兵器と戦術の日本史

読んだ本の感想。

金子常規著。1982年5月1日 印刷。



以下は、「倭王の軍団」の記事ヘのリンク

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2052.html

第一章 倭歩兵の興隆と衰退―海北四百年戦争
一 鉄矛・長剣・長槍歩兵の交互支配
日本古代の軍事資料の始まりは、弥生前期(紀元前300年頃~紀元前100年頃)の出土兵器である。主に青銅製の以下の兵器。

・剣
両刃が剣で、片刃は刀。

・矛
剣に長柄を付けた形の刺・斬両用兵器。穂先が鋭利で刺突専門の兵器を槍と呼ぶ。

弥生中期(紀元前100年頃~100年頃)になると、鉄製の武器が増加する。ただし治金技術は未熟で、剣の長さは30㎝~40㎝程度である。鏃は石や青銅で、大量に使用される矢に鉄製品を使用する余裕が無かったものと思われる。

以下の歴史観。

〇0年頃~100年頃
奴国が倭の代表的国家となり、100年頃には帥升が倭人諸国を統一。倭人は朝鮮海峡の南北に跨って分布したものと思われる。帥升は鉄産地の弁辰を押さえるべく、新羅と戦ったが、戦いは不利で107年には後漢に朝貢している。123年に倭は新羅と和し、以後100年間は倭と新羅間に戦の記録が無い。

〇100年頃~300年頃
1m程度の太刀を国産出来るようになる。幅広の銅矛や銅剣が主に西日本で乱雑に棄てられた状態で発見される事から、鉄武器の普及に伴い、銅製の武器を使用する部族が敗北したと推測される。祭器である銅鐸の廃棄はその延長にあると思われる。

200年頃~300年頃を記す魏志倭人伝には、骨鏃に加えて鉄鏃を使用したと記されている。邪馬台国の壱与の時代を示す晋書には鉄鏃の記述のみがあり、邪馬台国は弓矢を主兵器とする太刀弓軍が活躍したのかもしれない(同期間に矛が出土しなくなる)。232年には朝鮮半島?にて新羅の侵攻に対して倭の軍勢が戦い、若干の失地を回復したらしい。

〇300年頃~400年頃
薄鉄を革紐で綴った歩兵用の短甲や鉄冑が出土する。装甲が強化されたためか、突撃用の4.5m以上の長槍が増加している。新羅と倭の戦は287年以降再開し、300年頃には倭と講和し、任那が作られたとしている。倭は百済と同盟し、371年頃に高句麗を破って帯方、楽浪を奪取している。391年の百済内紛では応神朝が百済を征しており、両国関係は上下関係に移行する。

二 桂甲騎兵・山城要塞歩兵の勝利
400年頃に、高句麗の好太王指揮下の桂甲矛騎兵を核とする軍隊が新羅救援を名目に南進する。404年に倭軍は帯方郡に進攻したが敗北している。

倭において、古墳中期に馬具の出土が増えるのは、高句麗騎兵への対抗のためかもしれない。応神朝15年(404年頃)には百済より良馬二匹を貢上させ、仁徳51年(444年頃)に新羅との戦いで上毛野田道が騎兵を使用している?しかし、その後は騎兵部隊使用の記事は殆んど無い。

鏃が桂甲を突き抜くように細長く改良され、鉄鋲留の堅固な短甲が出現し、冑も衝角型に変わって大陸系の眉庇付のものが見られるようになる。また、刺突専門の長槍が柄を短くした矛に変わったのは、騎兵に対応して隊形を変えやすいようにしたためと思われる。

⇒馬の生産や移動が困難であったため、他の戦術対応を行った可能性

〇任那滅亡
460年頃から、新羅が国境地帯に山城を多数構築し、山城の掩護下に騎兵中心の機動部隊を設置し、領有を確実にする戦法を採用するようになったとする。

倭においては雄略朝期以降であり、短甲に変わって装甲が強化された桂甲が頻繁に出土するようになる。長矛に代わって太刀が使用されており、矢で敵騎兵の接近を阻止し、接戦では太刀で対抗する戦術が推測出来る。これは古代ローマ軍が長槍方陣式を廃して、盾・長剣格闘方式を主とする軍団歩兵に移ったのと似ているとする。

しかし、敵騎兵が鐙を使用していたとすると、倭国の歩兵は敵騎兵に対して防御してなら勝つ可能性があるが、攻撃前進しては勝てないため、歩兵は決勝兵種としての地位を失った事になる。そして、雄略朝は東国の蝦夷を動員してまで任那を増援したが、新羅に奪われたとしている。

継体朝は新羅を討つ準備をしたが、527年に征討軍が筑紫海岸で準備中に筑紫国造の磐井が新羅側に立って反乱し、新羅征討は失敗する。以後、百済が任那回復の責任者となるが、562年に任那倭府は完全に滅亡した。

