暴力と聖なるもの

読んだ本の感想。

ルネ・ジラール著。1982年11月20日 初版第1刷発行。



考えていた事について幾つかの答えをもらった本。内容が難しいので、あまり理解出来なかった。

共同体の秩序維持における生贄の有効性について。

人間の攻撃衝動に理由は無い。そして、攻撃衝動は模倣によって伝染する。静めるために、一部の人間に全ての罪を被せ、共同体から追放する。追放された者は、共同体に平和を齎した聖者となる。

<供儀について>
暴力に理由は無く、鎮静化されない暴力には身代わりの犠牲を差し出す。保護したいと思う者から、死んでも惜しくない者へ暴力の鉾先を移転する。

あらゆる神話において、暴力と、暴力が狙う人間の間に動物が介入している。カインとアベルの神話においては、牧夫の弟は家畜を生贄として捧げるが、農夫である兄は捧げ物を喜ばれず、家畜の代わりに弟を殺さなければならない。

供犠は神によってその事実を覆い隠されている。神名の下において、個人が共同体構成員全体に捧げられる。攻撃衝動は部分的満足を得て軋轢が解消される。

供犠が行われない場合、個人の暴力が復讐を呼び起こし、その繰り返しによって共同体は崩壊する。現代社会において供儀が行われないのは、公権力が法体系を作り出し、合法的に復讐する事が可能だからである。絶対権力は復讐の連鎖に巻き込まれない。そうした公を持たない社会において供儀は必要とされる。

供犠も法律も、私的復讐とは相違すると信じさせる事によって、暴力を騙す事が出来る。

◎チュクチ族の復讐への対応
『未開社会』(ローイー著)では、チュクチ族は、自部族が他部族の一員を殺した場合、殺した者の家族を殺す事で争いを避けようとするとしている。これは生贄の論理であり、犯人を罰しない。犯人を殺した場合、復讐が完遂された事になり、暴力的要求に従った事になる。そこで近親者を殺す事で復讐の相互性から離れるとする。

<供儀の危機>
供犠が適切に機能するには、以下の条件が満たされる必要がある。

①生贄と保護される人間が分離されている
②生贄と保護される人間に類似性が存在する

上記は微妙な均衡に基づくため、生物や人間を分類して位階付ける方法の変化は供儀体系を狂わせる可能性がある。ギリシア悲劇である『狂えるヘーラクレース』や『トラーキースの女たち』は供儀が上手く機能しなかった例とする。

人間は、道理が敵対する両者にあり、暴力に理由が無い事を認められない。供儀の危機は、公平無私の幻想が崩壊する所から始まる。ギリシア悲劇の『オイディプース王』では、オイディプース(テーバイ出身でない)、クレーオーン(王でない)、テイレシアース(預言者で全てを知っている)は、自らが局外者である故に問題を公平に裁定出来ると思い込んでいるが、自らが争いの当事者となる事でその優位性が失われ、怒りの虜になっていく。

正邪を判定する観察者には、「自分が攻撃される事が無い」という確信が無ければならない。それが失われると、同じ罵声が対立者間で飛び交い、彼等の差異は消失する。暴力は伝染するので、共同体全体の差異が消失する。

オイディープス王、クレオーン、テイレシアースが、自らがテーバイの危機を救う事が出来ると思い込むのは、自分が外部から来た者であり、敵対する者達に向かって「お前達に差異は無い」と示す事が出来ると思い込むからである。しかし、外部からは同一性しか存在しないが、内部からは差異しか見えない。自らが当事者として内部に入る、と差異を否定する外部の論理は使用出来なくなる。

供犠における差異は、穢れ無きものと穢れたものの差異である。それが消失する事は文化的秩序が消失する事を意味する。

<差異による秩序>
秩序は文化的差異に依拠しているとする。差異無き社会では、各人が対立し合う。

それは原始的思考にとっては自明の事で、多くの原始的社会において双生児は異常な恐怖を与える。それは肉親同士の類似も同じ事で、『未開人の心理における父』(マリノフスキー著)では、トロブリアンド諸島においては肉親と似ていると伝える事が禁忌であると記述されている。

