日本書紀の読み方

読んだ本の感想。

遠山美都男編。2004年3月10日第一刷発行。



日本書紀1巻、2巻は神々の物語を記述するが、段落毎に内容の違う複数の所伝を挿入しており、物語が複雑になっている。

第1章 スサノヲ神話を読み解く
スサノヲの乱暴と大祓の関係。

祓:
不可視の宗教的罪を取り払い秩序の正常化を図る。

禊:
水を注いで汚れを洗い流し清浄化する。

スサノヲの乱暴行為はアマテラスの怒りを招くが、日本書紀では罪と記されていない。

以下の解釈。

①生きている馬の皮を剥ぐ
スサノヲは馬の皮を剥ぎ、斎服殿に投げ込むが、馬を生贄と解釈する事が出来る。古代に行われた牛馬の皮を剥ぐ犠牲行事の名残である可能性。「逆皮をかけて」という記述から、普段とは反対の扱いをした事を示され、非日常を感じさせる。

また、ユーラシア北部のアルタイ系狩猟民族には、生剥した獣肉や皮を屋根から搬入する儀礼があるとしている。

②馬伏
スサノヲは馬をアマテラスの田に放ち、田の中に伏せさせたとある。馬が生贄とすると、生贄を肥やす行為であったかもしれない。

③大便
スサノヲは、密かに新宮で大便をしたとされる。古事記神武天皇段には、神武天皇と后となるホトタタライススキヒメは、三輪山の大物主がセヤダタラヒメが大便をしている時に、矢に化けて交わって生まれた御子としている。

崇神天皇十年条にも、大物主の妻が箸で陰部を衝いて亡くなる話があるが、用便の後始末に用いる箸状の木片である。

アマテラスが陰部を箸で衝く事が儀礼的性交を示唆しているのなら、スサノヲの大便も儀礼的行為の名残かもしれない。

④畦放
田の畔を破壊する行為。これは社会秩序の更新を意味する準備儀礼だったかもしれない。

⇒スサノヲが放逐される原因となった乱暴行為と、大祓詞の天つ罪が対応する事から、スサノヲ神話は宗教的儀礼の原初を表すのかもしれない

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日本書紀では、神話体系化のために、スサノヲが出雲へ降る理由を説明する必要があり、高天原で重罪を犯したために追放されたとした可能性がある。

その罪は祭祀空間でのみ許された神聖を日常生活で行った事である。

また、アマテラスはスサノヲが投げ込んだ馬に驚いて陰部を傷つけるが、これは姉弟の近親相姦を隠しているかもしれない。ウケヒで神々を生む行為も性交を暗示している。

第2章 崇神天皇は実在したか?
埼玉県行田市 稲荷山古墳出土の鉄剣に記された文字から、辛亥年(西暦471年)に、ワカタケル王という王が存在した事が推測される。古墳に埋葬された人物の祖はオホヒコ(崇神天皇に任命された四道将軍の一人)とされ、崇神天皇の実在も示唆する?

神武天皇は、「初めて天下を馭した天皇」=「ハツクニシラス天皇」と記述されるが、崇神天皇も初めて人口調査を行った「御国肇天皇」=「ハツクニシラス天皇」となる。古事記では神武天皇をハツクニシラス天皇としないが、崇神天皇を「初国知らしし御真木天皇」と記す。

神武天皇と崇神天皇の間にいる天皇は、欠史八代とされ、実在した可能性が無いとする。本当の初代は崇神天皇で、それ以前は創作である可能性。

しかし、著者は、日本書紀が神武天皇の「クニ」を天下、崇神天皇の「クニ」を国と書き分けており、神武が支配した周辺よりも崇神が支配した大和との違いを記す可能性を指摘する。崇神天皇も実在していない?