三 見えざる兵器諜報活動の勝利
倭では、任那失地後に、任那百済派と新羅派の争いが発生する。592年に崇峻天皇が任那回復の軍を筑紫海岸に集結させたが、出発直前に暗殺され、601年に聖徳太子が高句麗と百済に共同作戦を提案したが、602年に大将軍 来目皇子が急病で死亡し、代わりの当麻皇子は赴任のために出発した2日後に妃が明石で急死したため、出兵は中止された。

⇒新羅征討の度に暗殺等が発生している

*****************

新羅は、651年に官等、服制、暦法、年号の全てに唐制を採用し、唐の援助を獲得する。日本では壬申の乱において新羅派の擁立した大海人皇子が勝利し、658年、659年、660年に阿部比羅夫が日本海岸の北方を調査し、北辺の安全を確認している。

白村江の戦いにおいて倭が唐に敗れた事で、百済・任那回復派は総敗北したとする。天武天皇による日本書紀は、海北放棄の立場を掩護する歴史書とする。

第二章 律令徴兵歩兵の誕生と終末―蝦夷百年戦争
一 律令徴兵歩兵、軍の主役となる
奈良・平安時代の軍隊は律令兵制が基幹になっている。しかし、半島から撤退し、国内維持に方針変更した日本にとっては、歩兵大衆兵よりも少数精鋭の方が適当だったとする。

歩兵大衆兵は、それまで自治に委ねていた辺境の直轄化に邁進し、702年の隼人征討に始まり、811年の蝦夷征討に終わる百年戦闘が開始される。徴兵歩兵制度が採用されたものの、実態は志願騎兵を中核とする状態だったとする。

二 律令歩兵、奥蝦夷を征す
蝦夷との以下の戦い。

①宝亀の征討
767年に大和朝廷の奥羽征討が再開された。追川丘陵の中心に伊治城を完成させ、775年には秋田城を築き、776年から奥蝦夷の根拠である胆沢、志波攻略に取りかかった。

鎮守将軍 大伴駿河麻呂の作戦は上手くいかず、780年には朝廷で騎兵移行が建議された。

②延暦一次征討
桓武天皇は征討継続を決し788年から準備を開始し、789年には歩騎兵5万2000人を紀古佐美を大将軍として派遣している。蝦夷側の阿弖流為は、ゲリラ戦法によって対抗したとする。

③延暦二次征討
桓武朝は、791年に征討を再開し、征東大使 大伴弟麻呂、福使 百済王俊哲、坂上田村麻呂等による10万人の大軍を派遣している。大兵力で追・磐井丘陵を掃滅し、関東から大量の開拓民を伊治城に移住させる構想。

⇒792年には陸奥、出羽、佐渡、大宰管内を除いて軍団が廃止されている。郡司の子弟を指名する少数精鋭の健児を置く事が法制化されたが、人材確保に苦慮したとする

④弘仁の征討
811年に、陸奥出羽按察使 文室綿麻呂による東北奥地の幣伊(現閉伊都)、爾薩体(現一戸~九戸地区)の征討の上申が許可され、俘囚兵を使用した征服が行われた。

⇒征討の主体が俘囚軍だった事で徴兵歩兵大衆軍の存在意義が失われたとする

三 弓騎兵、歩兵に代わる
以下の戦い。

①新羅海寇
809年に新羅における王位争奪の内乱が発生した事で、西日本に脱出を図った新羅民が襲来するようになる。814年に弩師が復活し、大宰府が直轄弩師二人を置いている。894年には、対馬に出現した新羅海賊2400人が弩によって撃退されている。

②蝦夷(天慶の乱)
877年に秋田城以北の民が凶作のために反乱を起こしている。動乱後の出羽守備兵は志願長期含務者が多くなり、清原歩兵として独自の発達を遂げたとする。

③平将門
935年に反乱した。騎馬が少数であったために、盾弓歩兵を用いた騎歩連合部隊を用いたとする。日本独自の鉄札による大鎧が出現するのは延喜朝(911年~922年)であるが、高価なために普及せず、盾に隠れた弓兵が有利だったとする。しかし、最終的には藤原秀郷の弓騎兵に敗れた事で、関東武士の弓騎兵方式が確定したとする。

第三章 少数精鋭騎兵の勝利―覇権武士に移る
一 弓騎兵より突撃騎兵に
1051年に陸奥の郡司 安部頼時が反乱し、律令歩兵を弓馬戦闘で圧倒した。鉄の普及によって鎧が強力になると、弓矢戦でも敵の防護が弱い箇所を狙う必要が出てくる(熟練者の必要性)。そして、徐々に突撃騎兵を活用した戦法が拡がるようになる。