神話においても敵対する兄弟という主題があり、差異が少ない事が争いの源となっている?家庭内差異崩壊の象徴。

『オイディープス王』においては、各人が言い争う事で、王や予言者が互いの権威を貶め、各人の差異が失われていく。その中で、父殺しと近親相姦の罪を負っているオイディープス王は、差異から逃れた特別な罪を持った人間と言える。

テーバイの危機においては、全ての人間が同じ憎しみを持ち、同じように行動する暴力の双生児となる。そして、全ての分身が同じ者であるとするなら、誰であってもあらゆる者の分身となり得る。差異の完全な消失によって満場一致の生贄(オイディープス王)が生まれる。

至る所に広がった相互暴力をオイディープス王個人の違反に置き換える。

共同体の全員が、暴力の一切が一人の責任に帰すると確信し、彼を罰した時に秩序は生まれる。

<供儀の歴史的過程>
あらゆる共同体の秩序は、始祖的暴力(生贄)によって成立するとすると、集団による殺人は豊穣の源のように見える。死せる神から儀礼や婚姻規則、禁止事項等が生まれるとする。

『神性と体験』(ゴドフリー・リーンハート著)では、ディンカ族の供儀儀礼について記述されている。最初は互いに叩き合った人々が、生贄に暴力を集中させる。これは相互的暴力から一方方向への暴力の変身を形象化したと言える。

自然発生的な満場一致の暴力の模倣と再演。そして、定義された儀礼は各個人が他人を模倣する事により秩序を乱す事を防ぐ。

現代社会においては、供儀の有効性を認める事が困難であり、フロイトはエディプス・コンプレックスが他者を模倣する欲望ではなく、原父殺しや近親相姦への欲望によるとすり替え、『トーテムとタブー』では原父殺しを夢想している。

⇒この辺りの記述は非常に難しく、僕の解釈は誤っている。理解するにはフロイトの原書を精読するしかないと思う。レヴィ・ストロースに関する記述も同様

フロイトの卓越は、一切の儀礼行為、神話的意味付けが現実の殺人に起源を持つと断言した点にある。『トーテムとタブー』のギリシア悲劇に関する記述では、同じ服装をした合唱隊が一人の主演俳優を取り囲んでいる場面に注目する。この場面は歴史的場面から採用されたものであり、実際の事件では合唱隊にあたる人々が一人の人間を苦しませたとする。本来は群衆(合唱隊)のものである罪を背負うために主演俳優は救世主となる。

救世主たる生贄 = 聖なるものが触れたものは絶対的禁止の対象となり、禁止により人々は相互的暴力に落ち込まないようにする。

<通過儀礼について>
『通過儀礼』(ヴァン・ジュネップ著)では、成人式等の若者に共同体への完全な所属を認める儀式が記述されている。若者はそれまで持っていた身分を失い、新しい身分を獲得する。

身分の喪失は、若者全員の差異の消失であり、それは暴力を呼び起こす。そして暴力は伝染する。通過中の個人は疫病の犠牲者と同一視され、差異の消失により暴力を伝播させる可能性があるとする。

初期には犠牲者を孤立させ、共同体外部に追放する。通過によって失うものは誰にでも分かるが、やがて見い出すものは誰も知らない。差異の混雑がどこにいたるかは誰にも分からない。それらの議論に決着を付けるのは暴力である。

社会的秩序を価値評価し、比較、選択、操作する事には途方もない恐怖が伴う。

それは供儀の危機と同一であるために、人々は最初に起こった創始的暴力を全て再現し、危機の段階を経験させる。原初の危機を正確に再現するなら、同一の形で終わる事を期待出来る。

⇒通過儀礼の体験者が安らぎを奪われるのは、最初に事がそのように推移したからである

通過儀礼では原書の危機をモデルにして、差異の喪失が惹起するであろう危機を構造化する。不確実性を確信に変える。それが常に成功するならば、単なる試験になる。

このようにして成立する宗教は、暴力から発生する障害を回避する機能を持つ。

人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ABCDEFG

Author:ABCDEFG
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード