乾隆帝伝

読んだ本の感想。

後藤末雄著。2016年8月20日 初版第一刷発行。



良い本だ。

以下は、共に読むべき本の記事へのリンク。

『木を見る西洋人 森を見る東洋人』
http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-722.html

『康熙帝の手紙』
http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2028.html

『マッテオ・リッチ記憶の宮殿』
http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-2442.html

***************

中華世界において、自然科学が根付かなかった理由を考えられる本。具体的技術を伝播しても、根本原理である哲学は文化的に拒絶されたように思える。

宣教師達の哲学は、神が造った世界を科学的方法によって認識する課程であり、絶対神を理解出来ない中国人には、西洋科学の根本理解は不可能だったように感じる。

それは多くの西洋人が中華に至っても、逆は少なかった原因の一つであり(P87、P365に1751年からフランス留学した2人の中国人の記述がある)、土地や先祖に左右されない絶対善を信じなければ遠い異境での生活は無理だったのではないか。

中華における自然科学は、皇帝の趣味でしかなかった。

本書における以下の2者の対比。

西洋人宣教師:
キリスト教伝道のために、西洋科学を用いて中華にて布教活動を行う。

中華皇帝:
国家的必要から西洋科学を尊重したが、既存宗教と対立するキリスト教は禁止したい。

農本政策に必要な天文知識や時計製造、他国との外交のための語学知識等は、西洋人宣教師無しでは維持出来なかった。

宣教師達は、中華社会を見誤ったのではないか。P232に、「中国には、ひとりの人間しかおりません。その人こそ皇帝であります」という記述がある。キリスト教においては、神と人間との契約の概念があり、「天」と契約する皇帝のみを人間とし、彼を改宗させようとした?が、キリスト教の迫害は末端の役人から始まる事が多く?皇帝は迫害を追認するだけだったように感じる。

第一次迫害:1736年
下級官吏の催した祝宴に、キリスト教信者の妹が、祝宴の迷信的色彩を恐れて出席を拒否。下級官吏が、キリスト教が習俗を壊すと訴状を出した事から禁令が公布される。迫害は二ケ月で鎮静化したという。

第二次迫害:1737年
キリスト教信者の中国人が、捨てられた生児に洗礼を施していたところを官憲により逮捕され迫害が始まる。乾隆帝は、キリスト教に対する論難書の貼布禁止を口頭で通達したが、正式な文書には出来ず、地方でも迫害が始まる。

第三次迫害:1746年
福建省において、ある儒者がキリスト教に対する訴状を政府に提出。人心を惑わしたとして5名?の宣教師が処刑される。

⇒乾隆帝が積極的にキリスト教を迫害したように読めない

清朝形成期においては、高級文化を持たない満州民族が統治用概念を移植しなくてはならないため、比較的簡単にキリスト教が権力に入り込む事が出来たように思える。しかし、帝国が完成されていくに連れて、多くの漢族を支配するために漢族文化に同化せざるを得なくなる。康熙帝を模倣した乾隆帝は、彼自身の意思によって支配したのでなく、一般人の意思を追認する事しか出来なかったのではないか?

⇒明朝における大航海も、帝国初期しか行われない。帝国が長期化すると支配が複雑化し、巨大事業が不可能になるのかもしれない

西洋人宣教師達は、権力者によって派遣された身分であり、欧州風の絶対権力者を疑う事が出来なかったのかもしれない。

【乾隆帝治下における宣教師の主な業績】
①円明園改築(1747年)
北京近郊にある中華皇帝の宮殿に西洋楼の建設と噴水を構築。

②「得勝図」の製作(1765年)
ジュンガール部との戦争を記念するための絵画作成。遠征の各場面を16の絵画に描かせ、欧州に送付して銅版画にした。

④「坤輿全図」の増補改訂(1767年)
康熙帝時代の宣教師フェルビーストの作製した世界地図「坤輿全図」の改訂(ヤルカンド、カシュガル、タシュケントの追加等)。他に、1716年(康熙55年)に作成した最初の科学的実測全中国地図(皇輿全覧図)がある。

⇒P115に面白い記述がある。西洋人宣教師達が、中国人暦数学者に地動説に基づく星図表を与えたが、中国人暦数学者は地動説の結果である星図表を利用しながらも、地動説を認めなかったという

⇒理論への態度の違い?西洋人宣教師でなければ自然科学を担当出来なかった理由?

⑤「皇朝中外一統輿図」の作製(1772年)
中国全土、及び辺境諸国の新地図作製。地図を印刷する銅板印刷技術は西洋人宣教師にしか担当出来なかった。

以下は、中国国家図書館の「清乾隆内府輿図」へのリンク。

http://www.nlc.gov.cn/newhxjy/wjsy/zg/zgdq/201109//P020110923361673384577.pdf

⑤四庫全書(1772年~1782年?)
乾隆帝が収集した大文庫(約3400種を筆写)。耶蘇会士の漢述した四書、天主実義(マテオ・リッチ著)、軽世金書(チャーズ著)、教要序論(フェルビースト著)、七克(パンドジヤ著)も収録されている。

【欧州と中華の違い】
霊魂について:P78~P79
中華皇帝が「キリストの化身」 = 霊魂?を理解出来ない話?

