仕事に効く教養としての「世界史」

読んだ本の感想。

出口治明著。平成26年2月25日 初版第1刷発行。



第1章 世界史から日本史だけを切り出せるだろうか
―ベリーが日本に来た本当の目的は何だろうか?

世界は古代から交易によって繋がっている。国の歴史を世界システムから切り離す事は出来ない。

古代日本:
奈良時代の日本にとって、世界は韓半島と中国だった。著者の意見では、当時の日本は軍事的な事件が多い事から、傭兵国家ではないかとする。韓半島や中国が分裂状態の時に力を発揮する。

或いは、西漢の正史『漢書』に登場する倭は、韓半島の一部と北九州かもしれない。

一般に傭兵国家は統一国家が成立したら破綻する。その象徴が白村江の戦いとする。著者は、この敗戦を契機に、日本でも胡服(乗馬服)等の中華文明を取り入れたとする。

唐の武則天(則天武后:690年に皇帝になる)と持統天皇の時代は近く、7世紀半ばには新羅でも善徳女王と真徳女王という女王が二代続けて即位している。帝国を女性が仕切るロールモデルがあった事になる?

こうした世界史と日本史を結び付る方法は以降も通用する。以下は、鉄砲伝来の頃の日本を描いた作品らしい。西洋と日本との結び付き。



ペリー来航も太平洋航路を開拓して中国と直接貿易するための中継地点として、日本と交渉するためであり、世界史的理解が欠かせない。



第2章 歴史は、なぜ中国で発達したのか
―始皇帝が完成させた文書行政、孟子の革命思想

四大文明の中で、中国の文書記録が最も良く残っている。紙の発明と文書行政システムの影響。

商(紀元前17世紀~紀元前11世紀):
祭政一致国家であり、占いの結果を記録している。亀の甲羅に祭祀の結果を書いた甲骨文字。文字を読める人間はほとんどいなかった。

周:
都は西安(長安)にあったが、紀元前770年頃に犬戎という部族に追われ、東の洛陽に都を置く(東周)。この時に書記達が各地に散ったという。
紀元前500年頃は、各地が暖かくなった時代であり、鉄器も広く使用されるようになった。高度成長により、強い国が征服を始めるようになる(戦国時代)。
文字は、広範囲に命令を伝えるために使用されるようになる。

秦:
官僚が地方に派遣されて地方を治める中央集権システムを採用。皇帝は大量の文書で指示を出さなくてはならない。文書は蓄積され、現代に様々な情報を残す事になる。

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<孟子の革命思想>
祭政一致国家だった商から周へ転換した時代に、天空の支配者と人間の支配者が分離し始めた。その中で、孟子が易姓革命の理論を作る。主権は天が持っており、皇帝は天の代行である。皇帝が悪い政治をすると、天が天変地異を起す。それでも悪い政治が続くと、天命によって王朝が革まる。

この理論では、新王朝の創始者は、天が自分を選んだ正統性を主張するために、歴史を重視する事になる。中国に正史(王朝の歴史)を作る習慣が根ざす。

日本において、雄略天皇や武烈天皇が残虐なのは、その後に成立する継体王朝の正統性を証明するためかもしれない。



諸葛孔明の行動原理は、歴史からの高評価を求めるものとする。

第3章 神は、なぜ生まれたのか。なぜ宗教はできたのか
―キリスト教と仏教はいかにして誕生したのか

現代宗教の起源はドメスティケーションとする。

紀元前1万1000年頃から、人間の定住が進み始める。世界を追うのでなく、自らが主人となって世界を支配する思考。農耕や牧畜、治金等、自然のルールを支配する思想が神の誕生に繋がったとする。

ドメスティケーションの最終段階は、自然界を動かす抽象原理の支配である。

紀元前9000年代~紀元前8000年代の西アジアでは、偶像のような物が見つかっており、人間に似た神が想像されたと思われる。それが抽象化されていく。

具体的に神と見做された対象を予想すると、太陽(時間の概念)と女性(生殖能力)である。太陽から夏至、冬至の概念 = 1年の外苑が生まれると、1年を超える概念を思考し、それに始まりと終わりがある事になる。

紀元前1000年頃には、ゾロアスターが世界の始まりを神が作り、世界の終りには神の審判が行われるとする。一直線に流れる時間の始まりと終わりに神がいる。

こうした時間を一直線に把握する集団の中からセム的一神教が生まれ、キリスト教、イスラム教に繋がっていく。

対して、時間を循環で把握する宗教の代表は仏教で、輪廻転生を主張した。

<善悪二元論>
全知全能の神を仮定すると、神が人々を助けない理由が必要になる。



神が最後の審判を行うまでは、善と悪が争う。そのため悪が蔓延っているように見えるとする。

<仏教>
紀元前500年頃の地球温暖化の時代に生まれる。当時、インドでは鉄製の犂を牛に引かせる事で生産性を上げた。しかし、祭祀を専門とするバラモンは牛を生贄とするため、農業を生業とする人間とは対立関係にあった。

仏教や同時期に生まれたジャイナ教は殺生を禁じる宗教であり、牛を殺さない大義名分と出来る。やがてバラモン教も牛を殺す事を止めるようになり、ヒンドゥー教になっていく。

<キリスト教>
ローマ帝国での布教において、ミトラス教(ペルシア)、イシス教(エジプト)を参考にしたとする。ミトラス教では太陽神を祀り、冬至を太陽神が再生する日として祝う。イシス教ではイシスという女神を崇める。
キリスト教を両者を真似て、キリストの誕生日を冬至の頃にして、イシスのように聖母マリアの像を形成する。キリストの顔はユピテルを顔を借りた。

第4章 中国を理解する四つの鍵
―難解で大きな隣国を誤解なく知るために

①中華思想
中華思想は、周に対して各国が抱いた尊敬の念に端を発する。周は文字を刻んだ青銅器(鼎等)を威信財として諸国の王に与えたとする。紀元前770年頃に西周が滅ぶと、書記達が諸国に散らばって青銅器に書かれた内容が知られるようになり、周の歴史が評価されるようになる。中華とは、周のその周囲の地域 中夏を示す。

それと同じ現象が後世における東アジア全体に起こる。中華の方でも自分達が偉いという幻想を利用するようになる。

②諸子百家
文字が広まっていくと知識人が生まれる。法家(文書行政効率化のために、ステレオタイプ化したルールを作る)、儒家(理念や理想を説く)。

儒家は祖先を大切にするため、葬式を立派にし、その費用のために高度成長を志向するようになる。対抗するのはエコ思想の墨家であり、著者は始皇帝が弾圧したのは墨家であり、儒家はその後も生き続けているため弾圧されなかったと推測している。

他に知識人の趣味世界である老荘思想もある。

基本的に上位者は性善説であり、下位者は性悪説(大衆には教育を施し法律で取り締まる)となり、各種思想が棲み分ける。

③遊牧民と農耕民の対立
古代中国は、長江中下流域で太陽神を拝んだ集団と、メソポタミア文明が西進した宦官と戦車の文明が合体した社会とする。2世紀~3世紀にかけて地球は寒冷期となり、寒さに追われた遊牧民が南部に集団移動し、漢民族は長江以南に逃げる。
遊牧民として華北を統一した北魏は、中国を治める正統性の根拠に悩み、鎮護国家としての色彩が強い大乗仏教を採用するようになる。この流れは日本にも波及し、東大寺の大仏が造られる。

④始皇帝のグランドデザイン
始皇帝は法家の官僚達に文書行政を担わせたが、現代の中国も共産党が北京から全国に指令を出している。現代でも人民は状家の高度成長を信じ、知識人は老荘的に冷ややかであるという社会構造が継続しているのかもしれない。

第5章 キリスト教とローマ教会、ローマ教皇について
―成り立ちと特徴を考えるとヨーロッパが見えてくる

<カトリック>
1054年に、コンスタンティノープルの教会とローマ教会が南イタリアの教会の帰属を巡って争い、互いに破門する。ローマ教会は「普遍的な存在」としてカトリック教会を名乗るようになる。