保元・平治の乱を経て、源氏が騎馬による突撃戦に自信を持ち、平氏は弓矢による戦闘を基本としたとする。武士の戦法は、個人が名乗りを上げて戦い、各人の功名を明確化する懸合い戦法で、兵力の逐次使用という欠陥があったが、敵味方が同じルールで戦うので問題無かったとする。

二 突撃騎兵制覇す
源平内戦において、源氏の突撃騎兵が平氏に勝利したとする。源氏においては、源義経が採用した大将が先頭になり、集団で敵に突入する戦法が関東武者の反感を招いたとする。敵の首級をとる暇が無いので恩賞に与れない。

源義経の戦法は、奥州で体得したと思われ、坂東武者には異質だったとする。

第四章 突撃騎兵と矛兵衝突す―元寇
一 元軍歩兵、日本騎兵を破る
文永の役:
1274年に元軍が来襲。九州全域の日本側総兵力は10万人ほどとする。対する元軍は総員3万2300人、その内の戦闘員は1万7300人であり、威力偵察が目的とみられる。

高麗の東国通鑑では、元は大風雨で1万3500人を失ったとする。日本征討は評価され、1275年には征東元帥府が賞され、弘安の役においては文永の役の首脳部のほとんどが首脳として起用されている。

二 奇襲上陸作戦成功直前の挫折
弘安の役:
1281年に元軍が来襲。元軍の出征兵力は15万人程度。

著者の推定として、元軍は日本軍を博多より長門に至る東方に牽制し、元軍の一部が西方に上陸する意図があったとする。元軍は平戸に到着し、鷹島に移動して上陸準備をしたが、日本側の記録に無いため、台風で全滅したのかもしれない。

第五章 歩兵台頭す―元寇・南北朝の乱
一 弓槍歩兵、戦列に復帰す
楠木正成の戦略について。個人として戦う騎兵に、集団として戦う歩兵が対する。

畿内では騎馬が少なく、歩兵を主力とする。兵の大部分は農民からなるため、農閑期にのみ動員が可能であり、農民の協力を得る事が持久戦略の要となる。

しかし、鎌倉幕府から権力を奪回した後は、護良親王が自ら征夷大将軍となり、軍事力を握ろうとしたものの、大衆兵を基礎とする軍事は武士層や大衆兵を卑賎論外とする公卿達から反発される。

二 歩兵、槍を持つ
南北朝期の武器変化として、騎士が馬を射られて下馬戦闘する事が多くなり、防護力を若干犠牲にして革札と混用した軽量鎧が使用され、歩兵胴丸形式の鎧を使用した。

槍は主要装備として定着し、楠正成の軍は八尺~九尺(2.4m~2.7m)の槍を多用したとする。

三 倭寇出現す
1350年頃に朝鮮南岸に侵攻したのが大規模な倭寇の始まりとする。

倭寇は一般に素服で短袴をはき太刀を背負ったとする。甲冑が無いために矢戦に弱く、ゲリラ方式で戦った。倭寇は1410年頃までに明や朝鮮等に征討され、1530年頃に再び盛んになったとする。

第六章 足軽歩兵地位を確立す―応仁より天下統一へ
一 長槍集団、歩兵決勝戦力となる
応仁の乱における長槍軍の活躍。槍衾を作って突撃する戦法の有効性。

足軽歩兵(卒)が補助要員から決勝要員となる。

南北朝期に軽量化された鎧は、槍の普及によって堅固が要求され、革は避けれれ、小札が漆で固められて隙間を埋められたり、大型札を使用して綴目を少なくしたとする。

二 長槍・鉄砲集団歩兵の活躍
鉄砲の普及等によって丁は胴丸形式から具足へ進み、鉄札を鋲留した桶皮胴方式に変化したとする。

この時代では兵器装備が敵味方で大きく変わらないため、主将の統率や戦略・戦術が重視されたとする。

三 倭寇、大型水軍に敵し得ず
16世紀頃に活動した倭寇について。大型船で大砲を装備した明軍には勝てず、その実情を調査してれば朝鮮征討は阻止されたかもしれない。

四 戦略・戦術優位の時代
織田信長の戦略・戦術について。長篠の戦いで装備率10%に達した鉄砲や、信長自身が先頭に立たなければ突撃出来ない体質等。

火縄銃は防御兵器としては有効だったが、突撃兵力としての長槍歩兵を併用する必要があった。

豊臣秀吉の天下統一の頃には鉄砲装備率は20%近くになったとされ、桶狭間の戦いの頃に鉄砲一に対して槍四~六だった装備の割合は、天下統一の頃には鉄砲一に対して槍二~三になったとする。

