古代ダキア人

インターネット上の掲示板からのコピペ。

以下は、Wikipediaの「ダキア人」の記事へのリンク。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%AD%E3%82%A2%E4%BA%BA

古代トランシルヴァニアを根拠地に、最盛期にはハンガリーやスロバキアまで影響力を及ぼした。

〇トラキア民族
トラキア人:
南のギリシャ圏と関係が深い。ドナウ川より南に住む。

ダキア人:
蛮族圏と関係が深い。ドナウ川周辺と北方に住む。

ダキア北方には、ダキア人の兄弟集団であるコストボキが住み、ダキア東部にはダキア人の一部族であるカルピが住んだ。

ダキア人の勢力圏は、初期においてはモルダヴィア、成長期にはワラキア、繁栄期には対ローマ防衛のためにトランシルヴァニアとなる。同地域は鉱物資源が豊富であり、山岳地帯でありながら肥沃だった。

ダキア人人口は、1世紀には80万人~100万人ほどに達していたと推定され、後にローマによって属州化された(ダキア全体の2/3程度)3世紀初頭に「ダキア属州」だけで60万人~120万人が住んでいたともされる。

<社会構造>
部族社会であり、族長(有力貴族)が各自の土地を支配しており、部族・地域単位で独立自治をする。ダキア人の王は、族長クラスから選ばれた軍事指導者という位置付けだった。

以下の4つの身分。

①貴族(tarabostes、pileati) 帽子男
束ねた髪を隠すフリギュア風の帽子は貴族のみが被った。

②平民(comati) 長髪の男
部族の共同所有地が分配され、貴族のような土地私有を禁じられた。

③戦士(capillati)長髪の男(上記②より長いニュアンス)
平民の一部が戦士層を構成した。

④神官
貴族層に属していたが世俗とは一定の距離があり、国政の最終判断は神官による占いによって決められた。

<ダキア人の形成過程:ルーマニアの歴史>
紀元前5000年頃:
欧州圏最初期の都市(大集落)を形成したククテニ文化や特定の意味を持つ記号(古ヨーロッパ文字)を用いたヴィンチャ文化等が栄える。

紀元前4000年頃:
ウクライナ方面からの印欧語族と接触。1000年~2000年かけて印欧語族が流入する。

紀元前2000年~紀元前1500年頃:
青銅器時代に移行。ポーランドから諸部族の流入があったようで、ヒルフォート(強固な防御設備がある集落)が多く見られるようになり、社会が徐々に崩壊していく。

紀元前1200年頃:
海の民による既存秩序崩壊と移住の連鎖により鉄器文化が広まる。広義の「トラキア圏」が形成されていく。

紀元前600年頃?:
遊牧騎馬民スキタイが、ドナウ河口やワラキアに流入。東方からイラン系騎馬民由来の鯉登のような旗(ドラコ)や、鱗状の鎧(スケイルアーマー)等が齎される。

ギリシャ人も黒海沿岸に植民地を作り、内陸のモルダヴィア・ワラキア・トランシルヴァニア方面にも影響する。

西部からは、ケルト人によるハルシュタット文化が伝わり、ダキア人は北方蛮族風になり、南部に居住したギリシャ風のトラキア人とは分かれていく。

<ザルモクシス信仰>
霊魂の不死性を説く。ダキア人の伝承では、教祖のザルモクシスは一度死んでから復活した事になっている。トラキア圏全体に信仰が広がり、北部にいくほど一神教的色彩が強まり、時代が下るほど拝一神教と言えるようになっていく。

信仰の違いからも、南部のトラキア人と北部のダキア人の文化が分かれていったらしい。

紀元前400年頃:
トラキア人が、オドリュサイ王国を建国。ダキア人とトラキア人の分離が進む。しかし、紀元前340年頃にはオドリュサイ王国はマケドニアのフィリッポス2世に征服される。

紀元前200年頃:
西部のケルト人が勢力を拡大し、トランシルヴァニアがケルト人の支配下になる。ケルト人の金属加工技術が伝わり、また、ダキア人がスロバキア東部・パンノニア平原・セルビア北部等の外部に移住するようになる。

戦術面にもケルト人の影響があり?それまで主だった個人戦(長剣等を用いた)から、集団戦術(大盾を用いての盾壁戦術等)も併用されるようになるらしい。

ワラキアは支配を拒み、ダキア人としての共属意識が形成された?

