ドストエフスキーの人間力

読んだ本の感想。

齋藤孝著。平成20年6月1日 発行。



ドストエフスキーの小説には、様々な「過剰な人間」 = 「癖の強い人間」が登場するという話。過剰な人間が集まって物語世界の中で祝祭が行われる。どのような人間でも存在して良い。

人間は癖の集合体であるが、癖が衝突する事は日常生活では避けられる。ドストエフスキー世界では、癖が衝突し摩擦している。磨き抜かれた癖が技となる = 癖が濃くなり過ぎる「癖の技化」が発生する。

<ポリフォニー(多声音楽)的>
ドストエフスキーの小説の登場人物達は、作者の代弁者ではなく、各自が自我を主張し、互いに融合する事の無い魂の交流が発生する。



『罪と罰』
①過剰に「卑屈」なマルメラードフ
主人公ラスコーリニコフが居酒屋で出会う男。過剰な自尊心を持ち、自らをキリストに准える。自分の恥部を初対面のラスコーリニコフに曝け出し、引きずり込む。

どのような人間にも行く場所があって良いというドストエフスキーの根源的思想を体現?

②過剰に「不意」なラスコーリニコフ
現状を踏み越える手段を探している。

「犯罪を犯す」という言葉が「踏み越える」という言葉で表現される。踏み越えるという語は「罪(プレストゥプレーニエ)」という言葉と語源的に繋がっているらしい。



自分でも思っていない事や思い付いた事を「不意に」行う。それは他人の言葉を受け入れるからだ。自分が否定した言葉にも影響され、後々の行動を変化させる。そうした素直が周囲の教育欲求を誘発するとしている。

③過剰に「同情的」なソーニャ
不幸な人間を見ると、自分も一緒に辛さを分け合いたくなる。

自分を売春にまで追い込んだ実父のマルメラードフにも優しい。ヒステリーな母親にも同情する。聖なる娼婦であり、殺人者であるラスコーリニコフとはキリスト教の教えに背いた者同士である。民衆宗教的キリスト教が二人の絆になる。

ラスコーリニコフの前で聖書を朗読し、狂信を見せる事でラスコーリニコフの信頼を得る。

④過剰に存在感をまきちらす端役たち
他に過剰に胡散臭いスヴィドリガイロフ(嫌な臭いを過剰に発する)や過剰にお人よしのラズミーヒン、過剰に教育熱のある予審判事ポルフィーリィ等。

『白痴』
⑤過剰に「男を揺さぶる女」ナスターシャ
矜持と素朴を合わせ持つ。多くの人間は、本性が垣間見えるものと考えるので、嘲笑から覗く純潔に魅せられる?何も尊重してないために、躊躇う事が無いとする。

自尊心が強く自尊心で自分を傷つけるアグラーヤとムイシュキン公爵をめぐって対立する。

⑥過剰に「素朴なモテ男」ムイシュキン公爵
ドストエフスキーの悲願とする無条件で美しい人間?

過剰で素朴で鈍い人間であるために無駄な自意識から免れており、他人の苦悩に寄り添えるとする。自分自身の事に煩わされないので的確な発言が可能。ほとんどの人間から馬鹿にされているので、多くの人間がムイシュキン公爵の前では本性を剥き出しにする。

誰もが安心して全てを曝け出す空白。

『地下室の手記』
⑦過剰に「自意識肥大なひきこもり」地下室の住人
惨めの中に快楽を見つける人間。

賢明な事を望む義務から逃れ、愚かを望む権利を手にする。他者の予測を裏切る事が自我の主張である。

自分で自分の事を考え過ぎると、全てが自分の想定内になり、考え過ぎる事で行動困難となり、自分が予測しない成長が難しくなる。

自意識が自分の身体知(欲望)に問い掛け言語化する対話構造は、他人と関わり難い。そうした対話構造を持つ人間が場を同じくすると、自分の言葉を浴びせ合い、混乱が生じる。通常は発生し得ない魂の共感。生きている事を実感する祝祭。

『死の家の記録』
⑧過剰に「凶暴」な監獄の囚人たち
ドストエフスキーは思想犯として4年間シベリアに流刑されている。

その極限状況で人間を観察する事で人間の奥底を描く事が出来るようになったとする。罵りの技術が磨かれ、無反省の中の蟠りを垣間見る。

囚人達は監獄内で貯蓄し、金を使用する時に自由を感じる = 自分の意志で行動する事を感じる。自分が何でも出来る事を他人に思い知らせたい。

他人同士が共同生活をおくる苦痛。



ドストエフスキーは、監獄の中で如何なる事にも人間が慣れる事を発見したとする。

『賭博者』
⑨過剰に「人生を賭けている」賭博者たち
ドストエフスキーの被虐世界。

自らが周囲から独立し、自分自身で充実感を感じる事が出来るのは、非日常的な賭博の世界だ。

『悪霊』
⑩過剰に「期待させる男」スタヴローギン
期待外れな男。

スケールの大きい雰囲気を持っているが、退屈と虚無に塗れている。常識と離れた行動をする事で生を実感する。浅い人間である故に、不名誉や卑劣に底深さを感じる。そのため、誇りを守ろうとせずに超然としている。

そのような動かない心を強靭と勘違いした人々がスタヴローギンを崇拝する。

スタヴローギンの母親ワルワーラ夫人は強いが、男達の底は浅い。ドストエフスキーは、そのような浅い人間達を描くが、奥行きが出てくるとする。

『カラマーゾフの兄弟』
⑪過剰に「好色」なフョードル
どのような女性にも性欲を掻き立てる。これまでの生涯に醜い女はいなかったと主張する。

道化の演技が得意。自分の行動に対する反応で相手の本質を見抜く。

二度目の妻は、ヒステリックな発作を起こす体質であり、カラマーゾフ家のブランドは、女好き、強欲、神憑りとなる。

⑫過剰に「祝祭的な空間を作り出す」脇役たち
スメルジャコフ:
母親の綽名である「嫌な臭いのリザヴェータ(スメルジャーシチヤヤ)」を捩った名前らしい。軽蔑されながらも恐れられている。

行動する事が可能であり、考えるだけで行動出来ない人間の代理人となる。カラマーゾフの次男イワンから、「全ては許される」という思想教育を受けてしまう。理論先行で行動出来ないイワンと、行動が先行するスメルジャコフは対の存在であり、臆病者として同一になる。

グルーシェニカ 対 カテリーナ:
対照的な美女の対立。

二等大尉スネギリョフ:
息子のイリューシャを愛している。子供は立派な父親を持ちたいが、現実には情けない父親だ。しかし、誇り高くあろうとし、また、愛そうともする。

カラマーゾフの兄弟は、狂乱の後に祝祭的な締めくくりで終わる。

フョードル・ドストエフスキー
⑬過剰に「情熱の燃え上がるごった煮男」ドストエフスキー
作者であるドストエフスキーの過剰について。

ドストエフスキーの作品の登場人物は、それまでの行動からは予測も出来ない行動を突発的に起こす。周囲の人間は予測を外され、引きずり込まれていく。

そうした当人すらも制御不可能な過剰は、ドストエフスキーも持ち合わせており、浪費家だったドストエフスキーは賭博に熱中し、妻が近くにいないから冷静になれないという理論を展開する。



浪費癖で常に金に困り、また、女好きで恋を多く経験した。

アポリナーリヤ・スースロウとの恋愛では、自尊心が強くエゴイストの女性との恋愛を経験し、被虐的快楽に浸る男性を理解。



残虐に対する欲望と苦痛に対する欲望は相反するものでありながら共存するものであり、それだからドストエフスキーの登場人物達は豹変するように見える。

幼少期に厳格なロシヤ正教の教育を受けたドストエフスキーは、彼自身の個性と対立し、自分が生きている現実と自らの思索を絡ませて作品とする型を生み出したとする?



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