満鉄全史

読んだ本の感想。

加藤聖文著。2006年11月10日第一刷発行。



以下は、Wikipediaの「南満州鉄道」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%89%84%E9%81%93

プロローグ―「国策会社」満鉄とは何だったのか
満州支配の牽引役として期待された国策会社 満鉄が陸軍、関東軍、外務省、関東都督府等の勢力争いによって統一された方針を持てなかった事について。

関わる人間の個性によって支配され、組織として独自性を持つ事が無かったとする。

第一章 国策会社満鉄誕生
1 満鉄創立
日露戦争講和時のポーツマス条約(1905年)によって、ロシアから日本に東清鉄道南部支線を譲渡し、これが後の満鉄になる。

<東清鉄道>
1896年に、満州を東西に横断してウラジオストクへ向かう鉄道として、清国からロシアに80年間の所有権を譲渡されて建設された鉄道。露清国境沿いを迂回してウラジオストクへ向かうシベリア鉄道とは異なる。東清鉄道南部支線は、1903年に開通し、哈爾濱から旅順に至る。

日本は満州全域の経済情報を収集しておらず、ロシアの再南下を阻止する戦略上の必要性から軍用鉄道を求めており、経済的観点が欠けていたとする。

1906年に作成された満鉄設立の勅令では、満鉄の総裁・副総裁は天皇の勅裁を経て政府が任命する勅任官とされ、満鉄は株式会社でありながら政府機関であった。

◎後藤新平
初代満鉄総裁。台湾の民政長官としての実績があり、台湾での経験を満州にて適用する事になる。東インド会社をモデルとした組織を目指す。そのために、鉄道経営を基盤に線路守備や鉱山採掘、移民等の周辺事業を行う事を経営方針とする。

米国を意識した新旧大陸対峙論を唱えた。

2 政党の浸透
政党政治家として日本政治に関わった原敬の影響について。

清国との鉄道交渉を外務省に委ねる事で、関東都督府を中心に満州政策の主導権を握ろうとした日本陸軍を牽制しようとした。原の思想では、政府主導による満州政策を行う事になっていたが、これは満鉄を中心とした満州経営の思想とは対立した。

政党内閣が本格化し、二大政党制による政権交代が実現すると、満蒙政策の一貫性を守る事が困難になる。

そして1911年の辛亥革命により、清国と革命政府のどちらに味方をするか決めかねた日本を尻目に英国が主導権を握り、袁世凱が英国資本と組んで満州へ影響力を及ぼそうとしたため、対抗上、日本とロシアの結束が強まり、1912年の第三回日露協約では日本の勢力範囲として東部内蒙古(内モンゴルの一部)が追加された。

3 国策会社としての使命の拡大
経営方針の対立にも関わらず満鉄は成功していった。

開業時の1907年に410万2229円だった満鉄本線の利益は、1913年には1375万4416円になっている。他に大連港の拡充や倉庫業、電気・ガス事業、奉天や長春でのヤマトホテル開業等の事業展開を行う事になる。

しかし、1917年のロシア革命によって南北満州を日露両国が分割支配する構想が崩れ、満鉄は不安定な状況に置かれる事になる。帝政ロシア時代は、満鉄と東支鉄道(ロシアが管理する鉄道)とは共存関係にあったが、南北満州分割が無効となる事で輸送物資争奪が始まる。

日本は北満州への権益拡大のため、軍閥の張作霖との連携を目指す事になる。

◎中村是公
二代目満鉄総裁。最も在位期間の長い総裁であり、実績があったとする。

第二章 「国策」をめぐる相克
1 松岡洋右と国家改造
◎松岡洋右
1921年から11年間に渡って満鉄で理事、副総裁、総裁を務める。

原内閣が基本方針として掲げた北満進出の具体化を目指し、そのためにソヴィエト連邦が弱体である内に満州から駆逐するべきとした。

松岡の持論として、ソヴィエト連邦はやがて強大化するため、日本が対等になるには満州全域に影響力を及ぼすべきとしている。

北満物資の取り込みを図るために、洮斉線(洮南―斉斉哈爾)の建設を目指す。ソヴィエト連邦が管理する東支鉄道南武線と並行する路線で、張作霖を前面に出す事で日本が矢面に立たないようにした。

洮斉線は満州における日本の権利として認められている鉄道ではないため、満鉄が鉄道建設工事を請け負うものの、経営は張作霖が主体となる建設請負契約という方法を採用。

張作霖側には対価として、満鉄の開海線(開原―海龍間)の放棄と満鉄平行線となる奉海線(奉天―海龍間)の張作霖側による敷設を認めた。

⇒ソヴィエト連邦との対抗上は満鉄と張作霖の利害が一致したが、中国中央政府との関係では思惑が異なった

⇒張作霖との個人的関係を基盤として利権を獲得する交渉と違い、条約に基づく鉄道交渉は進展しない

2 山本条太郎と満鉄中興の時代
◎山本条太郎
1927年から衆議院議員のまま満鉄社長になる。

第一次世界大戦後の重化学工業発展のために、日本国内と結び付いた産業開発を満州で行うべきとした。

当時の田中内閣には、満州を張作霖による独立政権として中国本土と分離する構想があった。そして、満蒙政策に一貫性を持たせるために拓務省(植民地を統括する中央機関であり、満鉄への監督権を持つ)を新設した。

また、張作霖の側では蒋介石による北伐に対抗するために日本の援助が必要であり、1927年の山本・張協約で満鉄による五路線の建設を認める事になる。

さらに、山本は鉄道事業は政治的に獲得した独占事業であり、独占権が無くなると利益が失われる恐れがあるため、製鉄や製油、肥料等の事業多角化を図る。

・製鉄
鞍山製鉄所を立て直し、鉄材を日本へ供給する。1933年に昭和製鋼所を設立し、満州最大の製鉄会社となる。

・製油
油母頁岩から人造石油を作る研究。日本では産出しない石油燃料を確保する狙い。

・肥料
鞍山製鉄所のコークス炉から発生する窒素を利用した硫酸アンモニウム製造の研究。1933年には満州化学株式会社を設立した。

・その他
化学工業(曹達、マグネシウム、アルミニウム等)の計画や大連農事株式会社設立(1929年)、東亜勧業株式会社による移民斡旋会社整備等。

⇒満州が日本の利益になる事を証明する。さらに華北の炭鉱資源にも着目し、山西省(大炭田がある)への影響力を確保するために滄石鉄道建設請負の仮契約を結んでいる

3 日本の「満州」・中国の「東北」
1920年代の日本の満蒙政策は、張作霖の中国中央政界進出を支援しつつ、満州における日本の権益を拡張する方針だった。

その核にあったのは、張作霖が親日家であるという意識である。日露戦争当時、馬賊としてロシア軍の諜報を請け負っていた張作霖が日本軍に捕らえられた際に、後に首相となる田中義一に命を救われたという逸話がある。

しかし、張作霖が中国中央政界に進出するには中国の民族主義を意識しなければならず、日本側は張作霖を支える満州漢人社会の社会的要請を理解しなかったとする。

1928年に起こった張作霖爆殺事件は、思い通りにならない張作霖への反発が原因で発生したとする。後を継いだ張学良は張作霖が満鉄との間に結んだ協約の実行を拒み、中国国民政府への合流を宣言した。

また、この時代の中国は世界各国が金本位制を採用する中で銀本位制を採用していたためにデフレの悪循環に陥っており、経済の悪化は満鉄の経営にも影響した。銀暴落によるデフレの影響で、銀建てだった張学良側の鉄道運賃が低下し、割高になった満鉄から物資が流れた。

****************

1930年頃の満州の人口は3000万人程度であったが、日本人居留民は20万人程度絵、その半分近くが満鉄関係者である。支配のためには土地と人が必要だが、土地は商租権は満鉄付属地以外は無く、日本人人口も少ないために、満州に産業基盤を整備しても、それは中国人の利益となる。

日本の「満州」でなく、中国の「東北」の成立。

第三章 使命の終りと新たな「国策」
1 満州事変と満鉄の転換
1931年に満州事変が勃発。

◎内田康哉
満州事変勃発当時の満鉄総裁。不拡大方針を唱える政府の方針に反し、積極的に関東軍を支援した。

関東軍が計画した満州全域での作戦行動は、鉄道の迅速な活用によって可能だった。満州事変までは一個師団程度の規模しかなかった関東軍には、行政や経済を担当出来る人材がおらず、満鉄の人材が必要とされた。