キリスト教が国教となる背景には、ローマ帝国の衰退がある。蛮族の侵入等で帝国の道路は寸断され、キリスト教のネットワークを連絡網として使用するようになる。

欧州には大きな教会が5つあり、コンスタンティノープルの教会は強い力を持ったが、ローマ教会は西方の蛮族を相手に布教するしかなかった。

ベルギーから南下したフランク族の王クローヴィスがキリスト教正統派に転向した事で、勢力拡大の下地が出来る。そして、文字が読めない蛮族相手に偶像を使用して布教するローマ教会とコンスタンティノープルの確執が強まり、両者は分裂する。

やがてフランク王国の正統性確保のために、800年にカロリング家のシャルルマーニュがローマ皇帝に戴冠した。これが慣例となり、西欧州の王権はローマ教皇に戴冠されてローマ皇帝となり、最高の権威となるようになる。

962年にローマ皇帝の戴冠を受けたドイツ ザクセン朝のオットー大帝以後、ローマ皇帝とローマ教皇は互いに牽制し合うようになる。その後、ローマ教皇の威信低下によってドイツや英国で独自の宗派が起り、イエズス会を中心にアメリカやアジアでの布教活動に勤しむ事となる。

第6章 ドイツ、フランス、イングランド
―三国は一緒に考えるとよくわかる

三国の基礎は、フランク王国である。

メロヴィング家クローヴィスの開いたフランク王国を、宰相であったカール・マルテルのカロリング家が乗っ取り、カロリング朝を開く。そして正統性確保のために、800年にローマ皇帝として戴冠される。

この時代には長子相続の伝統が無く、子供に国を分割し、東西のフランク王国が成立する。カロリング家の血統が絶えると、東フランク王国ではザクセン族のオットーが国王となる。

西フランク王国では、カロリング朝の貴族ロペール家のユーグ・カペーがカペー朝を開く。英国は、1016年にヴァイキングのクヌート大王に征服され、国家の体裁を整えた。

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オットー大帝以降のドイツは、300年間は大帝国となるが、イタリアを支配下に置く事が政策の要であり、その負担が大きかった。そこで有力なドイツ王が現れない大空位時代の後に、弱い王を選ぶため、スイス領主の一人だったハプルブルク家のルドルフ一世をドイツ王にする(1273年)。

ドイツ勢力が分割される中で、ハンザ同盟(商人の組合)が勢力を伸ばした。

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フランスのカペー家は約350年間、嫡男が生まれ続け、ローマに行って皇帝になる伝統も無いために内政に専念でき、フランス王は力をつけた。

カペー朝の成立以前に、カロリング家のフランス王がノルマンディーをヴァイキングに渡している(911年)。ノルマンディー公ギョーム(ウィリアム)は1066年に英国に攻め入り、英国を自分の領土としている。

ウィリアム征服王は、フランスでは公爵であるが、英国王としてはフランス王と対等という不思議な身分になる。英国人貴族は、この時にやって来たフランス人である。

その後、英国はフランスにおける領土を失っていき、1307年から百年戦争が始まる。フランス王フィリップ四世の弟の子供フィリップ六世がフランス王となるが、英国王はフィリップ四世の娘イザベルの子エドワード三世の戦い。

この戦争を経過して英国とフランスは別の国になる。

第7章 交易の重要性
―地中海、ロンドン、ハンザ同盟、天才クビライ

人類の交易は海を中心に行われてきた。安全性に加え、大量に荷を運ぶ事が出来る。

そして、ユーラシアを全体で見ると、東が豊かで西が貧しい図式が成立する。氷河時代にユーラシアはほとんどが氷で覆われたが、雲南やインドシナ半島は覆われず、貴重な動植物(茶や蚕)が残ったとする。

西側の交易の要となるのは地中海で、その中央に位置するイタリア半島は最も交易に有利な土地。そして、ローマ教皇がいるため統一国家が誕生せず、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアの四つの共和国が生まれる。

