欲望の現象学

読んだ本の感想。

ルネ・ジラール著。1971年10月20日 初版第1刷発行。



年代が異なる複数の小説家の作品を辿る事で、歴史精神を感じる事が出来る。

<ミゲル・デ・セルバンテス>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9

<ギュスターヴ・フローベール>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB

<スタンダール>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AB

<マルセル・プルースト>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88

<フョードル・ドストエフスキー>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

第一章 ≪三角形的≫欲望
欲望には、以下の3つが必要とする。

①欲望する主体
②欲望される対象
③媒体(嫉妬されたり羨望される他者)

欲望する主体は、媒体を模倣しており、媒体が欲望する対象を欲する。

以下の小説群については、時代を下るに連れて欲望が模倣でなく、自発的な個人のものであるとカモフラージュされるようになっていく。

ドン・キホーテは、自らの手本を公言するが、スタンダールの小説に登場する人物は自らの主体性を強調する。ロマンティークな小説(媒体の存在を映すが解き明かす事が無い)からロマネスクな小説(媒体を解き明かす小説)へ。

【ドン・キホーテ】
ドン・キホーテは、騎士物語の主人公アマディースを模倣し、その従者サンチョはドン・キホーテを模倣する。彼等は自分の欲望を他者から借用している。

【ボヴァリー夫人】
エンマ・ボヴァリーは少女時代に読んだ通俗小説によって自発的感情を破壊されている。ボヴァリズム(理想と現実の相違に悩む様)について。

【赤と黒】
主人公ジュリアン・ソレルはナポレオンを模倣。マチルド・ド・ラ・モールは彼女の家系を手本にしている。虚栄心の概念。虚栄心の強い人間は、自らの欲望を他人から借用するしかない。

ジュリアン・ソレルは、フェルヴァック元帥夫人に言い寄り、それをマチルド・ド・ラ・モールに見せびらかす事で、彼女の模倣を刺激する。

⇒ある主体に特定の対象を欲望するには、主体に影響力を持つ第三者がその対象を欲望している事を知らせなくてはならない。すると媒体は「手本」であると同時に「障害物」になる

スタンダールの小説においては、「虚栄心」に対置するものとして自発的な「情熱」を置くが、彼の作品における強烈な欲望は「他者の欲望」の模倣である。

【失われし時を求めて】
スタンダールの虚栄が強調され、欲望として表現される。スノビスム(俗物根性:他人との差別化、差異化だけを意識した教養主義、貴族趣味の態度)の概念。欲望と憎悪の等価性が強調される。

【未成年/永遠の良人】
他人の欲望から逃れる事は出来ない。ドルゴルーキィ(息子)とヴェルシーロフ(父)の関係は媒体の概念によってしか解釈出来ない。パヴェル・パヴロヴィッチは自らの花嫁候補をヴェリチャニノフに見せる(媒体の本質を記述)。先行する他者の欲望が無ければ、自らの欲望を生み出せない人々。

⇒スタンダールは公的政治生活を主題とし、プルーストは個人生活を主題とし、ドストイェフスキーは家族生活を主題とする。媒体は接近していく。媒体が接近するほどに対象の役割が減少する

「カラマーゾフの兄弟」において、もっとも父親に似ているのはイヴァンで、最も似ていないのはアリョーシャだ。

スタンダールやプルーストはブルジョワの空位期間の小説家であり、過渡期を経る事無く封建から近代へ移行したロシアのドストイェフスキーはブルジョワの空位期間を知らない小説家とする。

*************

以下の2つの分類。

①外的媒介
媒体と主体の精神的距離が離れている。主体は公然と自分の手本を崇める。

②内的媒介
媒体と主体が重なり合う。主体は自らの模倣を隠す。媒体は「手本」であると同時に「障害物」であるため、主体は媒体を憎悪する。

内的媒介においては、主体は自らの模倣を隠蔽するために、自分の欲望が媒体に先立って存在したと断言する。欲望は対象だけに根差しており、敵対関係に責任があるのは媒体であると主張する。

ドン・キホーテの挿話「無分別な物好き」においては、ドストイェフスキーの「永遠の良人」と同型の物語が展開されるとする。

第二章 人間はお互いにとって神である
小説の主人公は、所有する事による自己存在の変貌を期待する。対象は媒体に追い付く手段でしかない。

欲望する主体は自らの媒体になりたい = 欲望の形而上的意味

主人公達は本質的に自分自身を憎んでいる。

【地下生活者の手記】
主人公はビリヤード室で自分を突き飛ばした将校に手紙を書こうとする。虚弱者である地下生活者は媒体たる将校になりたいのだ。

形而上的自律性においては、神の死後、神を受け継ぐのは人間になっている。各個人は、神無き自らの自尊を肯定出来ないが、他人は違うと思い、自分だけが除外されていると思う。宗教的世界における全人が真理とする原罪は、個人的秘密となった。

主体は聖なる遺産を引き継いでいるように見える他者を模倣しようとする。

【悪霊】
スタヴローギンは全作中人物の媒体である。自らの所有物の価値を感じるためにスタヴローギンに生贄を捧げる。自尊心の無いマリヤがスタヴローギンの仮面を剥がす事が出来る。

************

スタンダールは他者の模倣に過ぎない虚栄に代わる情熱的人間を描こうとしたが、信仰者でない情熱を想像出来なかった。リュシヤン・ルーヴェンは虚栄心と素朴の間を揺れ動き、ラミエルは操り人間になり、ジュリヤン・ソレルも偽善者になった。ジュリヤン・ソレルは自らを放棄する最後にしか真の情熱を感じない。

情熱的存在は盲目的信仰があった過去の存在であり、現在的存在は虚栄的になる。信仰を持たず、超越性無しに済ます事も出来ない。

************

媒体の選択を決定づけるのは否定的基準だ。逃走する存在を求める。

プルーストに登場するスノビスト達は、財力において自らに劣る貴族達を模倣する。貴族性が崩壊した平等世界における模倣が滑稽を生み出す。

第三章 欲望の変貌
他人になりたいという形而上的欲望は一つしかないが、欲望が具体化する個別的欲望は無限に変化する。

そして欲望の強さは媒体との距離に応じて強まる。媒体(アマディース)が離れているドン・キホーテは個別的欲望にそれほど苛まれない。ドン・キホーテは失敗しても、他の騎士なら成功したという結論を出して別の幸運を探す。

媒体が接近するに連れて対象の指示が正確になり、形而上的効力が増加し、対象が取り換え不可能になっていく。

特権がより失われた時代のスノッブ達(プルースト)は、虚栄者(スタンダール)よりも苦悩している。社会的相違が減少するほど、偉がりが引き起こされるとし、その極限がドストイェフスキーの作品とする。

対象を手に入れた途端に絶望するのなら、ドン・キホーテは絶望しないし、遠い存在を欲望するボヴァリー夫人は快楽を知っているが、スタンダール、プルーストの作品の登場人物達の快楽は減少していき、ドストイェフスキーでは考慮すらされなくなる。

媒体は欲望を投射するが、その具体物は変化し続け、プルーストは媒体によって投射される諸世界を「自己」と呼ぶ。過去の自己を記憶する事も、未来の自己を予感する事も出来ない。

神の永遠によって保証されていた統一性と安定性は無い。ドストイェフスキーの「白痴」においてムイシュキンは現代人は二つ三つもの観念に従う事が出来るとしている。

第四章 主人と奴隷
形而上的欲望の伝染力は強い。

ドン・キホーテにおいて、彼の友人達がドン・キホーテを狂気から癒そうと気違いの真似をする姿が描写される。

そして媒体は接近するほど伝染力が強くなる。

二重媒介:
互いが互いを「媒体」とする関係。対象を欲望するのでなく、他人が対象を所有する事を恐れる。

そして、性的欲望においては、愛される側の存在が、恋する者の視点で対象と主体に二分される。恋する男、恋される女、恋される女の肉体。自分の恋人の欲望を模倣する事で自分自身を欲望する(コケットリー)。



欲望される女は自らの貴重な身柄を渡したくないが、欲望を引き起こさない身柄は貴重でない。彼女が恋する男の欲望を焚き付けるのは、身を任せる事を拒むためだ。

小説世界において欲望は対抗する他の欲望を発生させる。スタンダールの作品において、虚栄的女性に彼女を欲望していると示す事は自分を劣ったものと見せる事である。

第五章 「赤」と「黒」
スタンダールの小説は、「現代社会において人々は何故幸福ではないのか?」という問いを考える。

スタンダールは、我々は虚栄的(他者の模倣)である故に幸福でないとする。

社会が階層化していた時代は異なる階層を比較しようとは思わなかった。比較とは接近であり、同一水準に置く事を意味する。階層が崩壊した中で、人々は互いに模倣し合うようになる。神への盲目的崇拝は、多数のライバルへの憎悪に置き換えられる。

増大する平等性とは媒体の接近である。それは調和を産み出さずに競り合いを産み出す。

第六章 スタンダール、セルバンテス、
    フロベールにおける技法の諸問題

身分制が崩壊する中での平等が産み出す混乱の解明。

セルバンテスにおいては、例外が形而上的に欲望(他者の模倣)しており、多数が自発的に欲望している。スタンダールにおいては例外が自発的に欲望し、多数が形而上的に欲望している。

スタンダールの例外(自発性)は、原則的には地方、女、平民等の不利な状況で開花する。それは社会の伝統的秩序の反映だ。形而上的欲望が一般化し、重点が個人(主人公)から集団に移行する。

第七章 主人公の苦行精神
スタンダールの偽善(イポクリジー)。自らの欲望を見せるとライバルの欲望を引き起こすため、対象を手に入れるには欲望を隠さなくてはならない。

「赤と黒」におけるジュリヤン・ソレルは、欲望のための禁欲を実行する。少年時代の彼はナポレオンに抱いている気持ちを他人に見せた自己への罰として片方の腕を繃帯で吊ったままにする。終盤におけるマチルドに対する無関心も、彼女への欲望を見せた事による。

「赤」の世界において暴力的自由が発露され、「黒」の世界では情熱が隠される。

「悪霊」におけるスタヴローギンが熱狂されるのは、彼が手を差し伸べないからだ。

主人は欲望を装い隠す事で他人の欲望を操るが、対象を所有した事によりその価値は喪失される。スタヴローギンは彼に抵抗する対象を探し求めるが見い出す事が出来ない。

スタンダールは主人の視点から物語を記述するが、ドストイェフスキーのは奴隷的境遇の主人公を描く。

第八章 マゾヒスムとサディスム
所有されるままになっている対象は無価値であり、主人は乗り越え難い障害を求める。

マゾヒスト:
疲れた主人。絶えざる成功によって自分自身の挫折を願う。障害が模倣を産み出す。自分に加えられる懲罰に、自らが値するという思想。

ジュリヤン・ソレルはマチルドの軽蔑からしか起因しない激しい情熱を持つ。媒体の接近がマゾヒスムへの発展を生む。絶対に乗り越える事の出来ない障害の先にある神性。

サディスム:
マゾヒスムの弁証的裏返し。サディストは媒体の役割を演じる。責め苛む者としての神の模倣。自らの犠牲をもう一人の自分として、自分が媒体であると幻想する。

他人の中に苦しむ自分を認める。

第九章 プルーストの世界
「失われし時を求めて」のいて主人公が幼少期を過ごしたコンブレーは閉ざされた世界だ。コンブレーの人々は、自らの生活を知らない他所者を知る事で愛郷的意識を感じる。そしてスワン家が貴族階級と交流がある事を認識出来ない。知的な異物排除機能。

こうしたコンブレーの構造と社交的サロンには類似性がある。ヴェルデュラン家のサロンは集会の場所でなく、同一の思想を持つ閉ざされた文化だ。

スワンが社会的地位を喪失すると、異物としてヴェルデュラン家のサロンから投げ出される。コンブレーよりも激しい閉鎖性は内的媒介の作用よって説明されるとする。

コンブレーでの大伯母は一家の精神的支柱であるが、ヴェルデュラン家のサロンにおけるサニエットは類似の役割をしているのに罵倒される。サロンが自らに侮蔑の念を抱いているからだ。

彼等は貴族性に憧れており、ヴェルデュラン夫人は憧れを隠してゲルマント公爵家のサロンにて欲望を達成する事を望む。

プルーストはコンブレーには愛国心を語り、ヴェルデュラン家には排外主義を語る。愛国心は外的媒介から派生し英雄を尊崇するが、排外主義は内的媒介として他国との対抗関係に依存する。

人間の身分的差異が無くなった時、別種の抽象的競り合いが現れる。

プルーストの小説においては、諸要求が満たされ、具体的差別が人間関係を支配する事を止めた時に出現する新しい疎外形態を描写している。スノビズム(貴族の模倣)は同一所得、同一階級、同一伝統に属する個人間に抽象的障壁を作る。

第十章 プルーストとドストイェフスキー
    における技法の諸問題

自尊心の囚われ人である主観は、誤解に捧げられている。小説家は、他人の立場に身を置く主観を乗り越えてしまったために知覚の不可能性を解明出来る。

「失われし時を求めて」は小説であると同時に注釈書であり、プルーストの考察が作品に混入する。

コンブレーの後にはパリが到来する。田舎の旧家はヴェルデュラン家のサロンとなり、媒体が接近する事で欲望が生じる。作中人物の意識は嘘をつく。

例えば、ヴェルデュラン夫人はゲルマント家に嫌悪感を感じると主張するが、ゲルマント家に迎えられる事を欲望する。欲望のための禁欲は自由意志の支配下にない。

スタンダールの創造した人物は、自らの欲望を自分自身に隠していないが、プルーストにおいては内面描写さえ真実でない。作中人物の心情を知るには、小説時点における特定時点の未来を知る必要がある。そのためには非人称的文体から人称的文体への移行が必要であり、作品世界の中に語り手が存在する事を要求する。

スタンダールやフロベールの作中人物達は時間によって寸断されていないが、プルーストの作中人物は不安定で豹変ぶりを記録する事で欲望の真実が解明される。

作中人物の帰属する全世界が偶像によって再編成されるが、作中人物自身は、自らが自らの本源に忠実であると思い込んでいる。ヴェルデュラン夫人は自らの忠誠者を裏切った事に気付かない。

主人公マルセルは、現在の自己の死を予見しているし、それを恐れているが、結局は自己を忘れ去って過去の自己の存在さえ信じなくなる。

そして「失われし時を求めて」に登場するシャルリュス男爵は賛美すべき迫害者に平伏する。コンブレー、ヴェルデュラン家に続く形而上的欲望の第三段階。

***************

感情を隠し、言葉を示す技法はドストイェフスキーの技法である。ドストイェフスキーの作品は場面場面に分割されており、登場人物達の心中を万華鏡のように見せる。一つの場面だけでは登場人物の真実を解き明かす事が出来ないため、場面を比較考証しなくてはならない。

プルーストのように作者が変転を記憶するのでなく、読者が記憶しなくてはならない。

「悪霊」の登場人物達は「親の世代」と「子供の世代(憑かれた人々)」に分けられ、親の世代は媒体から離れ、恒常性についての幻影的確信を人間存在に抱いている。ドストイェフスキーはプルーストと同様に語り手を採用し、年代記的技法に傾ていく。

第十一章 ドストイェフスキー黙示録
多くの小説家にとって自由は自発性の同義語である。自由な人物を描写するには、行動を予見不可能な人物としなくてはならない。しかし、それは自律性についての幻想を満足させるまやかしとする。

ドストイェフスキーの作品では、主人公は「自分は一人だが、他人達は一緒だ」とする。しかし、多数の人間が同じ事を考えている。画一性と戦っているように見えて、画一性に向かう。全ての人間に対抗する主人公と自分を同一視する事で、安易な個性化を行う。

他人よりも強烈に欲望する事で自発性 = 神性を証明しようとした主人公は、現代小説においては弱い欲望しか持たず、強烈に欲望するのは他者である。

自分の精神が極端に脆弱である事に気付いた主体は、他者の幻影的神性の中に逃げようとする。自分が神でない事に絶望し、聖なるものを探す。

第十二章 結び
あらゆる小説において、物語の終盤で主人公が自らの昔の観念を明確に否定する。

ドン・キホーテの騎士道的情熱は悪魔の憑依として記される。「赤と黒」におけるジュリヤン・ソレルも自己の権力への意志を否定して解脱する。ラスコーリニコフは超人を放擲する。

それらに共通するのは、自己の媒体の否認である。それは神性の断念であり、自尊心の放棄である。それにより主人公は奴隷状態を止める。

真実に到達する事によって死んだ主人公は、自己の洞察力の遺産を創造者(小説家)に与える。フロベールは、「ボヴァリー夫人は私だ」と表現した。ボヴァリー夫人は軽蔑すべき他者として理解されたが、やがて自己と他者が一体になる。

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