日本書紀の展開する物語は、以下の二段階からなる。

①崇神天皇以前(軍事的平定)
神武天皇がヤマトに東征し、奈良盆地を中心に軍事的に支配する。その後の八代の天皇がヤマト各地の祭祀を司る県主一族の娘を娶る事で祭祀権を掌握していく。

②崇神天皇以後(宗教的平定)
崇神天皇の代で、オホモノヌシやヤマトノオホクニタマノカミ等のヤマト有数の神々が天皇によって正式に祭られる事になる。次の垂仁天皇の時代には、皇祖神アマテラスを祭る伊勢神宮が創始される。

崇神天皇の時代までにヤマトが天皇の支配下となり、その外縁部に支配が拡大していく話になる。

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著者は、崇神天皇が四道将軍を外部に派遣した話に注目する(古事記では三人)。

日本書紀では、北陸、東海、西道と三つまで漠然と方角を表すが、残りの一つだけ丹波と具体的な地名を記している。四道将軍の一人であるタニハノチヌシが派遣された丹波の先には山陰道を代表する出雲があるので、出雲に派遣されないのは不思議。

日本書紀の歴史像では、出雲の軍事的平定は天皇家の祖先であるホノニニギノミコトが高天原から降臨する前に完了しているので辻褄合わせのためかもしれない。

四道将軍とは、本当は宗教的平定のために諸国の祭祀を我が物にする使者だったのかもしれない。崇神天皇60年には、出雲の神宝が天皇に献上された話がある。

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崇神天皇の名前であるミマキイリヒコイニエという名前の分析。

ミマキ:
貴人の末裔の墳墓(箸墓古墳の造営に対応している?)。

イリヒコ:
神が憑つ付く事をイリとも言う。霊媒の能力を持った男性(オホノモヌシに憑依されたヤマトトトトビモモソヒメの託宣によって疾病蔓延の理由を突き止めた逸話に対応)。

イニエ:
神にささげる贄の意味?崇神記には、天皇が神々を祭り始めるにあたって、神地を献上したとある。

⇒名前の語意を分析すると実在性に乏しいとする。崇神記を構成するエピソードに由来する語彙より成り立っており、造作された可能性が高い

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神武天皇以後の八代の天皇は、精霊の名を使用しているとする。

綏靖:
カム・ヌナカハミミ(神聖な河の精霊)

安寧:
シキツヒコ・タマテミ(元はタマツミで実体不詳の精霊)

懿徳:
オホヤマトヒコ・スキトモ(元はスキツミで、鋤に宿る精霊)

孝昭:
ミマツヒコ・カエシネ(稲の精霊)

考安:
ヤマトタラシヒコ・クニオシヒト(大地を押し寄せて国土を造成した神)

孝霊:
オホヤマトネコ・ヒコ・フトニ(神聖なる精霊)

孝元:
オホヤマトネコ・ヒコ・クニクル(細長い土地を手繰り寄せ国土を造成した神)

開化:
ワカヤマトネコ・ヒコ・オホヒヒ(偉大なる精霊)

安寧天皇のシキツヒコは、「ヤマトの磯城地方の王」であり、考安天皇のタマトタラシヒコは「強力にヤマトを支配する王」となる。垂仁天皇の後の四代はタラシヒコという名が付く。ネコは、王・首長の称号であり、王権が強化された事を示すとする。

第3章 「歴史の出発点」としての雄略朝
天皇家の王統には、仁徳天皇の子からなる、履中系と允恭系の二つがあるとする。

允恭天皇の子である雄略天皇は允恭系に属する。兄の安康天皇の死後、葛城氏を巻き込む形で戦いが発生している。その抗争は長引いたはずである。

日本書紀では、安康元年は甲午年で454年だが、中国に伝わる倭の五王の内、允恭にあたる済と、安康にあたる興の記録では、興は462年に安藤将軍 倭国王に叙せられている。宋書によると、460年に遣使した王は済とされており、安康元年よりも後に済がいた事になる。さらに、雄略天皇の治世が457年~479年になっている事とも矛盾する。

日本書紀では、雄略天皇は己未年(479年)に死去しているが、古事記では己巳年(489年)に死去しており、10年の違いがある。倭王 武は、479年に南斉から鎮東大将軍に任じられており、雄略天皇が479年に死去しているとするのは無理がある。

安康天皇の後の混乱が長引き、即位実現が長引いたと仮定すると、雄略天皇の治世は467年~489年頃ではないか?

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大和政権を構成する諸豪族は、職名等に基づいてウジを名乗り、ウジの性格に合わせてカバネを帯したとする。

ウジ:
共通の始祖より分出した親族集団。

カバネ:
奉仕の形態や地位に応じて、王より与えられる身分標識。

トモ:
朝廷内に設けられた職務分掌組織。トモを率いる長がトモノミヤツコ。

雄略天皇の時代である5世紀後半~6世紀初頭にかけて、ウジの組織が成立した?ワカタケル王配下の私兵組織が、君主体制樹立のために軍事組織に再編成され、軍事的トモを率いる伴造となり、職務固定化に伴ってウジを名乗るようになったとする。

雄略即位前紀十一月甲子条には、雄略天皇が平群臣真鳥を大臣とし、大伴連室屋等を大連にしたと記述される。

万葉集や日本霊異記等の古代文献では雄略天皇の時代を特別視しており、日本書紀の紀年構成も雄略紀から元嘉暦によっている。日本書紀の巻十四の雄略紀以降と以前では文字や語法が明確に相違するとしている(巻十四は、それ以前より先に記述された)。

第4章 「飛鳥仏教史」を読み直す
645年の乙巳の変の後に即位した孝徳天皇は、645年の対仏教政策における詔を発布している。

そこに述べられている仏教受容の歴史は以下の通り。

①欽明天皇の時代に仏教が百済から伝わった
②崇仏は蘇我稲目が行った
③敏達天皇の時代に蘇我稲目の子である馬子が
 崇仏を続行した
④推古天皇の時代に蘇我馬子が仏像を造る等した
⑤孝徳天皇が、その後を受け継ぐ

⇒聖徳太子の事績には一切触れていない。仏教興隆に功績があったのは蘇我家だけであり、憲法十七条にも触れていない

憲法十七条には、条文中に推古朝当時には存在しなかった国司の言葉がある事等から、作成時期は7世紀後半頃という意見がある。7世紀前半頃に遡る寺院遺構の数は畿内にも十カ所程度しかない。憲法十七条を含む推古紀(巻22)と舒明紀(巻23)は、その前後の巻とは述作者、述作の時期が相違している。

日本書紀の記述からは、欽明天皇時代に伝わった仏教は、蘇我氏単独で祭られた事になっている。その後の敏達天皇の時代も方針が踏襲されている。

孝徳天皇は、乙巳の変というクーデータによって蘇我家から仏教の祭祀権を奪ったのかもしれない。

第5章 壬申の乱と「壬申紀」のあいだ
日本書紀の28巻と29巻は天武天皇紀の上下巻であり、一代の天皇の記述としては最大。

壬申の乱で天武天皇と戦った大友皇子に批判的な記述が少なく、大友皇子の側近であった蘇我赤兄や中臣金、巨勢人等への評価を下す筆致が少なく、また、彼等の係累が後の朝廷内で地位を得ている事から、政治的配慮が感じられるとする。

この時代までの大和は畿内政権の本拠であるが、伝統的な豪族が政権中枢を構成しており、7世紀になる事には葛城氏や和珥氏、物部氏等の旧来の豪族達の勢力は失墜していたとする。蘇我氏も乙巳の変で打撃を受けており、近江大津宮遷都は、北陸道や東山道方面を意識した新たな支配を志向したものとする。

そして、壬申の乱における戦闘は大和近辺に限られたが兵の動員範囲は広かったようで天下を決める戦いであった(伊勢からの紀臣阿閉麻呂を将軍とする援軍が勝利を決めた)。

第6章 日本書紀をつくったのは誰か
日本書紀の区分について。

以下のように二つに分ける事が出来るとする。

①中国語の原音による仮名表記
雄略紀(巻14)~用明・崇峻紀(巻21)、皇極紀(巻24)~天智紀(巻27)

②倭音によって表記
神代紀上(巻1)~允恭・安康紀(巻13)、推古紀(巻22)~舒明紀(巻23)、天武紀(巻28、巻29)

厩戸皇子の称号である「上宮」について、推古紀は、厩戸皇子が斑鳩宮に遷る以前の住居名としているが、用明紀では「是の皇子、初め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ」としていて、斑鳩と同じ地名として理解している。予備知識不足が明らかであり、用明紀を書いたのが中国人である可能性は大きいとする。

中国人が書いたとすると仮定する場合、宋書に登場する倭王 武を雄略天皇と定めて中国資料に基づいて編纂しており、乙巳の変や白村江の戦いは東アジア全体を描く試みと言える。推古天皇については隋書倭国伝に登場する男王アメタリシヒコと結び付かないため、書けなかったのかもしれない。

一方で、日本人による上記②の記述は、律令法に基づく国家体制の根拠を説くための歴史創造に用いられた可能性がある。

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