「暴力と聖なるもの」から

以下は、「暴力と聖なるもの」の記事へのリンク。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2523.html

高校生の時に、以下のような言葉を言われた事がある。

「俺さ、前からお前の事嫌いだったの。歩き方とか話し方とか人と違うじゃん。だから気持ち悪かったの。でもそれは個性だから大切にしないといけないと思うようになったんだ。だから、俺はOがお前の事を殴ったりするのも個性だと思ってるの。両方とも他人を嫌な気にさせているんだからお互い様じゃん」

上記の言葉で、他人を説得出来る、問題解決が出来ると思った理由は何か?発想の元となっているのは何か?ずっと考えていた。

「暴力と聖なるもの」では、ギリシア神話の『オイディプース王』と同じとしているように思える。

テーバイで発生している争いについて、登場人物達は自らが局外者である事、若しくは優越者である事から、自分が争いを解決出来るものと思う。

オイディプース王は、テーバイ出身でない自分は局外者であり、客観的に意見出来ると思う。クレオーンは、王でない自分は客観的な神託を伝える事が出来ると思う。テイレシアースは、予言者で全てを知っているので客観的な意見が出来ると思う。

「争う者達よ。局外者(優越者)である私から見て、お前達に違いは無い。お互い様なのだから争いを止めよ」

上記のような意見で争いを止める事が出来ると思うのは、自らが傍観者であり、争いに巻き込まれる事が無いと信じるからだ。争いの外部から見ると、対立し合う両者には同一性しか存在しない。

しかし、自らが当事者として争いの内部に位置すると、上記の傍観者的意見は選択出来ない。争う相手の自分とは違う落ち度を指摘し、自説の正しさを主張しなくてはならない。争いの内部からは差異しか見えないのだ。

「お互い様」の論理は、「自分が攻撃される事が無い」という確信がある中で必然的に選び出される。自分と他人の分離が思考の原点であると思う。

***********************

現代社会を構成する生贄について考える事。

第二次世界大戦以後の世界は、ナチスドイツや日本軍の悪が確定された事で、個人主義規範に合意し、国際協調主義によって悲劇を生んだ思想を抑え込む事を国際社会の責務とした。

国境という地平の中で、一般人は自国内を完結したシステムとして無自覚的に了承した。全ての国境は神聖で、犯されるべきものではないとする。

インターネットの普及は、『国境』を変えた。多くの人間が当事者として情報を受信し、発信する。

国境を越えて人々が交流しても、『国境』に縛られた公権力はそれらを管理出来ない。

現代社会を構成する公権力(合法的な復讐の施行)が存在しない世界では、原初的な生贄の論理が復活する事となる。

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