天皇と官僚

読んだ本の感想。

笠原英彦著。1998年12月4日 第一版第一刷。



日本の中央集権化は蘇我氏を中心にして六世紀中葉以降、段階的に進められ、七世紀に加速したとする。

古代中国では秩序安定のために律が令に先立って編纂されたが、日本では統治機構整備のための令の編纂が優先された。中央集権化は官僚機構発展を促進し、令によって官僚に公的身分秩序や規範を提示する。

日本の官僚制は、壬申の乱を契機に飛躍的に高まった天皇の権威を背景に、持統朝期に基礎的枠組みが設定されたとする。

<大化の改新以前>
蘇我氏の専横が実態以上に誇張されているとする。推古女帝崩御後の皇位継承問題では、蘇我蝦夷が強く自己主張出来ない様子が日本書紀に記述されており、強い権力主体不在を印象付ける。

大夫という政治的地位が形成されており、大王の下で朝政に参議したとする。推古女帝が「必従群言」と山背大兄王子に遺言している事から、大夫層の政治的強さが伺える。

乙巳の変は、豪族による覇権争いであり、政変後発足した政権も連合政権であったが、唐制に倣って内廷と外廷が一体化されていく過程でもある。

<持統天皇>
皇位安定化のために、自分の子孫に天皇位が受け継がれていく体制を作る事を目指す?壬申の乱の功臣に対抗するために、律令官僚として藤原不比等を重用。

それまでは兄弟間での皇位継承が一般的であり、直系相承は慣習化されていなかった。幼帝でも政治が行えるように、官僚制を整備していく。

天武帝においては、皇親政治を志向し、執政権を持たない太政官(豪族を納言として収容)と大弁官(官司に勅命を伝える)を組織し、中央集権体制を採用した。

浄御原令では、太政官と大弁官を融合して臣下が政治参加出来るようにし、納言を再編して大納言を執政官、少納言を秘書官とした。

⇒指揮命令系統を整備し、文書行政に対応したシステム

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〇太政官
律令制の最高統治機関。

唐の中央統治機関としては、尚書省(統括的に行政を指揮)、中書省(詔勅等の起草)、門下省(詔勅を審議)という三省からなり、各省が牽制し合う事で皇帝の権力が保たれるとする。

日本では、太政官に権力が一元的に集中する。すなわち太政官となった貴族官僚が実権を握る。前王朝を打倒した現実の覇者である中華皇帝と、万世一系という宗教的権威である天皇の違いとする。

七世紀後半を通じて形成された太政官は、八世紀初頭に完成し、八世紀後半以降に安定期に入ったものと思われる。

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古代日本においては、壬申の乱を契機に天皇の権威が高まり、持統朝期に律令国家の基礎的枠組みが定められたとする。畿内では天皇と貴族の権力が対置されたが、両者は全国支配確立については利害が一致しており、律令法上は天皇の超法規的位置付けを承認し、太政官に結集した貴族が天皇の意思を審議する体制が形成された。

畿内政権は地方領主を通じて地方を支配しており、中国の律令では禁じられていた所部からの供給や伝統的な贄を認める等、大幅な自立性を在地領主に持たせていた。

やがて地方統治における天皇への政治的需要が低下し、宗教的権威としての位置付けが強まっていく事になる。

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