北部欧州ではバルト海も交易が盛んであった。

この二つの海を交易する際、中世欧州においてジブラルタルがイスラム教徒に占領されていたため、フランスのニースからマルセイユのローヌ川を上り、シャンパーニュ地方の市場に交易品を集めるルートが存在した。

それは1492年にグラナダ王国が滅び、ジブラルタルをキリスト教徒が自由に通行出来るようになると衰退していく。

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ロンドンが交易の中心地となる契機は、1688年の名誉革命である。ネーデルラントの統領オラニエ公ウイレムが国王となり、アムステルダムから商人が移住していく。それによりロンドンが交易の中心地となっていく。一方でハンザ同盟は英国のやロシアの商業政策で市場を封鎖され、衰退していく。

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元の皇帝クビライが考えた交易システム:
銀の大循環。諸国の王に銀の塊を与える。王はそれをオルトク(商社:イスラム商人)に投資し、イスラム商人が中国にて銀を使用して買い物する。このように銀が循環する事で経済が栄えたとする。

第8章 中央ユーラシアを駆け抜けたトゥルクマン
―ヨーロッパが生まれる前の大活劇

552年に、突厥が中央ユーラシアを制覇するが、トルコ共和国の憲法では、この年にブミン・カガンが突厥の初代皇帝に即位した日を建国記念日にしている。

突厥はテュルクの音写であり、やがてテュルク人はイスラム化してトゥルクマンと呼ばれるようになる。

彼等は中東で王朝を形成するようになり、セルジューク族が1040年頃にセルジューク朝を開く。この時から、トゥルクマンの武力とペルシャ人官僚の組み合わせが見られるようになる。

その末尾にいるオスマン朝のウィーン包囲が、欧州が大きい国を作る契機となり、欧州固有の歴史が始まると考える?

第9章 アメリカとフランスの特異性
―人工国家の保守と革新

先祖との繋がりを断ち切って構築された国。

米国は、宗教的な理想を叶えようとする原理主義的な人々が、理想を明文化して英国には無い成文憲法を成り立ちとする契約国家になった。



米国と同盟を結んだフランスにも米国の影響が伝わり、フランス革命が発生する。

しかし、革命は過激化していく。宗教が諸悪の根源として、理性の祭典が行われた。革命歴(1793年~1805年)では、一日は10時間、一時間は100分、一分は100秒とされる。しかし、生活習慣を無視した改革は揺り戻しを呼び、ナポレオンが皇帝になる。

同じ国民 = 国民国家の幻想はフランス革命の中で生まれたとする。縁もゆかりも無い人々が同じ血族のように思える幻想。



この顛末を見て、英国人エドマンド・バークは、保守主義を唱える。人間はそれほど賢くないため、長い間に社会に定着した習慣を尊重すべきという経験主義を立脚点とする。

対して人工国家である米国やフランスでは、一般理念が強く表に出るとする。憲法や法律を基礎としているため、伝統を言い訳に出来ず、白黒をつけるしかない。

第10章 アヘン戦争
―東洋の没落と西洋の勃興の分水嶺

西洋のGDPが東洋を凌駕した時点。

著者はアヘン戦争において、林則徐を高く評価している。この辺りには違う見解もある。

以下は、「やる夫の英清戦争」へのリンク。

http://oyoguyaruo.blog72.fc2.com/blog-category-263.html

以下は、英国が中国からお茶を盗む話。



1820年には世界のGDPの32.9%を占めていた中国は、1870年には17.1%を占めるだけになっている。産業革命と国民国家の組み合わせに中国は勝てなかった。

終章 世界史の観点から日本を眺めてみよう
個人と同じように国にもピークがあり、それは20年~30年くらいとする。長期間栄えた国は少ない。

中国でも以下の四つしかピークが無いする。

①文景の治:西漢の文帝と景帝の時代
②貞観の治:唐の太宗李世民
③開元の治:唐の玄宗
④清の康熙帝、雍正帝の時代

日本における停滞も世界史から見れば当たり前の事かもしれない。

世界史の観点から見る事で、社会常識とは異なる観点から物事を見る事が出来るとする。

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