後悔と自責の哲学

読んだ本の感想。

中島義道著。2006年4月20日初版印刷。



A 後悔
1 意図的行為に対する後悔
後悔には自らの意図的行為が関与している自覚が必要。後悔可能な領域は、各人の固有の過去である。

後悔に付随する他行為可能(別の選択もあった)という感覚は、その時の自分が自由であったという感覚。自由は、実現した過去の意図的行為に対して生じる。それだから、過去の行為に対する後悔は、当人が人生経験を積み重ねるに連れて変化していく。
後悔は自由の認識根拠である。

カント:
自由は、道徳法則を通じて認識出来る。道徳的に善い行為は、適法的行為である以上に、動機が道徳法則への尊敬以外に基づいていない。自己愛に基づく善行は、善い行為とは見做されない。

そして、人間は道徳行為に反していた過去を認識する事で、「その時に自由だった」事を認識する。常に道徳的に善い行為をする人間は、「そうしない事も出来たはず」という具体例を想起出来ず、自由を認識不可能。

人間は感性界と英知界の両方に属し、感性界では悪を尽くす現象体であるが、英知界の本体は道徳を熟知しており、感性界の自分の不道徳的行為を英知界の自分が後悔する構造になっている。

無差別均衡の自由:
自由を「強制されていない状態」と定義する。この場合、自由と偶然の区別が無くなる。無差別均衡が成り立つには、以下の2つが両立しなければならない。

①選択肢Aと選択肢Bは対等である
②上記①にも関わらず、どちらかを選択する

上記①では、選択肢Aと選択肢Bが対等であるためにどちらも選択出来ないはずであるが、上記②では選択する事になっており矛盾する。

⇒意図的行為を過度に単純化した事による問題

上記矛盾を解消するために「自由意志」の存在を仮定する。自由意志を発動させて選択肢を決定したとする。

自由意志は、他行為可能(別の選択もあった)という感覚から生じる。自由は、現在の自分を説明する言葉ではなく、過去を振り返った時に責任が追及される範囲を規定する言葉である。

2 非意図的行為に対する後悔
自分の意図が直接は関わらなくても、「思わずしてしまった」行為への後悔はある。他に「気付かなかった」事への後悔等。

過去に遡り、自分が一定の意図的行為をしなかった事を後悔する。

刑法では「過失」に対する責任追及に対応し、責任追及の終止点を自由意志とはせずに、何らかの心の状態として認定する。過失は心の状態ではなく、禍が発生した時に自動的に名付けられる現象である。

そうした後悔が特定事象ではなく自らの性格に向けられた場合、現実の自分とは異なる架空の自分を見立てる事になる。

3 後悔と偶然
〇エピクロスの斜行運動:
偶然についての説明。
世界とは垂直に落下する膨大な数の粒子の運動であるが、粒子の幾つかの軌道が斜めに逸れて、別の粒子に衝突する事で多様性が生じるとする。

偶然とは、軌道が斜めに逸れる原因が無い事である。

〇九鬼周造:
偶然を以下に分類。

①定言的偶然
二つの概念間に成立する偶然(三角形において、一角が直線であるという偶然等)。

②離接的偶然
様相概念一般との偶然(三角形という概念に基づいて直角三角形が表現される等)。

③仮説的偶然(経験的偶然)
現実に発生する事に関する偶然。
 ・因果的偶然(出来事の原因が分からない)
 ・目的的偶然(目的に含まれない結果が生じる)
  →シュムベベコスによる原因
   アウトマン:意図的行為以外
   チュケ:意図的行為のみ

「逃げた馬が偶然主人の方に走って来て助かった」場合、馬にとってはアウトマンであり、主人にとってはチュケである。

〇ライプニッツ:
理性の真理:反対思考不可能(矛盾する)
事実の真理:反対思考可能(矛盾しない)

偶然に発生した事は、理性上は発生しなくても矛盾ではないが、事実上は発生するしかなかった。ライプニッツは、神は可能世界から最も善い世界を創造し、現実がそのように見えないのは人間の認識が限定されているためとする。

・充足理由律
生起する現象が不可思議なのは、観測者の思考が限定されているためである。出来事の生起は単純な少数の原因に帰着するべきでない。

・微小表象
人間の認識を超えた無数の微細な原因が連続的に働いている。

⇒原因としての単純な「自由意志」の拒否

〇スピノザ:
偶然を認めない。全ての出来事は原因無しでは発生しないため、偶然とは複雑な原因を把握出来ないために発生する認識である。自由意志の否定。

〇カント:
自由意志は認めるが偶然は認めない。原理的に原因が分からないという意味での偶然は無いとした。

目的論的観点は西洋型文明社会で強固であり、如何なる自然現象も原因によって引き起こされる。人間の意図的行為も目的論的観点無しには理解出来ない。

個々の行為は目的を実現するための過程であり、全体を目的論的行為と呼ぶ。偶然とは、目的とその遂行手段の外部で発生・認識される現象である。

****************

人間は状況に影響されるが、如何なる状況であっても、「そうしない事も出来た」と後悔するような「自由」を設定してしまう。カントは、行為を開始する意志を純粋は自発性として、自由とは自発性から行為を開始する事とする。

自由における因果性導入の目的は、行為者の責任を追及するための仮定である。責任追及とは限定された範囲に収束させるべきものであり、自由意志は責任追及の終着点として必要とされる。

責任追及は理性の自然本性であり、自然因果性とは区別される。そのため、自然因果性を適用して犯罪者の犯行原因を特定し、自由による因果性によって犯罪者を処罰する矛盾が生じる。

4 後悔と運命
以下は、運命の要件。

①発生確率が極めて低い
②結果が重要
③不可知な原因の作用

⇒自然因果性とは別に神の意志等の不可知の原因を設定する

人間には原因として超越的存在の意志を容易く織り込んでしまう傾向があり、それは人間に慰めを与える(抵抗しても無駄だったという観念)。



人間の認識は限定されており、一つの意図に多くの事象を内包させる。例えば、「自宅から職場に向かう」という意図は様々な事象を内包する。歩き方や鞄の持ち方等は意図の枠内に収まり意識されないが、道中の発砲事件等は偶然として認識される。

以下の二つの視点から現実世界を認識している事になる。

①異質の一回的継起
②同一事象の繰り返し

大部分の時間を上記②の中で過ごし、偶に発生する事件が上記①を意識させる。日常生活で発生する様々な差異は限定された観念によって統合される。仮に人間が上記①の認識しか持たなければ、偶然と呼ぶべき異常は無い事になる。それは言葉による認識を拒否した世界であり、事象の原因を思考不可能になる。当たり前の繰り返しが偶然の前提。



運命とは、後悔を免れるための方法論である。全てが決定されていたと思えば「あの時ああしていれば」という観念から逃れる事が出来る。

ニーチェは永遠回帰として、同一事象の繰り返しを前提に、偶然を認める事で後悔を止めるべきと主張?

B 自責
5 苦しみあえいでいる人に対する自責
社会とは、不可知を否定して基準を設け、全体が与える賞罰に納得するよう強制される場である。その中で哲学は、当たり前を言語化しようとする。

著者は、「他者に親切に出来るのに、何もしていない」という自責を提唱している?カントは他人に対する親切を不完全義務とした。実施されれば賞賛されるが強制もされない。

しかし、同情には他者を卑下してしまうという欠点もある。

著者が提唱しているのは、運命や偶然によって他者の不幸を理解するのでなく、理由付けを拒否して驚く態度?それは自責の念とともに、「何故、自分でなくこの人が?」という問いを生み出す?

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