◎ドロミカイテス
記録に残された初めてのダキア王。ケルトに対抗すべくワラキアを纏めた人物?紀元前290年代にはマケドニアも破り、マケドニア王リュシマコスを捕虜にしている。

◎ルボボステス
紀元前2世紀におけるダキア王。トランシルヴァニアのケルト支配を終わらせる。

◎オロレス
紀元前2世紀半ばにおけるダキア王。北からトランシルヴァニアに侵入したバスタルナエ族(東ゲルマンの最前集団?)を撃退。

バスタルナエ族はモルダヴィア北東部に居住するようになり、ダキア文化の影響を受けたらしい。

紀元前100年代:
ギリシャとマケドニアが紀元前140年頃にローマの属州になる。ローマによるダキア侵略の可能性が危惧されるようになる。東部からは騎馬遊牧民サルマタイが黒海北西部まで到達し、ダキアの勢力圏と接するようになる。

◎ブレビスタ
紀元前80年頃にダキア王になったとされる。

対外的には、セルビア北部(スコルディスキ族)、パンノニア平原北部(エラウィスキ族)、スロバキア(ボイイ族、コティニ族)、モルダヴィア(バスタルナエ)、トラキア等を従属させ拡張政策を採っている。

当時のダキア人口を100万人とすると、動員兵力は5万人程度。同時代のゲルマンでは、ウェーザー流域の有力部族が結集したアルミニウスの反乱(9年~16年)での連合軍の最終規模は5万人~6万人ほど であり、小規模ではない。

内政においては、ザルモクシス最高神官のデケネウと組んで全ダキアにおける宗教権威を掌握する。

禁酒等の厳格な教義を施行する事で神官ネットワークを一本化。宗教権威をネットワーク頂点の最高神官デケネウに集中させ、最高神官を王が保護する形で「ザルモクシスの民(ダキア人)の頂点」たる正統性を手に入れる。

禁酒政策には、祭儀で酒盛りをしていたディオニュソス信仰を抑えこむためという意見もある。

さらに、ワラキアにあった王都(Argedava)をトランシルヴァニアのオラシュチエ山地にあったザルモクシス信仰の聖地サルミゼゲトゥサ・レジアに移転する。権威強化と対ローマ防衛の意味。

山脈に囲まれているトランシルヴァニアは守りに最適で、北部から中部の生産地も後背地として安定機能させ易いらしい。

トランシルヴァニア南西部のオラシュチエ山地を対ローマ防衛線の核として、城砦網を整備した。

カエサルによる内戦が勃発すると、ポンペイウス陣営と同盟を締結するが、カエサルが勝利し、パルティア侵攻の次にダキア侵攻が計画されたらしい。紀元前44年にカエサルが暗殺された事で計画は頓挫するが、同年にブレビスタも暗殺される。

彼の死後、統一ダキア王は現れず、ダキアは北のコストボキ・東のバスタルナエ・南のトラキア・西のケルトに分裂する。

*****************

紀元前30年頃:
アントニウスがエジプトで没した後、ダキア人(ドブロジャ)等がドナウ川南岸に侵攻。紀元前27年にはローマが勝利し、ドナウ南岸全域がローマ支配下になる。しかし、実効支配には至らず、侵入と戦いが継続する。