足軽を中核として長槍集団歩兵を重視し、それを鉄砲で補う多数例兵主義。それは平氏の頃から歩兵の実績を持つ畿内の封土に合ったとする。たしいて、源氏の伝統から少数精鋭の騎兵を重視した武田・北条があるとする。徳川家康は三方原等での武田騎馬軍の勇戦を経て騎馬チーム中心に傾いたとする。

第七章 陸の鉄砲・海の大砲―朝鮮の役
一 陸進むも、海進まず
1592年の朝鮮出兵について。総計20万人の遠征。制海権を取れない事の不利。

二 釜山海岸堡への撤退
明軍4万3000人と戦い、日本軍が撤退した話。

三 再び海上堡の支配権を求め
1597年の慶長の役について。動員兵力は14万人で前回より少ない。釜山周辺の領有権確立を狙う?結局は失敗し、小西行長や石田三成と第一線の武将との溝が深まったとする。

四 水軍の弱体暴露
大型砲兵水軍を持たない日本軍の不利。戦術も李瞬臣が火砲を積んだ大船を集結駆使した組織的戦闘を行ったのに劣ったとする。

著者は、朝鮮征討の失敗を水軍の弱体と、大きくは豊臣秀吉の資質によるとする。織田信長の例が役立つ国内では能力を発揮したが未踏の海外では方略を誤る。膨張のみを志向し固める事を知らない。石田三成等の事務的能力に優れる幕僚を優遇した事は、豊臣秀吉がそれらの能力により政治・戦略指導は務まると考えていたためであり、見積も・評価が用兵を第二義としたとする。

朝家摂関の権威を背景に政権を作った事にも問題があり、足軽・武士を基盤にした新政権を拓く発想が無かった。

織田信長の時代には長槍足軽の活躍により、足軽出身者の権力参加が実現したが、朝鮮の役の失敗や関ケ原の敗北等により、覇権は騎兵重視の東国に移ったとする。

五 近代兵備への道凍結す
大阪の役で、東軍の鉄砲装備率は50%前後に達したとする。それは槍兵減少による突撃力弱体化に結び付く。そのため、1616年の元和軍役令では、弓・鉄砲一に対し、槍一・七程度として、槍を多く装備するよう規定した。

この後の鎖国令によって日本の軍事技術は停滞したとする。

第八章 洋式近代軍の勝利―幕末・戊辰戦争
一 施条鉄砲の制覇
海外からの脅威に対して軍事を拡充した事について。

長州藩では藩士隊が弱体とされ、陪臣の卒級が半分、農民が半分という奇兵隊が編成された。薩摩藩では施錠砲を導入し英国を師とする兵備改革を実施。

二 再び戦略・戦術優位の時代へ
戊辰戦争の帰趨について。兵器において劣っていなかった幕府側が敗れたのは、旧式兵法の中央突破に執着した事とする。

第九章 太政官徴兵軍勝利す―西南戦争
一 木戸征韓論の支配
木戸孝允による長州藩が主導権を握る征韓論について。著者の意見として、徴兵制は四面環海の日本には合わず、平時は英国や米国のように少数志願の精兵で充分とする思想が日本に合っていたが、奇兵隊等の長州藩の体質や征韓論が徴兵制を実現したとする?

二 徴兵軍の基盤確立す
西南戦争における徴兵軍の勝利について。官軍の戦闘期間七か月、四万六000人の兵、3500万発の消費は、日露戦争の一一ヶ月、20万人、約1億発に比肩する。

第十章 日本帝国軍の盛衰
一 日本軍、帝政ロシア軍を破る
日露戦争において、機動戦重視、小銃優位、軽砲主義の日本陸軍が生まれたとする。それは西南戦争を基礎とするのかもしれない。

日露戦争の帰趨は、旅順要塞攻防戦において決しており、ロシアの将軍クロパトキンが旅順を救援しなかったために、ロシアの第一太平洋艦隊が壊滅し、日本海海戦にて日本軍が勝利したとする。

著者は、日露戦争における日本軍の戦略として奉天以南にロシア軍を引き込んで叩き、遼東半島や韓国を保持して、沿海州やオホーツク沿岸地域の支配権を確立して講和を迫る方法を提示している。

⇒こうした海岸志向を忘れ、大陸保持に懸命になった事が後の大日本帝国の運命を決めたとする

二 日本軍敗北す
第一次世界大戦における戦車、毒ガス、航空機の出現に日本軍が上手く対応出来なかった事について。

三 今後の戦・二つの推論
著者の推論として、ミサイル砲弾が今後の優位となると予想している。位置を把握されないように頻繁に移動するミサイル砲兵が偽装遮断や築城掩体を利用する。

また、対共産圏との戦略を考えており、日本全土を防衛するのでなく、戦略的価値の高い壱岐・対馬や津軽海峡南北地域を日本防衛の中核とすべきとする。

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