活祭の制度により、仲間内の食事が重視される。

③供犠の放棄
福音書にて達成される。

第四章 ヘラククレイトスの「ロゴス」とヨハネの「ロゴス」
キリスト教哲学の出現により、ギリシア的ロゴスとキリスト教のロゴスが接近した。

キリスト教的ロゴスは戒律や命令を伝える伝令であるが、ギリシア哲学のロゴスは分身同士が危害を与えないようにする差異である。

第三編 個人対個人の心理学
第一章 模倣性の欲望
模倣性を持った組織破壊と再構成について。

破壊的な対立関係が極度に高まると、恐怖の高まりを再生してみせる儀礼によって、他人を「もう一人の自分」として見る能力と反省力が生み出される?

近代社会では模倣性の欲望が解放されており、大勢の人間が競合し合って闘争し、不安を掻き立てられている。現代では、ある者に禁じられ、他の者に許される禁忌や成人儀礼も無い。欲望の自発性を称賛する神話的解決がある。

他者と競合して勝利し満足するには、勝利した事による満足と深まる渇望との偏差が拡がらない内に勝利しなくてはならない。偏差が大きい場合、欲望は新しい対象を探すため、勝利は最悪の事態への加速度的進展となる。

第二章 対象のない欲望
無意識の模倣とは、人間関係の中での伝染であり、免れる者はいない。

暴力行為の一方が感じる事は、相手にも見出され、誰かについて何かを言えば、それを他の人間についても言わなくてはならなくなる(分身の関係)。

模倣性の敵対者同士の争いが重視されると、欲望の対象は問題ではなくなる。

第三章 模倣と性衝動
容易に達成出来る目標の向こうには失望が待ち受けており、主体は乗り来えられない障害を求める。そのため、欲望が対象を選ぶ時、不屈の敵を必要とする。

マゾヒズムは芝居であり、現実的な状況を真似ている。乗り越え難い邪魔者との関係を再現。フロイトの一時的マゾヒズムは、闘争性の模倣が敵対者の成功型を見た時から、闘争性の模倣と同じものになる。二次的マゾヒズムは性快楽と関係し、敵対者であるモデルに勝利者を演じさせ、自分の失敗を演じ続ける。

主体に向けられる暴力は、主体が欲しいものの存在を保証する。

第四章 精神分析的神話学
模倣による欲望において、主体は徹底的な勝利も敗北も望まない。主体が勝利した場合、対象の価値は低下する。敵対者がいない場合、主体は虚無と対峙しなくてはならない。

フロイトは、自分以外を対象とする男性の欲望(性的対象の過大評価)と、自分自身を対象とする女性の欲望(対象を過大評価しない)を提唱した。この場合、女性が欲望の対象となるには、自らを欲望の対象とし、模倣を誘発しなくてはならない。

現代の文学には、主体(考える人々)が、供犠が変調をきたしていないと思い込んでいる人々に囚われているパターンがある?非神秘化への欲求。

第五章 つまづきのかなた
プルーストの初期作品『ジャン・サントゥイユ』の主人公のありのままの姿とされる全ての態度(ナルシズム的主観性)の表現は、『失われた時を求めて』では恋愛や社交の欲望の「策略」として書き込まれる傾向がある。

『ジャン・サントゥイユ』では主人公の得意げな様子を観客が見守るが、『失われた時を求めて』では語り手が観客に入り貴族階級の超現実的様子を見つめる。

⇒初期のプルーストは、自己充足が存在し、掴み取る事が出来ると思っていたが、方向転換したものと思われる

現代人は、分身や身代わりの犠牲者等の模倣作用に関する問題と対峙しなくてはならない。

つまづき(旧約聖書でヤハウェによって各人の足元に置かれた石)は、不自由な者と身代わりの犠牲者と結び付く。旧約聖書におけるつまづきとは偶像崇拝で、邪魔なものを神格化し、物質で有形化した身代わりの犠牲者。

外敵の役割は、全ての者にとって邪魔者である事により、集団の内部崩壊の総仕上げをする事にある。人間同士の柵が消えると、人間は互いにつまづきの石となる。互いに、罪ある者と罪無き者を差異化し、責任の所在を明らかにし、卑劣な行為を究明し、相応の罰を与えようと欲望が生み出される。

⇒つまづきが、原因を明らかにしようとする好奇心を呼び覚ます

秘密解明の行為は、つまづきを解消するとしながら、実際にはつまづきを強化していき、熱中すればするほど敵対者同士の差異は無くなっていく(裁かれたくないのなら、人を裁いてはならない)。

他人に対して判断を下す者は、論理型やメタ言語の中で、自分だけは認識論の断層の向こう側におり、自分だけは判断から免れると思い込んでいる。しかし、それは幻想だ。

福音書や新約聖書は、イエスを真似るべきと主張する。絶対的な存在を求める者は常に敗れる。非暴力的な真似の推奨。

結びとして……
科学的な精神は、所与から遠ざかる事で遠くから眺める事で真理に到達しようとする。

科学的精神の発達は人間社会に一つの危機を齎している。過去においては、共同体の危機にははみ出した人間を暴力の犠牲とし、共同体の外へ追い出す事で解決したが、現代では暴力に頼らず、はみ出した人間もいない形で和解しなければならない。

人間の理解を超える平和?

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