紀元前10年頃:
ローマのパンノニア征服軍の一部がドナウ川北岸に侵入。バナトの王コティソの勢力が減退する。本格的にローマ対策が望まれるようになる。

◎コシモスク
デケネウの弟子である最高神官。コティソ王が没落した後に世俗の王にもなる。

◎スコリオ
30年頃にダキア王になる。トランシルヴァニア北部全域等を吸収し、60年頃にはダキア再統一を完了させる。

◎デュラス
69年のローマとの戦いにおける敗戦を踏まえ、以下の軍備強化を行う。

内政:
兼業の肩書きだった「戦士(capillati)」を、正式な身分階層として区別し、地位を強めて統制を固める。

外交:
東のロクソラニ族や西のイアジェゲス族と軍事同盟を締結し、最大2万人の騎兵を確保。

戦術:
ローマ軍との会戦を避け、森林を利用した待ち伏せや分散した遊軍によるゲリラ戦を中心に戦うようになる。

ローマ戦の最終目的は、ドナウ北岸へのローマ進出を諦めさせ、モエシア・トラキアからも手を引かせ、ドナウ流域一帯の覇権を握る事だったとする。

◎デケバルス
85年にダキア王になり、ローマとの戦いを開始する。この時、ローマは、ブリタニア方面ではカレドニア(現スコットランド)へ侵攻中、
ライン方面では対ゲルマン政策でカッティ族討伐やシュヴァルツヴァルト地方を占領しての防衛線構築等を行っており手薄だった。

以下の段階で戦争を行う。

第一段階:
85年秋に、3万人~4万人の軍勢(ロクソラニ族からの騎兵含む)でワラキアからドナウ防衛線への奇襲を行う。ローマのドナウ方面軍は10万人以上だったが、ドナウ川流域に幅広く配置されていたため、奇襲は容易だった。ダキア軍は、ローマ側の現地最高指揮官であるモエシア総督を討ち取ると、秋が終わる前にドナウ川北岸に撤収した。

ここで、デケバルスはローマに講和を打診している。戦争目的が、ローマを滅ぼす」ではなく「ローマにダキアを諦めさせる」だった事による行動。

第二段階:
86年春に、ローマ皇帝ドミティアヌスが軍を再編し、ドナウ北岸へローマ軍が侵攻する。動員されたのはドナウ方面軍から対ゲルマンの上流部分を除いた7万人~8万人ほどで、ドナウを超えたローマ軍の正面戦力の規模は、ドナウの残留守備・兵站ルート守備の分を差引くと5万人~6万人になる?

現場指揮官に任命されたのは、コルネリウス・フスクスという人物で、タキトゥスから難のある勇猛さを持つを評された?人物らしい。

ダキア軍は、トランシルヴァニアまで後退し、コルネリウス・フスクスは、ダキアの首都サルミゼゲトゥサ・レジアを目指して侵攻したが、奥地に誘い込まれて分断・各個撃破されてローマ軍は大敗し、コルネリウス・フスクスは戦死した。

*************

ここで戦争は終わらず、88年夏にローマ軍は再編され、新将ユリアヌス率いるローマ軍が首都サルミゼゲトゥサを目指して侵攻を開始した。

ダキア軍はトランシルヴァニアの入り口であるタパエで待伏せを行ったが、待伏せを見抜かれ敗北。しかし、退却には成功する。ローマ軍は勝利したものの一旦進軍を停止するほどの損害を出した。

オラシュチエ山地はダキア側が多くの拠点を固めており、ローマが攻勢に手間取れば他地域からの敵増援軍とも戦わなければならない。その時点でのローマ軍の規模では大量の砦を攻囲しつつ、背後の敵増援軍と戦う事は困難だった。

ユリアヌスは一旦はドナウ川南岸に後退し、翌年の89年1月にドナウ川北岸への侵攻を開始する。それを受けたダキア軍はドナウ下流域で戦力が手薄になったローマ防衛線を攻撃。ユリアヌスは89年夏にはドナウ防衛線を持ち直す事に成功するが損害は大きく、ダキア討伐は困難になる。

さらに同じ頃、ローマ内部でも上ゲルマニア属州の総督サトゥルニヌスが反乱を起こし、ダキアの優先度が下がった事でユリアヌスの再侵攻計画は延期される。

90年頃にはドナウ上流~中流部のゲルマン人(スエビ系有数の強部族であるマルコマンニとクアディ)がローマへの侵攻を開始。特に92年の攻勢でローマ側が大きな損失を被った事で、ドナウ下流の対ダキア用戦力をパンノニア方面に移転する事になる。