満州事変における関東軍と満鉄の協働は世界観の共有によって可能になった?日本が国際社会で生き残るには、満州を支配して超大国になるしかないという前提。

満州事変後は、長大線と吉会線の二路線が実現が決定した。満鉄本線と満州国の首都で交差し、東支鉄道の平行線となる。特に吉会線は日本と満州を結ぶ最短ルートであり、ロシアとの戦争の際には朝鮮から満州中心部へ直接軍隊を輸送出来る路線だった。

⇒日本と満州の接続点として朝鮮を位置付ける

⇒満鉄内部には、北満州の物資が大連でなく朝鮮に流れる事に批判的な意見があり、国策と経営が相反する矛盾があったとする

2 蜜月の終り
関東軍と満鉄の軋轢が表面化していく(1932年には、満州事変不拡大派の江口副総裁が罷免された)。

1932年に発生した五・一五事件後に成立した斎藤内閣では、満州国が正式承認され、国際連盟脱退への道筋が形成されていく。

関東軍が強く求めた満州移民が行われていき、軍の積極関与が顕在化していく。

3 国策会社の凋落
1935年に松岡洋右が満鉄総裁となる。

関東軍司令官 南次郎の要請によるものであり、軍の影響力が大きい事を示す。民間会社である満鉄が植民地統治を行う事は、英国の東インド会社の矛盾と同様であった。

満鉄は関東軍の影響下で、軍が求める事業を行い、華北進出の使命を与えられる事になる。満鉄付属地の行政は満州国や日本機関に委譲され、満鉄は純粋は鉄道会社となった。

終章 国策会社満鉄と戦後日本
1 満鉄の終焉
太平洋戦争勃発によって、満鉄は大陸物資を日本国内に輸送する事が主な任務となる。

しかし、満鉄は対ソヴィエト作戦用の北満州の鉄道整備を中心にしていたため、港湾等の整備が遅れており、効率的な運用が出来なかった。

満鉄の全55路線、1万2493.2㎞の内、全線が複線化されたのは4路線のみで、貨物運行が上手くいかず、供給地である中国本土と送出地である朝鮮との連携が成り立たない(単線と複線では輸送能力が3倍以上違うらしい)。

⇒交通網整備が疎かであった事が日本敗戦の一因とする

⇒背景には、対ソヴィエト連邦用の鉄道整備に拘る参謀本部と、国内向幹線輸送強化を求める陸軍省の対立があったとする

****************

敗戦によって満鉄は消滅したが、その資産はソヴィエト連邦に没収された。満鉄幹部はシベリア送りにならず、ソヴィエト連邦側に業務を引き継ぐ事となる。

満州は、国共内戦期は中共軍の後方基地となり、新中国誕生後は重工業地帯として中国を支えた。その基盤となる技術者は、ソヴィエト連邦からの援助や、満州国期の産業経済開発と留用日本人からの技術継承によって形成された。

2 満鉄の「戦後」
戦後の満鉄は、国策性が忘却され、企業性のみが語り継がれる。日本による植民地支配の拙さは封印された。

戦後の満州研究においては、満鉄は日本帝国主義の先兵であり、中国人民に満鉄が与えた被害を明らかにする姿勢が強かったが、冷戦構造が崩れた現在では、問題意識型の研究よりも実証的研究が盛んになっている。

エピローグー現代日本にとっての満鉄
日本における国策を考える材料としての満鉄。

社会体制が未整備だった時代には、個人が能力を発揮出来る可能性があったが、社会が複雑化すると組織が重要になる。そうした柔軟性欠如は軍部において顕著であり、傑出した人物も部分的にしか活躍出来ない。

満州で活躍したのは岸信介のような官僚であり、世界史的視野を持たないまま世界帝国化した日本を象徴している。

松岡洋右は、「満蒙は日本の生命線」と唱えたが、具体的に何をするかは合理的に説明出来なかった。他の個人も総論賛成、各論反対の中で、部分的な役割しか果たせず、責任の所在が曖昧となっていた。

それは現代日本の根本的問題でもあり、満鉄の歴史は日本の根本的欠陥を象徴している。

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