「神は全能の力によって、処女の胎内に一個の肉体をお作りになりました。そしてこの肉体に霊魂を結合されました。神はこの肉体とこの霊魂とを自己の神性に帰一されたのであります。それは罪に陥った人類を地獄から贖うためであります。私は自分の説明したいことを、スッカリ明白に説明することができません、しかしこの神秘は宗教書の中で、ハッキリ説明されております。」とカスチリヨーネが言い添えた。

⇒P178に、説明がある。肉体が死滅しても、霊魂が永久に生存し、神によって救済され、天国に昇るという思想は死刑を恐れない人間を生み出すという理屈?政治よりも強力な教法。

絵画:P97
欧州の画法では、大体の風景に想像を交える事が許される。しかし、中華では原物の通りに描かなくてはならない。漢画では、欧州風の芸術的天才は無視されるとする。

⇒P126~P128にも洋画との違いが記述されている。全体を芸術化する洋画に対し、細部の実写に拘りがあったという

哲学:P142~P143
中華皇帝が、鶏と卵のどちらが先に生まれたか問い掛けると、宣教師ブノワは聖書の記載する世界創造説によって答える。中華においては天地創造が説かれていない事については、始皇帝の焚書によって焼却された可能性を指摘する。

⇒重大な哲学相違。西洋人は「神」を基盤にして思考するが、中華皇帝は過去事例を模範とする。絶対的真実の存在を中華皇帝は理解していない

建築:P229
西洋人は整然として美しい宮殿、画一と対称を求める。不揃いが無い事を望み、一部が差し向かい、対立し、他の一部と対応する事を欲する。中華においては野趣溢れる田園、美しい乱雑が求められる。非対称が支配する。

【天文学】
15世紀~16世紀に中華を訪れたポルトガル人宣教師は、キリスト教伝道の手段として、天文学の知識を伝播。明代の天文学は元代に導入されたアラビア天文学(授持暦)であったが、アラビアと中華との経緯度を調節する事を知らなかったため、西洋の天文学よりも精度が低かった。

以下は、『天地明察』の記事へのリンク。この本でも、異国の天文学を経緯度の調節無しに導入する弊害が書いてあった気がする。

http://nonono7.blog12.fc2.com/blog-entry-1246.html

清朝においては欽天監(天文観測等を司る機関)の天文局長は西洋人となる。

【中華における耶蘇会】
欧州における耶蘇会は、教会の保護によって自任しており、各都市に学校を経営し、また、各国の朝廷に多大な権力を扶植していた。

イエズス会の教育課程は、入門を人文学(ギリシャ、ローマ古典)、修辞学とし、哲学を経由して神学に至った。人間理性による認識(哲学)と宗教的真理の啓示(神学)の総合を目的とする。

中華における活動は、西洋と同様の方法論を採用する。学問による権力者への取り入り。

16世紀~17世紀にポルトガル政府が耶蘇会の宣教師をインド、中華に送り、マカオを占拠として中華との貿易を独占。

フランス王ルイ14世は、ポルトガルから中華利権を奪取すべく、フランス耶蘇会の伝道団を送って清朝からポルトガル勢力を駆逐する事を画策。1685年には、フランス耶蘇会から特に技能が優れた6名の学僧を中国に派遣した。

しかし、18世紀後半になると、南欧の各国にて国王の権力が減退し、実権を握った大臣が、政治に干渉する耶蘇会を駆逐するようになる。1759年には、ポルトガル宰相ポンバル候がポルトガル国王暗殺未遂事件に乗じて耶蘇会士数名を禁固される。1762年?には、商館を経営していた耶蘇会士が破産し、出資者であった商人に訴えられている。

各国からの圧迫は続き、1773年に教皇クレメント14世は耶蘇会の解散を断行する。中華における耶蘇会の活動は、ポルトガルのラザリスト教会が引き継ぐ事になる。

*******************

P224~P227に円明園内に建設された小さい町の記述がある。庶民に姿を見せる事を禁じられた皇帝が、大都会を体感するために造った町。年数回は、町において宦官達が商売や職業、喧噪、犯罪の演技を行い、大衆の生活を皇帝に体感してもらう。

農村を模した町もあり、田舎の行事を全て見る事が出来たという。

中華皇帝は、このような仮想世界に居住したのであり、現実世界に権力を持たなかったのかもしれない。

乾隆帝は尚武の気質を維持しようとしていたように感じられるが、周囲の人間の大半が宦官であり、現実の権力は無かったかもしれない。

それは一般庶民についても同様で、「皇帝」という存在は仮想のものだったのかもしれない。

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