93年~95年頃には、ローマとダキアの間で講和が実現する。以下の条件。

①ドナウ北岸からのローマ軍の全面撤退
②今後、ローマ軍がドナウ北岸に介入しない約束
③ローマ兵捕虜解放の引き換えに身代金を払う

⇒講和条件がローマにとって屈辱的なもので、後の戦争を決定付けたらしい

96年9月にローマ皇帝ドミティアヌスが暗殺され、次の皇帝ネルウァに指名されたトラヤヌスが98年にローマ皇帝になる。

トラヤヌスは、対ダキア戦争における指揮官だった事もあり、ダキア再侵攻に向けて二個軍団の新設等の準備を進めた。

◉第一次ダキア戦争:
100年頃には、15万人ほどのローマ軍が集結し、トラヤヌスによる第一次ダキア戦争が始まる。ローマの進軍は一定間隔で数万ずつ分かれて行われ、最終的にトランシルヴァニアの入り口であるタパエで全軍合流し、トランシルヴァニアへの侵入口を押さえる計画だった。

タパエの他にも、ワラキアを流れるドナウ支流のオルト川を遡り、オラシュチエ山脈の東に出るルートからの侵攻が行われた。ダキア軍はゲリラ戦で対抗し、102年のオラシュチエ戦は激しいものだったらしい。

ダキア側の損害は大きかったが、ローマ側もオラシュチエの城砦網が予想以上に堅固であり、ダキア内部の結束が固い事から、ダキア側の降伏を受け入れた。

以下が降伏の条件。

①ダキアの武装解除
②ドミティアヌス帝期に結ばれた協定は完全反古
③ダキアの属国化
④周辺地域(バナト及びワラキア地方)の放棄
⑤城壁を含む防衛設備を全て破壊、再建も禁止
⑥軍事系技術者、ローマからの亡命者を引き渡す

102年の内にトラヤヌスはドナウ川南岸に引き上げたが、ダキア内の要衝にローマ軍を残した。首都サルミゼゲトゥサに残した一個大隊は、ザルモクシス信仰の聖域すらもローマの影響下であると宣言する目的もあったらしい。

⇒指導者層は敗北を受容出来ても、一般層が敗北を受容する事は困難?再度の戦いが始まる

戦争後にダキアは再軍備を開始し、ローマは103年からドナウを渡る橋を建設し始める。105年春に橋は完成。

◉第二次ダキア戦争:
105年夏に、ダキア軍がオラシュチエ一帯に駐屯しているローマ軍相手に戦争を始める。夏の終わりにはドナウまで到達し、ドナウ防衛線にも激しい攻撃を開始する。

トラヤヌスは105年秋には現地入りし反撃する。このローマの反応はダキア側の予想以上に素早いもので、ダキアの退却が間に合わず大きな損害が出たらしい。オラシュチエに戻った時点でのデケバルス直接指揮下の戦士は、僅か1万という推計もある。

106年になる頃には、ダキア戦線に集結したローマ軍は20万人に達していた。106年春には複数方面への同時侵攻が行われダキアは孤立していく。106年夏が終わる頃には、首都サルミゼゲトゥサが陥落してしまう。106年秋には、ローマ軍はトランシルヴァニア全域制圧を完了しトラヤヌスはダキア征服完了と属州化を宣言する(統一ダキア王国の滅亡)。

ローマが得たダキア人奴隷は5万人~10万人とされ、戦死等も含めると、全体で15万人から20万人ほどのダキア人が姿を消したらしい。ダキア人は未だに大勢残っていたもののダキアのローマ化が進んだ。

やがて、ゲルマン民族やフン族やアヴァール族、スラヴ等の新興勢力と混合し、「ルーマニア人」が形成されていく事になる。

人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

二形の効率的分離認知

二形の分離認知は効率的に行われる必要があり、そのために服装、言語、家族、集団、組織に反映される二次的二形構造を導きますが、それらがまた性的魅力を強化するという循環構造になっています。性的魅力はこの二形の分離認知が開始されるための必須要素となっています...

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:ABCDEFG
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード