仏教の冷たさ キリスト教の危うさ

読んだ本の感想。

ネルケ無方著。2016年5月20日 初版第一刷発行。



仏教の冷たさ:
現状を受容し打開策を考えない怠慢。

キリスト教の危うさ:
愛を主張しながら、憎しみ合う無遠慮。

序章 【現実問題としての宗教】
   一神教はなぜ争うのか

一神教には、相手を認める事が出来ないという欠点がある。仏教では敵を想定した時点で負けになる。

仏教的な「お互い様」という感覚でなく、善悪の明確な判断基準があり、悪を殺す事は善行となる。

第1章 【比較宗教学】
    仏教は科学的!?キリスト教は非科学的!?

以下の2つの哲学。

①三人称の哲学
偉大な哲学者の思想について学ぶ。

②一人称の哲学
自ら哲学する。人は如何にして生きるべきか。

自然科学における一人称のアプローチ(公理を盲目的に信じるのでなく、自分で確認する)の根源は旧約聖書にあるとする。人間は神に似せて作られたので、神に代わって世界を支配する義務がある。そのためには、神が世界を創造した設計図を解明しなくてはならない。

実証可能な思想である仏教徒比較して、キリスト教には精神的拠り所としての宗教の側面が強い?欧米では強く自律を求められ、親が怖いというイメージがある。自分の親に頼れないため、恋愛を拠り所にする傾向がある。異性に親代わりを求め、最終的に派神を求める。自立を求められながら、実際には自立出来ない。欧米人にとっての宗教は親への切望だ。対して、「和」を重視する日本人の拠り所は共同体である。

仏教では絶対者を設定せずに、信じる事よりも教えを実践する事が重視される。自己が自己の拠り所となる(大般涅槃経)。明治時代に「freedom」を翻訳する際に仏教用語の「自由」が使用され、自己以外に拠り所があると、そのもに支配されてしまうという仏教的思想による。それは絶対依存とは正反対の思想である。

さらに仏教には「縁起」があり全てが因果関係で関係しており、「無我」として全てに実態が無いとする。絶対神は存在しない。

仏教的創造:
パーリ仏典の『起世院本教』では、世界は縮小と膨張を繰り返す動的状態とされる。宇宙が最小限に縮小した時、全ての生物は天上界におり、宇宙が膨張すると人間界が現れる。

人間の素には男女差が無く、地殻から美味しそうな匂いがして、美味しそうな物を食べた事で、人間の素に身体が出来る。地殻に生えた青い物(苔)を食べ、次に葛を食べ、草の実を食べ・・・・。

最初の人間は互いの身体の凹凸に興味を持ち、雄と雌は求めあう。そして相手を自分の所有物として意識し、家を建て、田畑を個人で所有するようになると盗みや殺しが発生する。

⇒聖書の物語と似ているらしい

キリスト教においては、実体としての人格神があり、人格があるから思考出来る事になる。仏教では、世界は因果法則によって成立しており、人間は偶然に発生したので、人間が世界を支配するのでなく、繋がりの中で生きる事を強調する。

第2章 【「愛」について】
    イエスの「愛」とブッダの「慈悲」

キリスト教では「言葉」を大切にしており、神と人間との契約を宗教とする。聖書は神の言葉であり、言葉が無くてはキリスト教は成り立たない。

仏教では「不立文字」、「教外別伝」として、以心伝心や見真似学習によって多くを語る必要は無いとする。

英語では「愛」の方向性が明確であるが、主語が明確でない日本語には一貫した自己同一性を表す言葉が無い。

『正法眼蔵』の「菩提薩埵四摂法」では、自分と周囲を繋げる四つの方法があるとする。

①布施
自他の所有の区別をなくす。
②愛語
言葉の布施であり、挨拶を含む。
③利他
人と協力する事。
④同事
相手と自分が同じ命を生きている実感。

仏教では「愛」を「四無量心」と言う。慈(父のように励ます)、悲(母のようにともに悲しむ)、喜(ともに喜ぶ)、捨(施した恩も受けた害も忘れる無執着)。

キリスト教には、愛を表す言葉が4つあるとする。

①エロス
プラトニック・ラブの本当の意味。パートナーという「もう一人の私」kらの愛。恋愛から性愛までを含む。
②ストルゲー
母子愛等の無条件の愛着。
③フィリア
同志愛として一つの目標を共有する。友情、友愛等の連帯感。
④アガペー
神の愛として、敵を含む宇宙全体に向けられる。

⇒キリスト教では敵を愛すが、仏教では敵味方という執着を手放す事を目標とする

第3章 【2大宗教の成立と発展】
    仏教とキリスト教はいかにしてつくられたか

仏教の成立:
釈尊が80歳で亡くなった後、その教えは各部派で400年間口頭で伝承され、結集という宗教会議が釈尊の滅後すぐと、約100年後、紀元前250年頃に行われている。

偶像崇拝に否定的だった仏教は、アレクサンダー大王が勢力を北インドまで伸ばしてからヘレニズムの影響により、仏像を沢山彫るようになったらしい。

釈尊の教えが文字で書き留められたのは、紀元前1世紀のスリランカで行われた第4結集においてであるが、この会議には上座部仏教のみ参加し、大乗仏教では2世紀の北インドはクシャーナ朝で行われた別会議を第4結集と呼ぶ。

日本の浄土宗に影響した『浄土三部経』の成立は1世紀~2世紀頃で、シルクロードで一神教の影響を受けたという説がある。阿弥陀如来は一神教の神?

キリスト教の成立:
キリスト教宣教師がエルサレムで最初に会議をしたのは、50年より早い時点とされる。その頃には福音書すら書かれていない。未だにキリスト教はユダヤ教の一派とされていた。

当初はユダヤ人のみに行われていた宣教は、やがて異邦人にも行われる。神を信じる者が救われるので、それ以外の条件は無い。

迫害者サウロが転向した使徒パウロが指導する形でキリスト教は世界宗教の礎を築く。律法でなく信仰を重視し、イエスは神であり、人間が神のようになれないから世界に現れ、十字架で人類の罪を贖ったとする。

以下は、イエスとパウロの宗教観の違い。

①イエスの人間性と神性
パウロは、イエスに救世主としの働きを期待せず、神だから磔になり復活したとする。初期クリスチャンにはイエスの復活・昇天は無く、それは福音書から付け足された話である。

イエスは愛を第一の戒めとして神を愛し、隣人を愛する事を説いたが、パウロの言葉では「神を愛せ」という言葉が抜け落ちる。愛は神から人間に向かう事になり、神から頂いた命を生きる隣人を愛さなくてはならない。厳しかった神が愛そのもに変わる。

「神を愛せ」と命じたイエスがパウロによって「神から人類へのプレゼント」となる。一人称から二人称への変容。そして愛のベクトルは隣人へ向かい、神から与えられる愛から隣人愛(三人称)へ転換する。

⇒神を必要とせず、隣人愛によって普遍的となる三人称の世界宗教の誕生

②原罪と義認の関係
ユダヤ教とイスラム教では、最後の審判において正邪が分けられる。その判断基準は人間の一生涯を通しての行為であり、その総計した結果が黒字なら天国、赤字なら地獄へ行く。

しかし、キリスト教では良い事をしても救われない事があるし、悪い事をしても救われる事がある。旧約聖書には原罪の言葉が無く、アダムとイブの罪は人間に継承されない。個人が律法を守っていれば「義」となる。

同様に、イエスは律法の厳守を課したが、パウロはイエスによる贖いを信じるか否かが重要とした。イエスが磔になった事で、それまでの人類の罪が贖われ、神との契約は更改された。

③神の国の実現
イエスによると神の国は別世界でなく、現世で実現させるべきものとする。自らが主体となり、イエスという道を通って神の国を目指す。しかし、パウロは原罪の贖いは神(イエス)にしか出来ないとして、信じる事によって救われるとした。

第4章 【仏教の本質】
    自分だけの「解脱」を目指す、仏教の冷たさ

仏教における以下のアプローチ。

一人称:
私の生活から離れた所に仏教は無い。私自身が仏陀となって、私を救う。

二人称:
仏から救われるためには、まず自分を忘れる必要がある。自力を諦めて他力に任せて救われる。

三人称:
菩薩として社会の中で働くアプローチ。

自他の救いに関する以下の違い。

○キリスト教
創造主である神と、被創造物である世界には隔たりがある。神がイエスとして受肉し、神を信じる事で天国に上り、永遠の命を得る。

○仏教
神も迷える者であり修業しなければ解脱出来ない。罪ではなく業(原因があれば結果がある)があり、仏陀でも因果関係を変えられない。執着を断ち切る事で因果関係から解脱し、そのために自分が仏陀になる。

⇒仏教における仏陀は、救世主でなく修業の実物見本であり、自分自身による修業が大切になる

上記の観念は一人称の仏教として、自分の問題のみを解決しようとする。浄土教では二人称として、凡人は仏陀になれないため、阿弥陀仏の他力による救いが約束されている。極楽往生は念仏を唱えるだけで叶えられる。しかし、ここでも自分だけしか救われないという問題が発生する。

三人称の仏教では、自分の解脱を後回しにして他人の救いを優先するが、自分さえ救えない人間には他人を救えないという矛盾がある。

日本の仏教の多くは、三人称の仏教であり、回向という自分が積んだ徳を他に回すという思想がある。

以下は、仏教経済学について著した本。人のために働き、働く事自体が報酬になるという思想。



第5章 【キリスト教の本質】
    「排他主義」に陥りやすい、キリスト教の危うさ

キリスト教ではイエス到来によって神との契約が更改されたとして、旧約聖書と新約聖書を聖典とする。古い契約(旧約聖書)も律法の立脚点、歴史書として大切にする。

聖書は中近東の文明を背景に、他の文化との差別化、独立宣言、共同体内部に向けての法令という側面があり、さらに民族の系図を証明する歴史書でもある。

そのようにしてキリスト教はユダヤ教の聖典を立脚点にしているが、ユダヤ教徒はイエスを救世主と認めていない。救世主は未だに到来を待たれている。

イスラム教の聖典コーランには、イエスが「イーサー」として登場し、奇蹟を起こして天に昇った事になっている。イスラム教は旧約聖書、新約聖書にコーランを加えた形になっている。しかしながら、イスラム教ではイエスは預言者という位置づけになっている。

⇒キリスト教のみがイエスを神とする

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、以下の「モーセ五書」が共通している。

①創世記
創造主である神が一週間で世界を創造した話から、ノアの方舟、バベルの塔崩壊を経て、ユダヤ教太祖となるアブラハムとその子孫の話で終わる。

⇒ユダヤ教・キリスト教ではアブラハムの長男を正妻サラとの次男イサクとし、イスラム教では奴隷ハガルとの長男イシュマエルとする

②出エジプト記
モーセが率いるユダヤ人がエジプトから脱出する話。神の本質は嫉妬であり、他の神を信じる人々との契約も結んではならないとした。

③レビ記
ユダヤ教徒のために細かい律法が書いてある。獣姦した者同様に、犯された動物も殺す規定には、日本神道の穢れに近い観念があるとする。キリスト教では、イエス自身が供え物として自らを捧げたため、贖いや神への供物の観念が無くなったとする。

④民数記
人口調査の記述が多い。

⑤申命記
死ぬ間際のモーセが3つの説話で再度の神との契約を繰り返す。モーセは約束の地カナンに入る事を神に許されなかったため、モーセ五書はカナン占領の手前で終わっている。許されなかった理由は、神の目にモーセが臆病者に映ったからとする。

****************

著者は、人格神である時点でキリスト教は徹底した一神教に発達していないとする。神を唯一とするなら、他の宗教の神も自らの神と同一であるはず。

終章 【宗教の未来】
   「宗教のニオイ」をマイルドにする、日本人の智慧

リベラル = 性善説(人類の進歩を信じる)と保守 = 性悪説(人間を疑う)として対比する。

解放を目指す左派に対して、右派は壁を作って守られた空間を作ろうとする。

著者は日本のキリスト教をライトとして、キリスト教徒であっても実家が浄土真宗であれば浄土真宗で葬儀する事を柔軟と解釈する?

イスラム教やキリスト教を日本で柔軟にアク抜きして海外に輸出する提案?

日本の学校で掃除がきちんと行われるのは仏教の影響であるが、それが宗教的行為と気付かれないほどに宗教の気配が日本からは消えている。

「沈黙」の中では、ポルトガル人神父が「この国は全てのものを腐らせてしまう底無しの沼だ」と語るが、それはキリスト教の熟成を意味しているのかもしれない。



宗教を善悪でなく、美味しい不味いの観点から論じる視点?

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